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「校則」は社会の課題である件

5月13日に高知市内で行われた、校則講演会「これからの『校則』の話をしよう!」に参加してきました。

図書館オーテピアで行われていたんですが、70名ぐらい参加してました。高校生もチラホラいましたね。

NHK高知のの夕方のニュースで取り上げられておりました。

高校生が話していたこと

スカートを折って、シュシュをしているだけで呼び出しをうけた。何か法を犯したことをしているわけではないのに。

そして、「なぜダメのか?」と問うと、返ってくのは「ルールだから」。追加されるのは「周りの方々から(言われる)」「(高校生に)おしゃれは必要ない」「(制服があるのに)統一感がない」という回答。

人は見た目でで判断してはいけないといっているのに、おかしくない?
論理的な破綻をしているのでは?

と。至極まともなことを高校生は主張しているように感じました。なんですかね、これ。

あと、高校生の話の中で出てきたのですが、
「制服を着た状態でくるっと回って、姿のチェック」をされるとか。なんでしょうね。これ。ハラスメントじゃないだろうかと感じましたよ。

現場の教員が話していたこと

高校生の意見を聞いて耳がいたい気持ちである。学校の先生が意見に対して反論できないから「ルールだから」で終わらせてるのではないでしょうかと。本音としては「ここまで決めなきゃいけないの?」と。

「校則はルールだから守れ」というのだが、ルールを決めるルールは存在しない。教員もどうしたら変えられるのか「わからない」というのが本音と述べていました。

山本さんのお話

メインである大東文化大の山本准教授の講演の中で紹介されていたこと。

校則の定義

法的拘束力は存在しないが、違反した場合には事実上の不利益がともなう。また、明文化されていないものも含まれるというのが、学術的な解釈。

最終的な判断をするのは、校長であるということ。

という前提条件からお話が始まりました。「校則の在り方は、特に法令上は規定されていないものの、これまでの判例では、社会通念上合理的と認められる範囲において、教育目標の実現という観点から校長が定めるものとされています。」と生徒指導提要にも紹介されてるんですよ。https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/seitoshidou/1404008_00001.htm

校長が定めるものなんですよ。社会通念上合理的に認められる範囲において。

校則問題の悲劇的結末

校則問題からくる悲劇的な結末があった事例として以下の件を紹介されていた。

穏健な教師の転落 岐陽高校体罰死事件 岐阜県 1985年
割れ窓理論に基づく公開処刑 新座第二中学校指導死事件 埼玉県 2000年
姫路工業高校卒業式出席拒否事件 兵庫県 2023年

そして、こうした悲劇的な結末を引き起こしてしまうのは、学校、特に教員の仕事環境の中に以下のような構造があるからなのではと紹介されていた。

共進化する不適切指導と、不適切校則
指導を通じた生徒とのコミュニケーションにやりがいを見出す教師が出てくる。生徒が悪魔化され、行動を縛るための厳密なルールがうまれてくる。

教師の自己実現のためのリヴァイアサン戦略
「学校秩序の番人・迷える子羊の守り人として畏怖されて生きたい」不器用な先生ほどとる教員としての生存戦略。

教員カーストをめぐる闘争
汚れ役をかって出る先生に名声が集まるため、その競争原理の中で生きぬく行動をとってしまう。

お世話モード
「校則を守れるようになるため・あなたを守るため」に、優しく接しているんだとコミュニケーションをとる戦略

純潔原理
生まれたままの姿・ありのままがいいと極端なまでに振り切る思想

校則で武装する教師の心的外傷
誰も守ってくれないなら、権力と暴力で武装するしかない」という社会構造

などなど。

これは現場の教員をしていて「あるなぁ」と感じる構造ですね。なんか、変なんだけど、教員も生きていく方法としてその構造に巻き込まれていく感じ。

講演会後の質疑応答でも、ある現場の教員の方から、
学校の外側で教員が変な目でも見られていることがある。たとえば、コンビニに立ち寄ったとか、少し立ち読みしていたとか、服装がどーのこーのとか、プライベートを侵害してくるような指摘が学校に届けられる。それがあることで、教員も生きづらさを感じている。その裏返しが学校の中で起きていて、生徒に対しての指導が起こっているのでは?とコメントがあった。

ホントそうだよなーと。どこどこを歩いていたとか、どうでもいいじゃないですか。教員だって人なので、仕事以外の時間はどこかを歩いていたり・活動していたりしますから。それと仕事とは別の問題です。とキッパリ学校が突っぱねたらいいわけですが、できないのかなと。

「社会通念上合理的と認められる範囲」の難しさ

講演の中でも紹介されていたのですが、校則は「社会通念上合理的と認められる範囲において、教育目標の実現という観点から校長が定めるもの」なわけです。

で、以前「みんなの保護者会(みんほご)」でも、ましもさんにレクチャーをいただいたので、気になるわけです。この社会通念上合理的と認められる範囲ってどこまでのことなんだと。

この社会通念上合理的と判断されるってのは、例えば「おたくの生徒が〇〇で態度が悪いんだがどんな指導をしているんだ!」と匿名のお叱りの電話を頂いたとした場合に、このお叱りに対しての対処法として学校外の行動を制限することは合理的と判断されそうなんですよね。

娯楽施設(カラオケとかゲームセンター)への立ち入りを禁止することは、お店の「営業妨害」だったり、個人の「行動する権利」の制限につながるとは思うのですが、社会通念上合理的とは判断されたりするんだろうなぁと…

だからこそ、学校だけじゃなく、外の人も交えて考える必要はあると思うわけです。

時限装置つきの校則でいいのでは?

講演会を通して感じたのは、校則を変えるという考えに陥りがちなんだなと。変えようとするから、継ぎ足しみたいなことがおきたり、前例を踏まえた形みたいなことが起きる。なので、ゼロからつくればいいと思ったんです。とコメント求められたらニュースにのっちゃいましたね。

そのあと思ったんですが、ゼロにするために、消費期限をつくっておいて、「毎年ゼロに戻す」をしたらいいのではないかなと。5年も過ぎたら、社会は変化しているわけですから、毎年のように見直したらいいと思うんです。そのための「ゼロに戻す」。

学校だけでは、どうにもならないし、変なコトが起きてしまうので、社会の課題として毎年ちょっと考えてルールデザインをしていこうとしたらステキな生活を子どもたちが(教員も)できるんじゃないのかなと感じた次第です。


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