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行き場のないあの頃の気持ち、自己肯定感を損ねてしまったことについて

心の不調が現れてきたのはたぶん中学生の時だ。あの時の苦しかったどこに向けていいのか分からないモヤモヤとしたやるせない気持ちを少し書いてみようと思う。

私は人から存在を軽く見られ、蔑まれる対象としてそこに生きていた。小学生の頃は、友達も良い子がいて親しみをもって接してもらえた気がするのだが、それは中学入学と共に無残に消えていく。

中学一年の頃から地獄の日々だった。クラスに蔓延るイジメ。女子たちの意地悪な態度。不良の男の子の先生に対する暴力。クラスは学級崩壊だった。そんな最悪の環境の中、仲のいい友達は小学生の頃の同級生の幼なじみ一人だけで、確実にクラスから浮いていた。

一つ言えること、人に恵まれなかった。自分の努力不足なのか運気が低迷していたのか分からないが、仲良くなりたい人とは同じクラスになることはなかった。

一人の女の子の存在によって、私の自己肯定感は損ねて粉々にされ、後々までも苦しむことになる。

外見に対する中傷、デブ、ブス、毛深い、髪の毛汚いなどは彼女によく言われていた。その女の子は中学二年生のときから私を攻撃しだした。太っているねと何度言われたことか。その度に苦しくなり頭の中が混乱しだす。

外見の中傷を毎日のように言われ、ヘラヘラと返す私。この子から離れればいいのに、他の女子たちに悪口を吹き込まれたら、私がもっといじめられることは目に見えていた。

眠る前、私は自分の外見について自信はもう何もなく、醜い存在なのだと思い、自分のことが大嫌いになる。深海の中をもがいて泳ぐ汚い鱗の魚のようだ。自分嫌い、人嫌い、学校嫌い、何もかもに絶望を感じていた。

自己肯定感を上手に築くことは大切なことの一つなのに、私は形成できなかった。何事もネガティブに考え、落ち込みやすい性格になった。一概に彼女だけのせいではないことは理解している。恨んでも仕方ないことなのに悔しいという気持ちが数十年経った今でも脳裏に浮かぶ。

言葉の重みということを考える。一言でその人の人格形成を阻害する毒のような言葉。あの頃はスマホがなかったので、学校外で攻撃されることはなかったが、何というかあの時スマホがあったら、ゲームや音楽、動画、好きなアプリをいれて楽しむことで、ストレス解消になったかもとも思う。表裏一体なのかもしれない。物事には必ず裏がある。良い面も悪い面もあるのだから。

自分を好きになることの難しさ、自信を持つこと、出来ないことはもう無理して頑張らないことにした。私は異性と一度も深い仲になったことがないが、もう人と違ってもいいやと思っている。マイノリティーなことを受け入れ、あるがままに人生を受け入れていく。中学生の頃からよくここまで生きてこれた。少し自分を褒めたくなった。