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📕The Picture of Dorian Gray

★★★☆☆


ティモシー・シャラメは、今おいくつ? 26歳? 彼がお若いうちに、ぜひまた映画化して欲しいですね。ヘンリー卿はトム・ヒドルストン、バジル画伯はドーナル・グリーソン、可哀想なシヴィルにフローレンス・ピュー、シヴィル姉の復讐を誓うジェームズにはウィル・ポールターでお願いします。

いつか読みたいと思いながらも先送りにしている、超有名作家の超有名作品はいくらでもあって、これもその一つだった。期待を抱いての初読。

The Picture of Dorian Gray
by Oscar Wilde,
illustrated Kindle edition

結論から先に述べてしまうと、やや拍子抜けというか、消化不良のような気分で読み終えた。いみじくもワイルド自身が序文で “There is no such thing as a moral or an immoral book. Books are well written, or badly written. That is all.” (道徳的な書物とか非道徳的な書物といったものは存在しない。書物は巧みに書かれているか、巧みに書かれていないか、そのどちらかである。ただそれだけでしかない。)と述べている通り、本書について道徳や不道徳といった価値観からの評価は野暮ってもんだし、読者を不快にさせるための不快な物語として、よくできてるとは思う。思うのだが!(← ワイルドはセリフ以外の記述にも「!」をよく使う。そこに彼の興奮の尺度が滲み出ているようで微笑しい。)

物語の最初のクライマックスである、シヴィルの死の一幕。天性の女優シヴィルは、ドリアンと恋に落ち、現実世界での喜びに浸ると、凡庸以下の役者に成り下がってしまう。芸術的価値を失ったシヴィルに幻滅したドリアンは、彼女に罵声を浴びせ、三行半を突きつける。家に戻り醜く変貌した自分の肖像画を目にしたドリアンは、ひどくうろたえ、シビルに謝罪し、結婚する意志を固める。翌日、ヘンリー卿がやってきて、シビルの訃報(おそらく自殺だろうとされている)を告げると、ドリアンは悲嘆も後悔もできず、ついさっきまで愛していた女性の死を冷め切った心で諦観している自分に気づく。ヘンリー卿はそんな彼を非難しないどころか、むしろ賞賛する。それがトリガーとなって、ドリアンは享楽に耽る生活を送るようになり、それと並行して彼の肖像画は徐々に醜さを増していく。

この辺りから、僕は胃の調子が悪くなり始める。

ワイルドは、ドリアンの行動やヘンリー卿の影響で育んだ価値観を「非人間的なるもの」と位置付け、ドリアンを20年近くに渡って若さを保つ、外見的にはまさに非人間的な存在とし、彼の業を肖像画に背負わせる。また、バジル画伯をはじめとする脇役たちの言動に、ドリアンやヘンリー卿と対立する「人間的なるもの」を代弁させることで、 — 序文に応じる形で解釈するなら — 「不道徳を巧みに描く」試みを確信犯的にグイグイ進めていく。少なくとも僕の目にはそう映り、そしてそれがあまりうまくいっていない気がするのだ。

才能に惚れたことを恋愛感情と混同し、その才能がなければつまんないやつだなと後になって失望してしまうなんていうのは、よくある極めて生々しい人間的な心の動きではなかろうか。死を悲嘆できないこともそうだ。それは置いておくとして、シヴィルの件を皮切りにドリアンはニヒリズムを通過してニーチェ的な「超人」化していくのかと思いきや、そうはならない。物語が進むにつれて際立ってくるドリアンの性質は、肖像画が示す醜さより、むしろ幼さだ。

永遠の若さをと引き換えに彼から離れていったのは、人間性や道徳ではなく、肉体的な老いでもなく、成長あるいは成熟という類のものだと思う。ことあるごとに彼が見せる狂った行動は、まるでおねしょにうろたえて隠蔽工作を謀るガキのようだ。享楽は享楽で、漫画やゲームといった娯楽に現実逃避するの同レベルに過ぎず、たまたま貴族だったもんだからああいうことになってるだけのように見える。長続きはしないが興味を持っている間は徹底的に追及していくのも、財力に支えられてのことであって、札束で顔を引っ叩かれているような気分になる。しかもそのデカダンげな生き方は、ほぼほぼヘンリー卿による誘導の結果であり、主体的な選択によるものではない。ドリアン自身も運命論で片付ける始末だ。物語の進行に合わせて実年齢が増していくだけに、幼いどころか、いかにも小物という印象を抱かせる。

そのために、バジルのキャラクター造形にも疑念が生じる。ドリアンの魅力に取り憑かれた彼も、結局は人を一面的な美醜でしか判断していなかったことになり、こいつら同じ穴の狢じゃねぇかと思えてしまうのだ。ドリアンもバジルも、惨めなほど人間臭くて、この物語のファンタジーを成立させるには、リアリティラインがあまりに手前すぎないだろうか。

ヘンリー卿も然りで、ダークファンタジーのヴィランとしては小粒だ。バジルや周囲の貴族が顔をしかめるような、特異な思想を持っているのは結構なのだけれど、「こんな風に考えてる俺ってクール」とばかりに、いつ息継ぎしてんだくらいの勢いで言葉を並べ立てる様子を読んでると、「中二か!」とツッコミを入れたくなる。そして肝心の美意識なり哲学なりに熱量が足りない。要するにこの人退屈してんだろうなくらいにしか思えない。

こういった感想は、時代の違いから生じるものなのかもしれない。オスカー・ワイルドの時代には十分にぶっ飛んだ設定だったのかもしれない。けれど僕は、ジョーカー(ダークナイト)や村田夫妻(冷たい熱帯魚)のような暗黒超人を見てしまっている。学校や職場の日常が、よっぽど酷い奴らで溢れかえっていることを知っている。だから物足りない。たわいもない人間がたわいもないことでたわいもなく転落していくんだよとワイルドが言いたかったのだとしたら、僕はうまいこと彼の掌で転がされたことになるのだが。

ここまでの話の延長線上で、道徳と不道徳、良心と悪意、人間性と非人間性の線引きについて、腑に落ちない点がまだ散見するのだけれど、風呂敷が広がりすぎる気がするので、その話はやめとく。

こうやっていろいろ考え、綴っているということは、きっと僕は楽しんで読んだのだろうし、実際読み飽きることはなかった。19世期末のリアリティを押さえつつ、今日的なアレンジを施したら、かなりいい映画が出来上がる気がする。執筆当時の雰囲気を折に触れては学びながら、再読を繰り返そうと思う。


  • ★★★★★・・・出会えたことに心底感謝の生涯ベスト級

  • ★★★★☆・・・見逃さなく良かった心に残る逸品

  • ★★★☆☆・・・手放しには褒めれないが捨てがたい魅力あり

  • ★★☆☆☆・・・読み直したら良いとこも見つかるかもしれない

  • ★☆☆☆☆・・・なぜ書いた?

  • ☆☆☆☆☆・・・後悔しかない



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