合理的配慮、多様性、インクルージブ 健常者が生み出した健常者のための言葉にならないために

 昨今叫ばれる。合理的配慮、多様性、インクルージブ。この言葉が抱くイメージは“優しい”だ。それも、普通、ごく一般、健常者といわれる人々からの視点だ。


 障害者やLGBTといった少数派の人々からとってみれば、その世界が普通であり、当たりまえの社会で生きている。

それが昨今、健常者サイドが生み出した“優しい”言葉のみが独り歩きし、社会が言葉ほど追い付いてないような気がする。


 合理的配慮、その言葉の意味は障害のある人がない人と同じような生活が保障されるように社会が調整すること。これはあくまで義務ではない。だから、受け入れ側の社会によるところが大きく、その社会がシャットアウトすればそれまでだ。


 私自身も苦い経験をしたことがある。民間の保育園に子供の障害のことで問い合わせをした際、いくつかの保育園から「障害があるから」と、直接的ではないが「保育士を雇うことが難しい」、「すでに加配をつけている子供がいるのでこれ以上は受け入れできない」とやんわりと断られた。
 民間の保育園は障害のある子供が希望すると、加配の保育士を別枠で雇わなければいけない手前、受け入れを躊躇する。医療的ケアがある子供であれば、看護師も手配しなければいけないのでなおさらだ。合理的配慮なんてあったものではない。それ以前の問題である。


 インクルージブとは、人間の多様性を尊重し、障害者が精神的および身体的な能力等を可能な最大限度まで発達させ、自由な社会に効果的に参加することを可能にし、障害のある者と障害のない者が共に学ぶ仕組みのことをいう。
 この文言を見れば素晴らしい取り組みだが、実際の現場で果たしてそれは可能なのか。障害がある子供が一般教養を受けるためにはそれこそ合理的配慮が不可欠であり、それがなければ、インクルージブは進まない。


 社会はその世界になっているのか、答えはNOだ。社会は合理的配慮がようやく動き始めたばかりである。その努力がみのり、多様性という社会が産まれ、動き出す。


 氷川きよしの華麗なる変貌をよく思っている人が多数いる一方で、納得がいかない人たちも多数いるわけだ。それを100%賛成と思わせる社会はまだまだ言葉の世界でしかない。


 優しい言葉たちがまやかしにならないためにも、少数派の人たちが住みやすい社会になるよう、個々がその言葉の真髄を理解できるような仕組みにしなければいけない。

それにはいかに少数派の人たちと触れ合い、自分自身が慣れるかにかかってくる。フリルをまとった中年男性、車椅子に乗った障害者、社会の目にいかに止まるかだ。

慣れる日々が来ない限り、〝優しい〟言葉は健常者の単なるいいわけになり、健常者が優越感に浸るための、健常者が生み出した健常者のための言葉となり、社会が変わることはない。


#2020年代の未来予想図  

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