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🎥 河童のクゥと夏休み

★★★★☆


「世の中変えたきゃ、真ん中行かなきゃならん。」

そんな趣旨のことを言っていたのは、たしか浅田彰氏だったような気がするけれど、記憶は定かではない。

なんにせよ、原恵一監督作品を観ていると、必ずこの言葉を思い出す。

「大量消費社会への抵抗」という性格を持つ本作の製作委員会に、電通やらソニー・ミュージックエンターテイメントやら三井物産やらが名を連ねている。その不気味な皮肉としか言いようがない事実から、原監督は逃げていない。大量消費社会の真ん中で、大量消費社会の恩恵を受けながら作品を作る、その業を、背中にぴったり張り付いた甲羅の如くに背負いながら、それでもなんとかしようと必死に足掻いている様が、画面から透けて見えるような気がした。


河童のクゥと夏休み on amazon prime


↑ のリンクを貼るためにあらためて開いた amazon prime のページに、丁寧にカッコ付きで刻まれた、“いま大切なこと”、“泣ける大人アニメ”、!!、といった文字列に、ハァァァァァと脱力してしまう。通俗的な言葉の濫用へのお叱りは George Orwell 先生にお任せするとして、そんな生易しいもんじゃないよ。

むしろ歳を重ねていればいるほど、堪えようがないほど痛くて辛くて恥ずかしいんだ。おかげさまでストリーミングを満喫しちゃってることが、悩ましいやら情けないやらで、こちとらアンビバレンスに押し潰されそうなんだって。

生易しくはないけれど、やさしい映画だ。やさしくあろうとしている映画、といった方が正確かもしれない。画面のこちら側にいる僕らのほとんどは、本作の批判対象であることを免れない。ただし、客観的に見れば呆れかえるほど愚かでろくなもんじゃない僕らを、原監督は高みから断罪したりはしない。

しかしグータッチもしてくれない。
©️東スポ

児童文学をベースにした、主に子供をターゲットにした作品であることも、その理由の一つだろう。だがそれ以上に、意識的に慎ましくあろうとしているように思える。「自分にはそこまでする資格はない」とい自重しつつ、それでもやっておかなければいけないと意を決して、「あなたはどう?君はどう?」と、控えめに問いかけているのではなかろうか。

そして、沈黙する僕らに — 僕らの分身である物語中の加害者たちにも — さらに詰め寄るようなことはしない。第3幕で大掛かりなクライマックスを迎えたあと、物語は意外とあっさり第4幕へと進んでいく。小さな、けれどとても密度が高くて印象的なエピソードを挟んで。

いじめっ子をクゥから教わった相撲で倒し、何度も何度も地面へ打ちつける康一。「話し、してくれて、ありがとう」と感謝を口にした刹那、むせび泣く菊池。苦痛や苦悩の爆発で放出されるエネルギーは、「苦」の一文字にどれだけの密度があるかで変わる。原監督は、あざといメロドラマをこれみよがしに垂れ流すことなく、地味なディテールを丹念に描いた薄いレイヤーを重ね続けることで、曝け出された感情に圧倒的な説得力を持たせた。いつの間にか口元で握り締めていた拳が、じっとり汗ばんでいる。

エンターテイメント作品としてまとめあげること優先するなら、ここで話が終わっても良かったのではないかという気がする。あのクライマックスでクゥは神話の世界へ召され、康一と菊池がクゥを見つけたあの場所で終わるというふうに。しかし、原監督の選択は違った。そこまでに描いてきた社会の「少し外側」で、劇中最も穏やかなトーンで、第4幕が語られる。

ここからは、本格的に僕なりの解釈なので、だいぶ間違っているかもしれない。

菊池は、多分だいぶ以前から「少し外側」にいた。他の子たちとは違う世界軸を持っている。だから虐められたのだろうし、それでも平静を装っていられたし、「俺なんかよりずっとクゥの気持ちわかってた」(康一)のだろう。「少し外側」は、クゥやおっさんの心の声が聴こえて、「真ん中」からの圧に苦しむ位置だ。康一は、菊池を庇った時を境に「少し外側」に足を踏み入れた。クゥには、それがわかった。

「少し外側」いる菊池や康一の未来には、また ー ひょっとしたらもっと大きな ー 苦しみが待ち受けているかもしれない。それでも彼らをそこに行かせたかった、他ならぬ原監督こそが、体は「真ん中」に、心は「少し外側」に置いている。そこでなんとかしようと足掻いている。前述のエピソード中に現れた、康一の暴力と菊池の涙は、原監督自身の心の叫びであり、嗚咽であるように思えた。

最後にクゥは沖縄に身を寄せることになるが、周りを見渡してみれば、沖縄まで行かずとも意外と近くに、目に見える形で「少し外側」がある。神社だ。神社は神のみならず、河童やキジムナーといった妖怪や精霊も祀る聖域であり、祭りともなれば聖と俗が交わる空間になる。「若いおねぇちゃんのいるスナックにも行けるしよ!」というキジムナーのセリフには、なんだか救われたような気分になった。なんやかんやあっても、聖と俗が交わる場所があるうちは大丈夫かな、て。

苦しいが希望の火を灯せる場所として、原監督は「真ん中の少し外側」を描き、そこで生きる覚悟を表明したのだ。それをどう受け取るかは、僕らに委ねられている。


きっとそれは子どもへの配慮に違いないのだけれど、やや雄弁に過ぎるのではと感じたセリフが散見した分、大人目線で★ひとつ減。

堪えようがないほど痛くて辛くて恥ずかしくて、悩ましいやら情けないやらで押し潰されそうになったけど、やっぱりやさしい映画だった。コメディタッチを失わずにいてくれたことも含めて。

クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』や『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ アッパレ!戦国大合戦』 と同じように語り継がれて欲しい。


  • ★★★★★ 出会えたことに心底感謝の生涯ベスト級

  • ★★★★☆ 観逃さなく良かった心に残る逸品

  • ★★★☆☆ 手放しには褒めれないが捨てがたい魅力あり

  • ★★☆☆☆ 見直したら良いとこも見つかるかもしれない

  • ★☆☆☆☆ なぜ作った?

  • ☆☆☆☆☆ 後悔しかない



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