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“死”の何故どこが悪い?

今日、仕事場で、ベテランさんと新米の会話で、
ベテラン男性が新米くんに、
「それじゃ死にたいばっかじゃないか」と話してた。
しかし
「えっ?私、早く死にたいですよ」
とベラベラ話し続ける事はできなかった。
何故いけない?
まず、母より先に死んでこれ以上悲しませたくない。私の死骸も死に方もみせるわけにいかない。

次は第一発見者が見つからない。
見つかったら、どうやってその人に第一発見者になってもらえるように死に方を考えなければならない。
何より第一発見者探しに難航しそうだ。

今、森雪之丞先生の詩をたまたま読んでいた。
「72歳のスピードレーサー」
抜粋
We were born to die
死ぬために生まれた 
何も悲観的な話ではない
死ぬためには生きなければならない
なら“どう生きるか”と訳すべきだろう
だがなぜあんなに急いだのか?
スピード・レーサーは

まあ 私はスピードは遅いですが、なぜが死がいけないのか。

ごめんなさい。詩に夢も憧れもありません。できる事をしよう。書き出すしかない。書き出す努力してる。結構苦しい。でも、一生書き出す覚悟はできた。最期までお付き合いいただけますか?