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阪神大震災の日を思って、2022年に書いてみる

今日、母の投稿が新聞に載っています。
母は、エッセイ、小説を書き、新聞に投稿するのが、趣味です。
以前に募集テーマがあって投稿したものが、その時は載らず、今日、阪急大震災の日に掲載される。
以前にも書いたが、新聞に掲載される前に電話があり、「割愛、推敲しますがいいですか?」とくる。すると、バッサリ、跡形のアトくらいしか残ってない。「私はどこ?」
今回、テーマ投稿からスライドさせたのだから、きっとそうであろう。
今さっき、読みましたが、まとめ文になってました。

私にとっての阪神大震災は、この「私の駅」の詩に凝縮されている。

当日、朝、目覚めて近所の方から「お母さん元気?」と電話があり。ん?と思いながら「元気ですよ?」と答える。
で、阪神大震災があって気づいて、テレビをつけて見たのが11時頃。テレビに阪急伊丹駅がぺっちゃんこに潰れて炎があがっていた。潰れていても、どこに何があったか、わかる残酷さ。
バレエの教室もあったり、その駅から、子ども達だけて、大阪にレッスンに行った。
初めて、モノラルのラジカセも買った。
芸能人もいっぱいきた。
一人で、改札口まで、いろんなパターンで行っていた。
家から駅まで歩いて20分、自転車で10分、バスで5分。
バスも縦横無尽に走っていたが、乗りこなしていた。
その道すべてが思い出です。
そう。そのテレビ画面を見てた時は涙が出ない。大変な事になった。守るべき者を守らなきゃと気が張っていたのだろう。

阪急伊丹は被害エリアの入り口でしかなく、神戸の方が酷いので、当日以来、その映像は見ることはなかった。
父母と連絡ついたのは、当日夕方5時でした。伊丹には住んでいません。

私の後悔は、伊丹は被害が少なかったから、友達、誰とも連絡を取らなかった事です。
1年近く空けての年賀状、返事来なくってしまった。4人くらいは年賀状を送り合っていた思う。
母と住んでたとこを訪れた時、友達の家にいってもいなかった。
私に魔法の言葉「先生。なゆたさんは、計算は間違ってるけど、やり方はあってます」をくれた とーこ とも連絡が途絶えた。この言葉がなかったら、こんなふうに、自分自身を理解し明るくのびのび知恵を出し生きていなっただろう。
私には幼馴染はいない。

そして、まだ新しくなった阪急伊丹駅を訪れてないのだ。その新しくなった阪急伊丹駅周辺を歩きながら、「変わったなぁ。ここに○○があったなぁ。」とか思う妄想をすると泣ける。
訪れた事もないのに、見たこともないのに、泣けるというわけのわからない私。

今住んでる所が、栄えるのは、嬉しいが、ふるさとの駅が変わらないでいて欲しいというわがままなんでしょうか。



ごめんなさい。詩に夢も憧れもありません。できる事をしよう。書き出すしかない。書き出す努力してる。結構苦しい。でも、一生書き出す覚悟はできた。最期までお付き合いいただけますか?