10秒でたのしいが消費される時代に、20年以上も切ないジャックスカードのCM「パンとカメラ」が好きすぎるから人生を6分だけくれ。
切ないは、時を越える。
コンテンツの消費は年々速くなっていく。SNSを開けばすぐに10秒でたのしい。一瞬で目を惹くエネルギッシュな画がずらり並んでは、文字通り高速で流れ過ぎ去っていく。
たのしい、エロい、ハイカロリー。炭水化物山盛りのようなコンテンツは濃厚で刺激的だ。
ひと口限り、味見で満足の一過性コンテンツにどっぷり浸かって無作為につまみ食い。ただスマホのスクロールに身を任せて流れていくのは確かにたのしい。たのしいのだが、でもたのしいだけだ。
先月、いや一週間前のトレンドを誰も覚えていない。観たもののほとんどは記憶に残らない。消化が速いぶん、血肉にならない。カロリーはどんどん燃やされて、目先の時間を通り過ぎていくだけだ。「たのしい」は快楽だが、人間はきっとそれだけでは満足できない。恐らく同じ思いを抱えるひとは多いのではないだろうか。
だから。だからこそ。
6分だけでいい。あなたの人生を6分くれ。
10秒でたのしい今の時代に、6分は長いかもしれない。
でも、それでも。
たのしいだけでは満足できないひとに、きっと届くはずだ。切なさのトップクリエイション。ジャックスカードの企業CMシリーズ「パンとカメラ」を観てほしい。
ありがとう。観てくれてうれしい。
今、あなたのこころは感情の総量が増えて、堰き止められないぶんが溢れて、感動している。最高だ。わたしもそうである。特定のコンテンツの響き方、感情、受け取りは人それぞれだけど、きっとあなたとわたしのこころには重なる部分がある。同じように揺れ動いたこころの「なにか」がある。たぶんそれは、切なさと書かれるような感情のたぐいだ。
この6分はエモいが生まれる前から衰退するまで、20年以上も切ないを生み出し、響かせ続けてきた傑作なのだ。本当に、観てくれてうれしい。
良質なコンテンツは時を越える。
X(旧ツイッター)には定期的にそんなコンテンツが発掘されては流れてくる。「パンとカメラ」もそのひとつだ。
わたしがはじめてこの企業CMをみたのも、ある日どこかから流れてきたのがきっかけだった。それから10年以上ずっと切ないままだ。切ないを生み出すコンテンツの耐久性は高い。じっくりと、ゆっくりと揺れ動いたこころの軌跡。その記憶は化石のように静かに深く沈殿し、血となり肉となりこころの背骨となり、なにかのきっかけに蘇ってくる。日常のある時、ある瞬間にふいに呼び起こされ、少しずつ、本当に少しずつ咀嚼されていく。そんな大きい感動がこの6分には詰まっている。すごい。本物のコンテンツとは人生の尺度の拡張であり感情の深度。目盛りを大きくし、目先のタイパやコスパなんて吹き飛ばすのだ。時を超越した素晴らしさがある。
ああ……、もう一度観ておこう。
切ない。
でも、なぜこんなにもこころが動くのだろう。
胸が苦しくなるのだろう。
何度も観てしまうのだろう。
切ない。でも、なんでこんなに好きなんだろう。
はじめて観てから10年。
10年か。もう10年なのか、まだ10年なのか。ようやく書く。書きたい。10秒でたのしいを消費できる時代の今だからこそ、書こう。
今もなお色褪せない「パンとカメラ」の魅力と、最大の謎である6話の真相を紐解いていく。
|パンとカメラとは?
「パンとカメラ」は2001年から2003年に渡り放送されたジャックスカードの企業CMシリーズだ。放送から20年以上経った今もファンが多い、名作中の名作CMである。
『自分の夢に、嘘はつけない。』をコピーに、全6話構成。ふたりの男女の出会いから別れを描いており、各話に以下のタイトルがついている。
既にここまでもう2回(計12分)は視聴済みの読者諸氏には自明のことだが、主要な登場人物は由香と和也のふたりである。ただし、劇中で名前の漢字表記は出て来ず、和也は名字のフジワラくんとしか呼ばれない。各話の最後には必ず、ふたりでキャッチコピーの『自分の夢に、嘘はつけない。』と『ジャックスカード』のセリフを言って終わる。
由佳を演じているのは伊藤歩。和也は村上淳。監督は村本大志。ハスキーな声と天真爛漫な魅力をいっぱいに振りまきながら、不安な影をしっかりと視線に残すチャーミングな由香と、煮えきらない表情の中にしっかりと芯を光らせる機微で伝えてくる和也。物語との距離も保ちつつしっかりと訴求してくるジャックスカード。双方どちらの角度からみても刺さってくる名作企業CMだ。
そして、全編で使われている山下達郎の「蒼氓」が作品世界における静けさと力強さを掻き立て、情感をマックスまで高めている。もはや聴くだけでふたりを思い、泣ける。同曲はゴスペルにインスパイアされた山下達郎の代表曲。コーラスには桑田佳祐・原由子夫妻が参加しており、本作以外も多数の映像・エンタメ作品で使われている名曲だ。
2020年にはじめてミュージックビデオになっているので、こちらもぜひ観てほしい。
|このCMの時代背景
このCMシリーズが放映された2001年から2003年の世界はどんな空気だったのだろう。まずはそこから考察を進めよう。
2001年以降の日本は、インターネットの普及がどんどん進みデジタル機器の利用が一般化していった時代だ。2ピーガガガガという音とともにダイヤルアップ接続していたインターネット*が、より高速で時間の制限のないブロードバンド**に移行。ネットの普及で世界がつながり、個人の知識もコミュニケーションももっと広く、もっと深く、拡大していく。
携帯電話は第三世代携帯「FOMA」が登場し、3G回線が広まっていった。パソコンがなくても、iモードやプラットフォームを介してのコミュニケーションができ、ゲームでは単純にたのしむだけでなった。ユーザー同士のコミュニケーションが付随するようになり、つながりを介した新しいエンターテイメントがどんどん進化していく。既存のコンテンツでも、MPプレーヤーやデジタルカメラ登場により、デジタル化が進んでいった。
今、スマホに集約されたデジタルコンテンツはちょうどこの時期からはじまったのだ。より速く、近く、便利に、どんどん手に入れやすくなり、今日まで急速に世界がつながってきている。
政治の世界では2001年に小泉内閣が組閣。痛みをともなう改革がうたわれ、既存権益の解体や戦いを構図に、歪みを正すような強いリーダー像が浸透した。IT企業やベンチャー企業など、新しい技術への憧憬も高まっていた。ワークライフバランスの黎明やワーキングホリデーも流行している。
そんな中、2001年にはアメリカで同時多発テロが発生。若者世代では、どんどんつながっていく世界とその歪みとの間に葛藤やギャップが生まれていく。翌2002年には、日韓ワールドカップが開催されるなど世界のつながりと拡張はより深くなり、グローバルへの志向も進んだ。
本CMシリーズが放映された3年は世界的にみても激動であり、閉じた世界からより広いコミュニケーションへと個人レベルでも大きな変化が訪れた。技術革新が大きなうねりを生んでいくなかで、もがき答えを求める若者といった背景を踏まえてぜひもう一度視聴いただきたい。一つひとつの表情や選択にきっと違った立体感が宿り、作品世界が深く見えてくるはずだ。
|パンとカメラの構成
全6話のパンとカメラは、その6分で余す所なく物語を伝えている。無駄のない素晴らしい構成だ。
物語の構造をわかりやすくするために、まずは一般的な起承転結にあてはめてみる。各話ごとに映像から読み取れる事実を軸に書き出していこう。
……長い。
読めなーい!
でも大丈夫。
そんな銀行に行けないくらい多忙な吉高さんのために、読み飛ばし向け一文サマリを各話の最後に付記しておいた。さっくりスクロールしても問題ない。安心してほしい。でも由里子、銀行には行ってくれ。
+
起
第一話 出会い篇
・北海道の田舎道
・道の脇の草むらで由佳がパンを食べている
・和也は車がエンストして立往生している
・由佳がヒッチハイクに失敗して悪態
・和也は空の写真を撮る
・由佳が再度ヒッチハイク
・和也の車のサイドミラーにトラックが映る
・そのトラクターの荷台に寝転んでいる由佳
・和也がヒッチハイクするも失敗
・通り過ぎていく荷台から由佳が和也に『お腹空いてる?食べる?』と声を掛ける
・由佳がリュックに直パンスタイルのフランスパンを抜き出して投げる
・和也がパンをキャッチ
・『バイバーイ。がんばってね』
・和也が由佳の写真を撮る
・東京に戻った和也が由佳の写真を現像する
・洗濯バサミに吊るされたジャックスカードとネクタイ
・外で雨やどりする由佳
・『自分の夢に、嘘はつけない。』
・『ジャックスカード』
一文サマリ:
旅先の北海道で由佳と和也が出会う。
+
第二話 再会(雪)篇
・冬の東京
・パン屋で『ありがとうございます』とパンを売る由佳
・オフィスで『すみませんでした』と頭を下げるスーツ姿の和也
・パンをこねる由佳
・線路脇で缶コーヒーとパンを食べる和也
・真剣な表情でパンをつくる由佳
・帰路、バイクに給油する和也
・『カードで』
・和也がパン屋に入ってくる
・『いらっしゃいませ。もう終わりなんですけど』と振り返る由佳
・再会
・『食べる?』とパンを放り投げる由佳
・公園で由佳が夢を語る
・すべり台に登る由佳
・『焼き立てのパンを、たくさんの人に食べてほしいと思ったの』
・見上げる和也
・降り出す雪
・すべり台に登る和也
・『自分の夢に、嘘はつけない。』
・『ジャックスカード』
一文サマリ:
東京で偶然、由佳と和也が再会する。
+
承
第三話 恋の芽生え篇
・和也の部屋
・ベットに仰向けの和也
・写真を放り投げる
・パラパラと落ちてくる写真を見つめる和也
・パン屋でパンをこねる由佳
・フランス語の練習をする由佳
・本屋にいるふたり
・『もう少ししたらね、パリに行くんだ』
・驚く和也
・由佳の本代を払おうとする和也
・『いいって』と断り、6回払いで払う由佳
・雨の中走るふたり
・前に由佳が雨宿りしていた屋根に駆け込むふたり
・濡れないよう由佳を抱き寄せる和也
・『自分の夢に、嘘はつけない。』
・棚にしまわれたままのカメラとフィルム
・『ジャックスカード』
一文サマリ:
由佳と和也の間に恋が芽生える。由佳が近くパリへ行くことを伝える。
+
転
第四話 喧嘩篇
・和也の部屋でふたりが食事をしている
・カメラを持つ由佳
・『フジワラくん、口ばっかりで何もしないじゃん』
・怒って出ていく由佳
・追いかけない和也
・パン生地を抱えて思いにふける由佳
・踏切をバックに帰路につく和也
・カゴいっぱいのフィルムを抱えてレジに駆け込む由佳
・『これ全部』とカードで支払う由佳
・フィルムをひとつ手に取る由佳
・和也の玄関のドアの前に置かれたダンボール
・帰ってくる和也
・部屋でダンボールを開ける和也
・『Shoot! ゆかより』の手紙と箱いっぱいのフィルム
・真剣な表情の和也
・一心不乱にパンをこねる由佳
・決意と少しの微笑みの和也の顔のアップ
・パン屋の外で頬を軽く叩き悩ましい表情の由佳
・『自分の夢に、嘘はつけない。』
・『ジャックスカード』
一文サマリ:
ふたりがすれ違う。由佳が和也にダンボールいっぱいのフィルムを贈る。
+
結
第五話 旅立ち篇
・空っぽの部屋に立ち窓の外を見ている由佳
・リュック直パンスタイルとスーツケース
・和也の部屋
・ベットに寝転びカメラをいじる和也
・勢い起き上がり、部屋から出ていく和也
・旅行代理店
・『パリまで。帰りはオープンで』と航空券を買う由佳
・カードで支払う
・スーツケースを引きながら坂道を登っていく由佳
・走ってくる和也
・呼び止める和也
・振り返る由佳
・『胸はっていけよ!』
・頷く由佳
・頷き返す和也
・直パンスタイルからフランスを抜く由佳
・『いってきます!』
・パンを投げる由佳
・キャッチする和也
・手を空へ突き出す由佳
・パンを上げ返す和也
・手を振り、振り向かずに歩いていく由佳
・パンを所在無く振りながら見送る和也
・『自分の夢に、嘘はつけない。』
・『ジャックスカード』
一文サマリ:
由佳がパリへ旅立ち、ふたりは別れる。
+
第六話 最終話
・古い民家の庭
・ハイビスカスの花をバックにカメラを覗き手で合図する和也
・笑い声
・老夫婦のモノクロの写真
・おじいは無愛想、おばあは笑顔
・縁側で撮影
・笑い声
・おじいさんにもたれかかり、はにかむおばあ
・カブに乗り玉石垣の道を走る和也
・前カゴにフランスパン
・通りすがりに『こんちはー』と挨拶する和也
・海を見下ろす風景にバイクを止め、島と夕陽を眺める和也
・カメラを構える和也
・シャッターを切ると『フジワラくん』の声
・振り返る和也
・笑顔で立つ由佳
・再び景色に向き直り、景色のことを伝えようとする和也
・再び振り返る和也
・もういない由佳
・しばらく辺りを見回す和也
・『がんばってね。バイバイ』
・手を振る由佳
・何かを飲み込むような表情の和也
・『自分の夢に、嘘はつけない。』
・芝生の上に置かれたフライパンとカメラ
・『ジャックスカード』
・モノクロ写真
・島と夕陽をバックに手を繋ぐ和也と由佳
一文サマリ:
写真の道を歩き出した和也と、もういない由佳。
|起承転結で見るパンとカメラ
ふたりの出会いと再会を通して作品世界に導く「起」パートの第1話と2話。
恋が盛り上がる「承」の第3話。
ふたりの喧嘩からこの先の別れを想起させる「転」の第4話。
そして、物語の結末である第5話と6話。
こう書き出してみると、短い時間でまったく無駄のない展開だ。美しくすらある。ひとつのシーン、ひとつのカット、それぞれが情報と情感を何層も併せ持ち、短い時間で伏線が何本も張られ、複層的に掛け合わさって作品世界を深めていく。
一方でセリフはシンプル。キャラクタに沿ったシンプルで力強い言葉のチョイス。ハスキーぎみな由佳の声に惹き寄せられ、もどかしい和也の表情にいじらしくなる。口数少ない和也が絞り出した言葉のまっすぐさ……いいよね。このまま好きなところを挙げていくとキリがなく、きっと観たひと100人が100様以上に感想を持っているだろう。それだけ解釈も想像の余地も広く、深い6分なのだ。構造視点で観ると登場人物やセリフ以外のシーンも、より細部まで楽しめる。以上を踏まえて、もう一度おさらいしておこう。
そして、ここからは「パンとカメラ」を深く理解するために、作品世界における対比という切り口を軸に作品を紐解いていく。
|対比から紐解く各話の見どころ
作品には必ず対比がある。人間は比べることで、はじめてその双方の理解を深めることができるからだ。近すぎるものは同じに見えてしまうが、距離があるほどわかりやすくなる。
さらに、作品世界における対比構造はキャラクタや世界をより明確にするだけではない。対比されたものが近づくとき、または遠ざかるとき、そこには必ず意思がある。それは、登場人物の意思かもしれないし、制作者の意思かもしれない。その何かを動かそうという力学。エネルギー。その働きかけが、観ている人の心を揺さぶり感情の振れ幅を増幅する。
たとえば、近くにいたいのに離れなくてはならない。遠くにいるのに、会いたい。同じ極の磁石を無理やり近づけたときのように、目には見えないチカラを感じて、だんだん高まっていき、最後には弾ける。対比を見ることで物語の構造がはっきりしてくる。対比を紐解いていくことで、そこに生まれる感動の因数分解ができるのだ。感動の裏には必ず対比と距離とそれを動かす意思がある。
「パンとカメラ」には、わかりやすいものから隠れているものまで多くの対比表現がある。各話の対比と見どころをみていこう。
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第一話 出会い篇の対比
登場人物や状況を間接的に説明しながら、それぞれのキャラクタ性と今後を暗示させる導入的対比。
一切の無駄なく、かつ自然につながっていく。これ1分ってまじか????
冒頭における和也の服装がかなりラフなので、おそらく学生旅行か卒業記念の旅ではないだろうか。しかし、その後の和也の部屋はかなりこなれているので、就職からではなく少なくとも大学進学で上京してきているのだろう。
見どころは、やはり初登場のふたりのシーン。『すみませーん』が少し裏返りぎみのハスキーボイスの由佳がめちゃくちゃチャーミングだし、かなりのピンチなのに強く言えず流されるままの和也のなんとも言えないもどかしくなる感じもいい。
+
第二話 再会(雪)篇の対比
それぞれの仕事を描きつつ、第1話をオマージュした再会。対比することで、お互いの今や夢へのスタンスを描いていく。まっすぐ夢を語る由佳のまぶしさと、何も語らない和也が象徴的。
全話通して、唯一カメラが出てこない。
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第三話 恋の芽生え篇の対比
恋の芽生えと同時に、それぞれの夢の状況がより描かれていく。スーツ姿のまま写真を投げる和也と、ひたむきな由佳。恋の芽生えを描く前から、『自分の夢に、嘘はつけない。』ことによる別れを暗示している。お互いが夢に進んでいけば、その道は交わらない。
由佳のパリ行きに驚きつつ、夢に必要なもの(本)を払おうとするあたり、経済的な安定を得つつある和也の今と、「行ってほしくない―でも応援したい」の気持ちがせめぎ合っているのがわかる。対する由佳は6回払いだ。この一連のシーンとセリフひとつで、安定と挑戦が対比されている。夢にはお金がかかるのだ。
ラストの一コマで、棚にしまわれたままのカメラとフィルムが夢を諦めようとしている和也を象徴する。
+
第四話 喧嘩篇の対比
物語の転換である第四話は、これまでの1話~3話との対比である。一話から三話までは基本的に左右に振られていた画が、4話では縦の構図に切り替えられ、奥へ手前へと移動を連続することで画面へ引き込み、登場人物の心象へと誘う。観ていると思わず顎を引きぐっと肩に力が入るような緊張が生まれていく。
和也は帰宅手段もバイクから電車に変わっているなど、夢を諦めて安定した生活にシフトしようとしていたのだろうことがわかる。そこからの由佳のまっすぐなメッセージ。本を6回払いする由佳にとってもかなりの出費だったはずだ。1分の短い尺の中でフィルムを受け取った和也の表情を描くのに7秒以上全体の10%が使われており、このエピソードの強度がわかる。和也が夢に嘘をついていたことと、由佳の後押しの影響を描いている。
余談だが、現在フィルムは凄まじく高騰している。映像と同じようなモノクロフィルムは1本2,000円ほどだった。箱の大きさは測れないが、縦横7×7は詰まっているように見える。仮に6段入っていたとして58万円ほどだ。由佳すごい。限度額大丈夫だったろうか……となるので、現代では難しいシチュエーションである。今はこの量のフィルムも簡単に売ってないだろうし。
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第五話 旅立ち篇
4話の物語の高まりを受けて、これまで基本的に受け身のスタンスだった和也が文字通り走り出す。ふたりの出会いのシーンが再現され、でも再会が予期された1話とはまったく異なる意味合いになっているのが印象的。出会い~別れ、旅立ちまで。由香と和也のふたりの物語は一度幕を降ろす。
そして物語は最大の謎である6話へと入っていく。
|パンとカメラ最大の謎 第六話
パンとカメラの最終話である6話は、謎が多い。これまでの1~5話が比較的わかりやすい構成になっていたのとは対照的に、観る側の解釈の余地が多く、その余地がシリーズ全体の切なさを高め、コンテンツの耐久性を極限まで高めている。いわば切なさの核心であり源泉だ。観た人が全員思う最大の謎「由佳はどこにいったのか?」の真相を探るため、まずは6話で起きる事実を再確認していく。
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6話で起きた事実の再確認
初回から数回まで観た感覚では、カメラの道を進みはじめた和也の「夢を追いかけていった恋人に追いつきたい。会いたいという気持ちが見せた幻想」といった理解が妥当だろう。実際、はじめて観てから数年はそのくらいの理解で飲み込めていた。
ラ・ラ・ランドが127分でやってる夢追い人の出会いと別れを6分でやっているのだ。その密度たるや。
多くの名作がそうであるように、見る年代や年齢、時代を経て多面的な感想を生み出す、生み出せることは名作の条件なのかもしれない。しかし、パンとカメラは視聴者側の変化とは別に、どこか一抹の違和感があった。なぜふたりは再会しないのだろう。なぜこの終わり方なんだろう。なぜ……?
この違和感の正体は、なんだろう?どこから生まれているのだろうか。
ここからは、その違和感を出発点に真相を紐解いていこう。
第六話の特異点
前提としてパンとカメラは企業CMである。ジャックスカードの販促のためにつくられたCMだが、6話最大の特異点は「ジャックスカードが登場していない」点にある。
これまでの5話では物語の進行に沿って、由佳か和也、もしくは両方がジャックスカードを使っていた。例外として1話のみ使用はしないが和也の部屋に現物が登場している。
しかし、6話ではビジュアルとして出てくるもののロゴと同様物語の外に置いてある。それはなぜか。
6話は販促よりも強い訴求があり、そのために他の1〜5話とは異なる構成になったと考えられる。つまり、6話は物語のためにつくられたものであると考えられるのだ。
また、最終話のみタイトルがつけられておらず「最終話」とだけ記載されていることも、解釈の余地を拡大している。
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和也がいた場所はどこなのか?
まずは6話の状況を紐解いていこう。基本的に物語が地続きに連続していた1〜5話と違い、6話では前回から舞台設定含めかなりのジャンプをしている。最初の疑問は、和也はどこで何をしている(いた)のか?だ。
「何を」に関しては、具体的な言及はないものの、想像にたやすい。地域の人のポートレートを撮影したり風景を撮ったりと、その行動からこれまで夢のままにしてきたカメラの道に歩き出した(または歩いている、歩いてきた)と解釈できる。自分の夢に、嘘はつけない。正直にやりたいことをやりはじめた和也の顔は穏やかで笑顔に満ちている。うれしいぞ、和也。思わず登場人物を応援したくなるのは最良の物語の証跡である。
一方で「どこで」はどうだろう。この答えは簡単だ。和也がいたのは東京都の最南端の離島、八丈島である。作中での言及はない。……が、なぜわかるか?ちょっと裏技ではあるが、それは筆者が八丈島に住んでいたからだ。ずるである。しかし、なによりも確実な一次情報だ。あっ、ここ!とわかっちゃったからである。はじめて見たときは大変びっくりした。うれしびっくり!地元が出てくるとテンション上がるよね!
和也がバイクで地元住民にあいさつするのは、一つの玉石のまわりに六つの石を配置した美しい「玉石垣」。おそらく大里の玉石垣の史跡だ。島流しにされた罪人、流人たちが、日々の食い扶持のため遠く海岸から運んできてつくられたもので、玉石一つにつきにぎり飯ひとつほどの報酬だったらしい。実は史跡といっても、普通の一般民家の石垣である。
この道は今も現存していて、観光ポスターでもたびたび登場している。
海と小島をを臨む場所は南原の海岸沿いの道路のどこかだ。ここも今は整備され高台から同じような景色を見ることができる。和也が見ている島はその名も「八丈小島」。もともとは有人島だったが、過疎化が原因で八丈島へ移住が進み、昭和42年には無人島になっている。八丈島に訪れた際はぜひ和也と同じ景色をたのしんでほしい。
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第五話が終わった時点の事実と第六話の状況整理
以上を踏まえて、和也の状況を整理してみよう。
レンタルではないバイクで慣れたように運転する姿や地元民との交流の深さから、和也はある程度の期間を八丈島で過ごしていることがわかる。見た目の年齢に大きな変化はないので、長くても数ヶ月〜数年といったところだろう。
また、作中で明確な描写はないものの、第五話での由佳の服装はだいぶ薄着なので、おそらく夏頃だと思われる。では、第六話では別れの夏からどのくらいの時間が経っていたのか。
季節はいつ頃なのか?そのヒントのひとつ目は冒頭、和也の背景に咲いているハイビスカスにあった。
ハワイ、沖縄、オワフ島。南国の島をイメージするときに真っ先に浮かんでくるあの赤い花がハイビスカスだ。余談だがハイビスカスは食べられる。蜜を吸うとほんのり甘く、小学校の下校のおやつとして親しまれているみんなの花だ。(今はだめかもしれない)お土産としてジャムにされたりクッキーになったりしているので機会があれば試してほしい。おいしいよ。
そのハイビスカスだが、開花時期が5月〜10月と非常に長い。素晴らしい観光資源だなまじで。
第六話の季節は、服装から冬は除外していたが、ハイビスカスの開花から初春から4月も候補から外せる。しかし、特定にはまだ候補の期間が広すぎる。
八丈島は常春の国と呼ばれ、亜熱帯の気候だ。温かい風土だが、海風が強くバイクに乗るときは真夏以外は半袖では肌寒い。
筆者の予想では9月頃かと思っていたが、ここであらためて一次情報(地元住民)にあたってみた。
即レスの父により季節は6月頃だと判明。やはり持つべきものは地元である。ありがとう父。
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由佳はいつまでパリにいたのか?
第六話の状況から、ふたりは夏頃に別れたこと、和也は6月頃に由佳の幻想を見たことがわかった。それでは、由佳はいつまでパリにいたのか。
海外で働くには、原則として労働が可能な滞在許可証に相当する長期滞在ビザが必要となる。詳細は割愛するが、フランスでの就業はかなり難易度が高く、相応の技術や経験が必要だ。どれだけ情熱があったとしても「パン焼きに」だけでは許可が出ない。
由佳が旅行代理店でパリ行きの航空券を購入する際は「パリまで。帰りはオープンで」と伝え買っていた。もちろんジャックスカードで。帰りはオープンという自由が効く形で働きにもいける渡仏。ここで考えうる一番現実性の高い選択肢、それはワーキングホリデー制度の利用ではないだろうか。
ワーキングホリデー(ワーホリ)とは、日本と外国の若者の国際交流を促し、互いの親交および理解を深めることを目的として専用のビザが発行される制度だ。日本とフランスの間にも1999年に協定が締結されている。ビザの申請に費用はかかからない、審査は書類のみなど、比較的低いハードルで渡仏することができる。
上記条件は由佳の状況に完全に一致する。もしかしたら働いてるパン屋のフランス支店とか、知り合いの職人に弟子入りするなどの可能性も考えられるが、それであれば一幕でも、一カットだけでもそれを匂わせるシーンが入ってもよさそうだが、実際は由佳の発言のみ。当時の若者の選択肢としてワーホリは確度の高い推論であることがわかるだろう。はして、ワーホリで渡仏できるのは最長で一年までである。
由佳はあの夏に渡仏し、最長でも一年後、少なくとも一度は日本へ帰国している。
+
実際あの夏からどのくらいの月日が経ったのか?
由佳の状況を合わせて、第六話を再度整理するとこうだ。
あの夏を8月と仮定すると、最短で10ヶ月の月日が経過。もしくはその後であれば、1年10ヶ月後、2年10ヶ月後………と年単位で6話までの時間経過を想定することができる。再度の言及となるが、和也自身の見た目に大きく変化が見られないため、長くても5年ほどが候補となるのではないだろうか。
6話のセリフは抽象的な表現になっているため、どの年月でも物語は成り立つ。今度はセリフを起点に物語の解釈を拡大していこう。
+
「帰ってきたのかよ」から考察するその後
言葉はただの記号だ。そしてセリフは言葉でしかない。音や抑揚にはその人物間の感情などの情報が含まれるが、パンとカメラ6話に置いてはふたりの関係は視聴者に伝わっているのでそこから大きな変化を読み取ることはできない。特に由佳のセリフは淡々とした発話に抑えられ、読み解きが難しくなっている。
繰り返しとなるが、言葉はただの記号である。しかし、その記号を選択したという事実から逆算することでその人物の心情や状況を読み取ることができる。その言葉はこころのどのルートを通って選択され、声になったのか。時にそれは、発せられた文字情報以上に多くを物語るのだ。その視点から、6話の和也と由佳のやり取りを書き起こすとこうなる。
ふたりが出会ったときの由佳のセリフがテレコ(前後の入れ替え)でバイバイ!が最後に伝えられるのが切ない。しかし、ここで注目すべきは和也のセリフ『帰ってきたのかよ』だ。
さらり伝えられる、帰ってきてたのかよ。最短で10ヶ月会えなかった恋人。インターネットの普及でつながりつつある世界だとしても、パリから帰ってきた恋人に対してのセリフとしては非常に淡白である。パリから帰ってきた由佳にあてたセリフとして、この選択は違和感がないだろうか。
そして当然だが、パリから八丈島へ直通便はないのだ。八丈島に行くには羽田空港から飛行機に乗るか、竹芝桟橋から出ている船に乗って一晩が必要である。つまり、パリから八丈島へは国際便と国内便or船の乗り継ぎが必要になる。
ゆえに『帰ってきたのかよ』がパリから日本への帰国を示している場合、非常に違和感が生じてしまうのだ。シンプルに考えたら『お前、なんでここに?!』くらい出てもよさそうである。
もし仮に和也がEメールやエアメールを駆使して由佳に八丈島にいることを伝えていて、帰国直後にそのまま八丈島まで由佳が来たとしよう。そうだとしても、その後の和也のセリフ『あっ、あの島さ。昨日来た時……』と続くのも、やはりしっくり来ない。感動の再会にしては話題の切り替えが早く、淡白過ぎる。近づいて抱きつくくらいしてもよさそうである。というかしてくれ。
幻想のなかだとしても、年単位で会えなかった恋人に昨日の話題である。えっ、なんか軽くない?そのズレ。その違和感。それはどこから生まれてるのだろうか……。
この違和感を解消し、物語が成立するためにはここまでに何が起きたかを想像していくしかない。
そしてその答えとは、由佳と和也は既に再会していたという真実だった。
+
幻想ではない、夕日に隠れた真実
先に書いた通り、和也は撮影のために地元民と慣れ親しむくらいの期間、八丈島に定住している。どのくらいの期間かは推察しきれないものの、その親密度から数ヶ月単位であることは間違いないだろう。
八丈島に定住していた和也と『帰ってきてたのかよ』のセリフ。この2つを合わせると、ひとつの仮説が生まれてくる。
和也の『帰ってきたのかよ』は、パリからの帰国ではなく東京からではないだろうか。つまり、ワーホリを終えて帰国した由佳と和也は既に再会を果たしており、八丈島に居を置く和也と一緒に暮らしている(いた)期間があるという仮説だ。これであれば和也の淡白な態度も説明がつく。
一緒に暮らす由佳がなんらかの事情(仕事や都合など)で一度東京に出ては、戻ってくる。そういう日常がある程度の期間あった……。という前提であらためて夕日のシーンを見返すと、そこに隠された切ない真実が浮かび上がってくるのだ。
もうここまで4回(計24分)は観ていると思うが、もう一度だけ、目を凝らしてよく見てほしい。
まずは和也が夕日を見るシーンから。
その後『フジワラくん』と呼び止められ、由佳と会話をするシーン。
そして由佳が消えた後のシーン。
もうおわかりだろう。由佳との会話の前後。奥の夕日に注目してほしい。その十数秒で夕日の形が変わり、そしてもとに戻っている。
そう、由佳と会話をしているシーンだけが時系列が異なるのだ。なぜか?それはこのシーンがどこかでがんばっている恋人を想うような単なる幻想ではなく、過去にあった記憶の再現であるからだ。
夕日の表現から、この仮説が限りなく真実であることがわかった。由佳と和也は既に再会し、そして再度別れていたのだ。季節は6月、由佳はノースリーブ姿なので真夏の記憶かもしれない。その記憶が鮮明に再現され、和也の目に耳にまるで実体を持ったかのように写っている。切ない……。喧嘩はしたけれど5話ではわかり合うために、少なくとも未来につながる再会を期待する旅立つだったのに。なぜふたりは別れたのだろう。『自分の夢に、嘘はつけない。』が二人の人生を分けたのであれば、あんまりである。なんでなん……。その最後の謎。それを解く鍵は、物語を紐解くための最後の視点、対比構造へとつながっていく。
|最終話に込められた対比構造
これまで1〜5話にわたって物語をより深く理解するために、各話につくられた対比構造を軸に紐解いてきた。では、6話で対比されているものとはなんだろう。
6話は由佳が現実に登場しないので、由佳―和也間での対比は見られない。それ以外に大きな対比構造がひとつ、1分全体を通して置かれている。それは、これだ。
冒頭で和也の撮影した写真と、ラストで写るふたりの写真。どちらもモノクロで、左に男性、右に女性。お互いにパートナーと対比構造になっている。長い人生を共に歩んできた老夫婦と、もうありえない未来を写したふたりの写真。和也と由佳の写真は季節のアンバランスさが、より一層もう交わらない人生を喚起させる。さらにここまで使われてきたBGMの蒼氓の歌詞がその文脈を逆転し、和也の心情へリンクすることで、さらに切なさを増強しているのだ。
ああ、切ない……。なぜ和也は会いに行かないのか?わたしの推論とは異なるが、たとえば由佳がそのままパリに暮らしているとする。東京でもいい。過去を妄想するくらい恋い焦がれ、焼け付くような気持ちを抱えているならば、会いに行けばいいのだ。それこそジャックスカードを使って。『パリまで、帰りはオープンで』である。
しかし、物語はそうはならない。
|導き出されるひとつの解 第六話の真相とは
以上を踏まえて、答えはではないがひとつの解を示したい。繰り返すが解釈の余地のひとつであり正解ではない。
なんらかの事情により、和也はもう由佳に会うことはできない。永遠に。そう、これは別離ではなく死別だったのだ。こう考えると、白を基調とした由佳の服装や十字架のアクセサリーもまた違った文脈が宿り、胸に刺さってくる。
この世に生きている限り、誰もがたどり着く先へ、また一足先に由佳は行ってしまった。それでも和也は写真を撮り続けている。『自分の夢に、嘘はつけない。』から……。
|幻の第七話
これまでの考察をもとに、ふたりの死別というひとつの解を示していた。正解ではない。なんなら間違っていてほしい。でも……。そう、こういった解釈の余地、懐の深さがパンとカメラの魅力であり、切なさを何倍にも拡張している。
これまでパンとカメラの世界を繰り返し6分と書いていた。しかし、賢明な読者諸氏はもうお気づきだろう。動画には6分の先、7:00〜8:30が存在している。
7:00からは厳密にはパンとカメラの世界ではない。提供もジャックスカードではなく、エースの企業CMだ。パンとカメラから数年後に放映された、いうなればファン向けのスピンオフ。しかし、死別説を踏まえてスピンオフを捉えるとまた違った見え方ができる。
これは人生の使い方によってあり得た未来であり、可能性のひとつであり、和也の願いのひとつなのかもしれない。使われなかった人生の選択肢のひとつ。その中でも由佳に再会した和也はこうセリフを残している。
また、は何を指しているのだろうか。また遅れてしまった。また間に合わなかった。また。後悔の表象としての言葉の選択。
エースのCMでの由佳と和也は、やはり提供も異なるからか微妙にキャラクタの感じも異なる。しかし、『また』に込められた和也の想いを想像すると、こんな感じに異国で再会してごはんを食べに行くような未来があってほしいと想わずにはいられないのだ。
|おわりに
たのしいは共感できるコンテンツだ。すぐ見れたり、誰かとシェアしたり、加速度的に供給されてくる量に食べ放題つまみ食いしたり。そんな時短速攻中毒性のコンテンツが今は主流なんだと思う。
一方で、「切ない」は視聴に時間がかかるコンテンツだ。物語に宿るから瞬間瞬間では生まれないし、バズりにくい。だから、時流ではないのかもしれない。
しかし、一度摂取した切ないは自分だけの血肉となり、ひとりきりの孤独としてこころの奥で長く輝いてくれる。そんなあなただけの孤独は何年も、何十年もこころに居座ってくれる。それはきっと誰ともシェアできない類の感情だ。ゆえに耐久性が高く、強い。
今回、本稿を書くにあたって100回はCMを観直した。これまでを合わせると200回は、観ていると思うが、まったく色褪せない。そんな深い感動と魅力。物語の強度に感嘆するばかりだ。たった6分という短い時間を共有しただけなのに、もう何十年来の友人のように、ふとした瞬間で和也の幸せを祈っているのだから。
和也はあれからどうなったんだろう。どんな人生を過ごしたのだろうか。
パンとカメラに出会えてよかった。観れて幸せだ。こんなこころの灯火のようなの名作にもっともっと出会いたいし、これからも生まれてくることを願ってやまない。
本稿の最後に、CMで歌われた蒼氓の先の歌詞を引用し筆を置く。
切ない。
おわり。