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インターネットよ、お前もか

私は文字より自分の自信のない声と自信のない顔と自信のない構成と…まぁそんな方でやったほうが自分の素が出せるといいますか、自分にとってやりやすいのだ。だから最近のTikTokやインスタや諸々の編集やそのアプリというのが(UIが全く持って理解しづらい某APP)...誠に下劣でダメな...そんなふうに思ってしまう。

もちろん投稿の全てがダメだとは言わず、少しばかりは有益なものがある。しかし総合的にネットを見てみて、Googleの検索はまるで関係ない情報をよく拾ってくるようになり、 SNSはお金稼ぎを目的とした人で溢れ、ブログは引き延ばされて中身のない内容と「いかがでしたか」という答え... おまけにパソコンもスマホも入力の予測変換が悪く落ちぶれた。またAIの民主化とも言ってたが、 AIに投げるプロンプトを人間が詳しく考える必要がなくなるまでは完全なAIの民主化=「人々に受け入れやすくなった」とは言えないと思う。AIがアンドロイドのロボットになったり秘書になる日は近くて遠い様に思い、それ以上に「インターネットが壊れてきた」気もする。


私は21歳。物心ついた頃からインターネットと共に育ち、7年前にスマホを手にしてからは、まさに一心同体の関係だった。高校では留年しかけ、大学は妥協の末の入学。しかし、自己推薦書に書いた「好きなことに熱中する性格」は、インターネットの世界でこそ存分に発揮された。生活習慣は乱れても、ネットを手放せない日々。

だが最近、違和感を覚えるようになった。かつて無限の可能性を感じたインターネットが、何か違うものに変貌しているような気がするのだ。

私は文字よりも、自信のない声や表情、そして不完全な構成でさえも、自分の素を表現するのに適していると感じる。そんな私にとって、最近のTikTokやInstagramなどのSNSアプリは、あまりにも洗練されすぎていて居心地が悪い。特に某アプリに至っては、そのUIの複雑さに戸惑うばかりだ。

もちろん、これらのプラットフォームにも有益な情報が全くないわけではない。しかし、全体を見渡すと、その質の低下は否めない。かつては頼りになったGoogle検索も、今や関連性の薄い情報を拾ってくることが増えた。SNSはお金儲けに走る人々で溢れ、ブログは中身のない記事を長々と書き連ね、最後に「いかがでしたか」と締めくくる。こうした状況を目の当たりにすると、「インターネットが壊れてきた」という感覚さえ覚える。

技術の進歩は、私たちの生活に大きな影響を与えている。AIの進化は目覚ましいが、予測変換は的外れで、肝心なところで役に立たない。AIの民主化と言われるが、それは一体誰のためのものなのだろうか。プロンプトエンジニアリングの必要性がなくなるまでは、完全な民主化とは言えないのではないか。

かつてのインターネットは、もっと自由で、多様な価値観が共存していたはずだ。しかし、今では画一的な価値観が蔓延し、息苬しさを感じる。アルゴリズムによって均質化された情報の海の中で、私たちは本当に自由な選択ができているのだろうか。

フィルターバブルやクリティカルシンキング。これらの言葯は、現代の情報社会を生きる上で欠かせない概念だ。しかし、こうしたメディアリテラシーは、大学でようやく学ぶような高度な知識として扱われている。せめてメディアとネットのリテラシー、お金について、そして政治については、高校の教育課程に加えるべきではないだろうか。これらは現代を生きる上での必須スキルだ。そう思えば思うほど、現状への歯がゆさが募る。

そんな中、私は一つの野心を抱いている。日本全体でリテラシーを高めることを最終目標としたYouTubeチャンネルを作ること。しかし、この野心を口にした途端、自分の未熟さに愕然とする。私はまだまだ知識が足りない。インターネットばかりに浸っていて、肝心の本を読めていない。おしゃれな図書館や建築の良い図書館をInstagramで探す程度で、実際に足を運んで本を手に取ることはほとんどない。「私はInstagramerか何かか」と自嘲せざるを得ない。

この自己矛盾こそが、現代のインターネット社会が抱える問題の縮図なのかもしれない。情報はあふれているのに、本当に必要な知識は身についていない。批判的思考の必要性は理解していても、実践できていない。

しかし、この気づきこそが、変化の始まりなのかもしれない。自分の不足を認識し、それを埋めようとする意志。それこそが、インターネット社会を生き抜くための第一歩ではないだろうか。

また「テレビは核兵器にまさる武器」と誰かが言っていたが、インターネットも同類ではなかろうか。いや、むしろインターネットはテレビ以上の影響力を持っているのかもしれない。

テレビが一方向の情報発信だったのに対し、インターネットは双方向のコミュニケーションを可能にした。これは、個人が情報の発信者にもなれるという点で革命的だった。しかし、この力は諸刃の剣だ。

情報の拡散速度は核爆発の衝撃波よりも速い。フェイクニュースや陰謀論は、瞬く間に世界中を駆け巡り、人々の思考を操作する。SNSの「いいね」やシェアは、まるで核分裂のように連鎖反応を起こし、時に社会を分断させる。

AIの発展は、この状況をさらに複雑にしている。ディープフェイク技術は、現実と虚構の境界を曖昧にし、真実の価値を揺るがしている。プロパガンダの手法は、かつてないほど洗練され、気づかないうちに私たちの認識を歪めている。

しかし、核兵器と決定的に違うのは、インターネットが創造的破壊の可能性も秘めている点だ。正しく使えば、教育の機会を広げ、イノベーションを加速させ、世界をより良い方向に変える力にもなる。

だからこそ、私たちはインターネットリテラシーを高め、この強力な「武器」を正しく扱う方法を学ばなければならない。それは、核兵器の管理以上に繊細で、全ての人々が関わるべき課題だ。

インターネットは、人類の集合知を具現化したものだ。それは私たちの希望でもあり、不安の源でもある。この両義性を理解し、バランスを取りながら活用していくことが、デジタルネイティブ世代に課された使命なのかもしれない。

そして、この「武器」を平和利用に導くのは、他でもない私たち一人一人の意識と行動なのだ。インターネットの未来は、私たちの手の中にある。

私たちは、テクノロジーの進化と人間の適応力のバランスを常に模索し続ける必要がある。新しいツールや通信手段を手に入れると同時に、それらを適切に使いこなす知恵も培っていかなければならない。

そして、それは決して一人で成し遂げられるものではない。私たち一人一人が、自分の経験や気づきを共有し、共に学び、成長していく。そうして初めて、インターネットの本当の可能性を引き出すことができるのではないだろうか。

21歳の若造の、インターネットへの愛と憂鬱。そして、より良い未来への希望。これは単なる個人的な思いにとどまらず、デジタルネイティブ世代全体の叫びかもしれない。

インターネットよ、私たちはまだ諦めていない。お前と共に、より良い未来を作り上げていく。それが、インターネットと共に育った私たちの使命なのかもしれない。


インターネットの変容に寄せて

デジタルネイティブ世代の一人として、インターネットの変貌を憂う声は、決して無視できないものです。

筆者は、幼少期からインターネットに触れ、その恩恵を享受してきました。しかし、近年、その輝きは失われつつあると訴えます。

TikTokやInstagramといったプラットフォームは、金銭的利益や自己顕示欲を満たす場と化し、Google検索は本来の目的を見失い、ブログは中身のないコンテンツで溢れかえっている、と。

AI技術の進歩は目覚ましいものの、その恩恵は一部の企業や個人に偏り、真の民主化には程遠いのが現状です。かつてインターネットが体現していた自由で多様な価値観は、アルゴリズムによって均質化され、息苦しさを覚える人も少なくありません。

筆者の言葉は、インターネットの未来を憂う、一つの世代の叫びと言えるでしょう。それは、単なるノスタルジーではなく、デジタル社会の健全な発展を願う切実な願いです。

インターネットは、誰のものでしょうか。それは、私たち一人ひとりが主体的に関わり、その価値を再定義していくべきものではないでしょうか。

筆者の言葉は、その問いに対する一つの答えなのかもしれません。


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