短編小説「12人の女たち」第二章

第二章
「睡眠薬とジャック・ダニエル」

 僕はこの章を書くときには、彼女の味わった記憶を辿るために、あるいは背けたい現実をぼやけさせるためにウイスキーを呷っている。ポケットサイズを一気に流し込んで深く息を吸って全身に迸るアルコールが喉を通り胃に落ちてゆく感覚をじんわり確かめながらゆっくり大きく息をすこし長めに吐きだす。鼻腔にツンときたら反射で口内が唾液で溢れる。すかさずチョコレートを放り込んだら、噛み砕き終わる前にハイライトに火を灯して追憶をはじめる。
 これまで何度もそらのことについて考えを巡らせてきたけれど、今でも彼女について正確なことはわからない点が多いし、これからもそれが分かる時は来ないのだろうと思う。 

これまで"そら"という1人の人間から受けた影響をなにかしらの形にかえて創ってきたつもりではいたけれど、どれも確信は突けてはいなかった。現実とまだ向き合えてないからだと思う。だからこの文章にかえて彼女が生きた証を残し、悲しみを悲しみぬいた先を探求しその先を目指す。
 指先が重い。彼女について書けばどれだけ書いても詳しすぎる地図みたいに的を得ないことばかりになりそうだ。記憶はなぞれるが溝を削った分だけ心は痛むし、悲しみも深くえぐれる。歩けば歩くほど泥濘にはまってゆき、これまでにも何度となく彼女を追いそうになった。現実からも現実を変えられなかった自分からも逃れたかった。

 2月、水仙の、梅が春の期待を感じさせる甘い香りとはちがって、あくまでも凛とした崇高な香りを漂わせる。春を迎えるには、まだまだ早いが、真冬を感じるにはうってつけの香りだ。清々しく、さわやかな香りは、体内の汚れもきれいに流してくれるようにも感じる。空港からのシャトルバスが到着するロータリーにはぼくの方が5分くらい早くついて彼女を待っていた。バスが到着して乗客たちがぞろぞろと降りてきた。キャリーバッグを引いたりリュックを抱えたりして、ぼくが生きる時間との間のどこかにチョークで真っ直ぐ線引きされた無関係な人間たちだ。あるものは孤独に、あるものは彼らを待つ誰かの元へ、皆足早に。そんな退屈な光景に目映い陽が差し込んだ。

目の前にはそらがいた。はじめて会ったときからその屈託ない笑顔には、抱えた哀しみの断片が要素のひとつとして散りばめられていたし、彼女も同じくそういった嗅覚には敏感な人間なんだとも察することができた。奥二重の三白眼に両方とも出た八重歯には茶目っ気のある一面が僕の心の騒がしかった所を優しく鎮めてくれた。

 そらの瞳とその生活はいつも虚ろで突き抜けていた。ぼくが歩いてきた道のりとも記憶とも経験ともなにもかもが違った世界に見えた。目線は儚く遠くにやや足早であった。それでも彼女との歩幅は心地よかったし、実際に歩くのは酒や処方薬のせいかカタツムリみたいにゆっくりだったから僕もその歩幅に合わせた。彼女はよく舌と鼻の下を真っ青にしながらジャック・ダニエルを瓶のまま景気良く胃袋に流し込んでいた。夜中に近所の公園を散歩していたときは50メートルに一度はつまづくし、帰る頃には膝も擦り傷だらけれでなぜかショルダーバッグまで血塗れだった。
荒々しくも生きていた。


・ ・ ・


 4時間に及んだ施術の最中、彼女はまゆをピクリとも動かさなかった。かわりにぼくのすすめたいくつかのシングルを何度もリピート再生しながら聴いていた。

ーだってさ、ひょっとしてもう話すときないかもしれないじゃん。ー

ーなんだあいつセンチメートルだ。センチンメトル、西洋で発見された女の感情だ。恐らく気持ちが高ぶってるんだろう。ー


・ ・ ・


当時誰とも特定の恋愛関係にある人が居なかったぼくとしてはアトリエに異性を招くことに気は楽だったけど、それでも浮き足だつ両足を苔の生えたプライドみたいなもので抑え込んでいたりもしていた。だからその夜は彼女がジャンヌ・ランバンの香水と一緒に送ってくれたグラスは尻から煙が出るほど吸った。市民税も年金も億劫な社会も全て置いてけぼりにして土星にでも旅立てるような気分だった。

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