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[短編小説]リフレーミング

 ***

「――甲斐瑛太郎。目の前にあるのは、あなたにとっての宝です」

 下駄箱の中に入れられていた手紙を頼りにしながら空き教室に入った瞬間、ボイスチェンジャーを使ったような雑音の混じった声が、僕の耳に届いた。

 教室の中を見渡すも、パッと見た感じでは誰かがいる気配はなかった。しっかりと探せば、この悪戯を仕掛けた人物を特定出来るのかもしれないけれど、それよりも宝が何なのか早く確かめたかった。
 教室の真ん中に置かれた何の特徴もない箱の前へと進み出る。

「さぁ、開けて確かめてください」

 箱の前に立ったことを見計らったかのように、再び雑音混じりの声が響いた。
 僕は怪しさを感じながらも、声のままに従う。

 無機質な声に従って、箱を開けると――、

「……ガラクタ?」

 僕は正直な感想を口にしてしまった。

 箱の中身は、パッと見たところ金貨が入っているように思えたが、よくよく目を凝らすと、金色の折り紙で作られたお手製のものだった。しかも、何度も折り直したのか、金色の折り紙はしわくちゃになっている。
 宝物だと言われて、ワクワクしながら開けたところにこんなものが入っていれば、肩透かしを喰らうのも仕方がない話だ。

「が、ガラクタなんかじゃありません! これはれっきとした宝であって――」

 むきになった反応が、少し面白かった。

 しかし、雑音混じりの声は言葉の途中でぷつんと途切れた。ボイスチェンジャーをオンにしっぱなしなのだろう、ザーッといったノイズだけが虚しく空き教室に響いていた。なんだろう、この空気は。

「よ、用がないのなら、僕はこれで帰らせてもらうよ」
「……本当に、憶えがないのですか?」

 先ほどのむきになった声とは打って変わったような、僕を値踏みするかのような冷静な声で問いかけられる。

「う、うん。残念だけど、全くないかな。僕には幼稚園の子供が作ったような、金色の折り紙のガラクタにしか見えない」

 子供だったら金メダルを模した折り紙に対して、純粋に宝物だと喜んでいたのかもしれない。だけど、残念ながら、僕はもう高校生だ。こんなものを手に入れたところで、別に嬉しくも何ともない。

「……そうですか」

 落胆したような声が響いた。期待に応えられなくて何だか申し訳ないような気持ちになるが、別に僕が悪いわけじゃない。むしろ、空き教室まで呼ばれた僕の方が被害者だろう。

「じゃあ、そろそろ本当に帰るよ」
「あ、待ってください!」

 聞こえたのは、ボイスチェンジャーの声ではなくて、肉声だった。少年のあどけなさが残った声は、どこかで聞いた覚えがあったが、すぐに特定の人物に思い至ることは出来なかった。

 少年の声は、すぐに雑音混じりの声に変わる。

「今日のところは、ひとまずこの宝を持って帰ってもらっていいです。ですが、ただでは与えません。一日、猶予を与えます。また明日、同じ時間にこの空き教室に来て頂いて、この宝について、あなたの見解を答えていただきます」
「え、いや、ちょ」
「見事、私が求めていた答えを提示して頂けたら、この宝はそのままあなたに委ねます。しかし、もしも私が求めている回答に辿り着くことが出来なければ、残念ですがこの宝は返していただきます」

 なんか勝手に話が進んでいる気がする。だけど、僕が言葉を挟めるような隙は与えられなかった。よく分からないまま、話を聞くことしか出来ない。

「二十四時間しっかりと宝の価値を考えて、是非ともこの宝をあなたのものとすることが出来るようにしてください。では、今日はこれで解散とします。さようなら」

 変に礼儀正しく言われてしまっては、この金色の折り紙を手にして、この空き教室を出るしかない。頭の中に疑問符を浮かべながら、金色の折り紙をワイシャツの胸ポケットにしまうと、「さ、さよなら……」と口にして廊下に出る。

 そして、後ろ手に扉を閉めると、

「別に欲しくないんだよなぁ……」

 正直な思いを口にしながら、ひとまず学校を後にして帰宅することにした。

 ***

 夏の日差しの影響を少しだけ和らげてくれるような木陰の下で、僕は昼食のパンを一人でもそもそと食べていた。

 こんなに暑い天気だというのに、すでに昼食を食べ終えた生徒達は、校庭に赴いて全力で遊んでいる。どうしてそこまで無邪気に遊ぶことが出来るのか。少しだけ羨ましくも思う。

「ニッシー、こっちパス」
「ちゃんと決めてよ、フジ」

 校庭に一際目立つ声が響く。昔ながらの顔見知りの姿を、僕は自然と追っていた。

 華麗なパスをする芦澤仁志希と、そのパスをしっかりと受けてゴールを決める樺地富士彦。

 僕とは違って活発的な二人。しかし実は、僕と二人は小学生の頃の幼馴染だ。彼らの近所に住んでいた僕は、二人は遠くかけ離れた世界にいると分かっていながらも、仲良く遊んでいた。しかし、小学五年生のある日、富士彦はお父さんの都合で転校することになった。それから、僕と仁志希も、何だか疎遠になり、気付けば一緒に過ごすことはなくなっていた。
 そんな僕らに、奇妙な形で再び縁が結ばれた。
 転校して以来一度も会っていなかった富士彦と、同じ高校で再会するようになったのだ。仁志希と富士彦は同じクラスになったが、残念ながら僕だけは違うクラスの所属となった。
 最初は寂しい思いもあったが、そんな思いはすぐに遥か彼方へと消し飛んだ。

 高校生が持つべきスキルを人並外れて持っていた仁志希と富士彦は、いつしか、この高校の中でも有名になった。仁志希と富士彦はいつも隣に並んでいて、更には二人の周りには常に誰かがいた。

 今だって、サッカーの中心はほとんど二人だし、周りを注意深く見れば二人の姿を校舎の窓から見ている人がちらほらといる。それほど人気な仁志希と富士彦に、僕は不釣り合いだ。

 しかし、そんな二人を凌駕する勢いで、目立つ人物がもう一人いる。

「あー、やられたぁッ! でも、次はそう簡単に決めさせないからな!」

 日高泰造、現役高校教師だ。タイゾー先生は、二年前に教師になったばかりらしい。先生という立場を振りかざすことはせず、僕らと同じ――いや、僕らよりも子供っぽい性格なことも、生徒からの人気が高い理由の一つだ。

「よっしゃ! 相手に目に物を言わせてやろうぜ!」

 タイゾー先生は誰よりも声を張っていて、その声に呼応するように仁志希や富士彦は勿論のこと、一緒にサッカーをしている人も声を上げる。たかが昼休みの遊びサッカーだというのに、盛り上がり方はまるで試合さながらだ。

 汗を滴らせる彼らを羨ましく思いながら、僕はあの輪の中に混じることは出来ないなと思った。

 僕とは程遠い景色から視線を反らすと、僕はワイシャツの胸ポケットから昨日の金メダル風の折り紙を取り出した。見れば見るほど、ただのボロボロの折り紙しか見えない。だけど、僕は律儀にも、金メダル風の折り紙についてずっと考えていた。

 そもそも、この折り紙を手にするようになってしまった昨日の出来事を思い返す。
 この折り紙を手にするようになったのは、放課後の話。一人残って教室に飾られていた花の水やりを終えた僕は、家に帰ろうと下駄箱に行ったところ、学校の地図が簡易的に書かれた手紙を見つけたのだ。この高校に入学してから三か月も経っているにも関わらず、明確な目標もやりたいことも見つけられずにいた僕は、非日常を味わいたくて、宝の地図に従って空き教室に行ったのだった。
 だけど、結果はご存じの通り。僕は大して面白い反応を示すことも出来ず、仕掛け人を困らせてしまった。

 どうして僕なんかが選ばれたのだろう。教室での僕の立ち位置を知っていれば、わざわざ僕を標的にしようとは思わないはずだ。

「ごめん、ボール取ってー!」

 考え事から現実に引き戻されると、僕の前にはボールが転がっていた。僕は反射的に折り紙を胸ポケットにしまうと、言われるがままボールを掴んだ。ボールに付着していたざらついた土の感触が手に伝わったところで、失敗したことに気が付く。しかし、今から数秒前に戻って、ボールを無視することは叶わない。

「ありがとう。助かったよ……、って、エーちゃんじゃん」

 申し訳なさそうな表情で近付いて来た富士彦と仁志希だったけど、僕だと分かると、見て分かるほどに破顔させた。彼らは――、特に富士彦は、クラスが違っていても、分け隔てなく僕に接してくれる。

 甲斐でもなく瑛太郎でもなく、僕のことを小学校の頃のあだ名で呼ぶのは、今や富士彦くらいだろう。

 富士彦と仁志希を前にすると、昔の頃を思い出す。昔の僕は、今の僕とは百八十度違っていて、思い出す度に恥ずかしさに胸がやられる。正直、二人とは長く接点を持ちたくはなかった。

 僕は拾ったボールを「はい、これ」と、富士彦に軽く放って渡した。「お、さんきゅ」と視線を僕に向けたまま、胸元でボールを受け止めると、そのまま華麗にリフティングを始めた。一緒に遊んでいた幼い頃よりも、ボールの扱いが上手くなっている。

「なぁ。せっかくだし、エーちゃんも一緒に遊ばない?」
「え」
「だって、小学校の頃のエーちゃんは、めっちゃ足速かったじゃん。俺、尊敬してたんだぜ」
「……あはは、でも、今は見ての通り体も細いし、体力もないよ」

 そう断ると、富士彦は大きな体を子犬のように縮こまらせた。富士彦の思いと連動するように、リフティングしていたボールも地面に落ちる。高校一年になったというのに、まるで子供の時と変わらない。

 苦笑を浮かべていると、ふと視線を浴びていることに気が付いた。その気配を追いかけると、僕のことをじっと見つめている仁志希がいた。がっちり仁志希と目が合うと、仁志希は口角を微かに上げた。

「ごめんね、瑛太郎。飯食ってる最中に」
「いいよ。むしろ、誘ってくれてありがとう」
「……じゃあ、また」

 そう言うと、富士彦と仁志希は、タイゾー先生たちの方へと合流した。そして、再びサッカーを始める。

 仁志希と富士彦が華麗なコンビで敵陣に攻め込む。タイゾー先生が大きな体を活かして、ボールを奪う。「大人げないっすよ、タイゾー先生」「ハハハ、勝負に大人も子供もない!」しっかりと会話をしながらも、激しく走り込むタイゾー先生は一人で反対側のゴールまで駆け込み、シュートを決めた。先生という立場も無視した独りよがりのプレーに、誰も文句は言わなかった。味方は当然のこと、相手側も、爽やかな笑顔で受け入れている。それはきっとタイゾー先生のキャラクターだからこそ、成せていることだろう。

 タイゾー先生が皆とハイタッチを交わしていると、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。

「お、五時間目が始まるから、みんな戻ろうな」

 途端に先生の顔になって、タイゾー先生が周りに声を掛ける。「先生みたいなこと言わないでくださーい」「正真正銘、俺は先生だっての!」と軽口を交し合いながらも、ぞろぞろと校庭から人の姿が少なくなっていく。

 そんなやり取りを見ながら、僕も教室に戻らないと、と思った。

 そう思ったのに、誰も見向きもしないような木陰の下から、僕の腰は全く上がらなかった。

 ***

 特別な個性も才能もなく、誰かと接することにすら一苦労する僕は、学校での居場所が限られている。

 教室の隅っこ、校舎の階段下、図書室の端の席――、そして誰もいない校庭の木陰の中。

 僕以外の生徒は校舎の中で授業を受けているから、独り占めしている校庭はあまりにも静かだった。聞こえる音は、セミが鳴く音くらいだ。ただでさえ暑い天気を凌ごうと、木陰に身を潜めているというのに、そんな努力を嘲笑うかのように鳴いている。

「……」

 僕は溜め息を吐いた。

 今こうして授業を抜けていることも、きっと誰も気にしていない。
 いっそのこと、昨日見たガラクタが本当に宝物で、僕を輝かせてくれればいいのに。そうしたら、皆、進んで僕に話しかけてくれるはずだ。

 そう思いながら、なんて夢物語なのだろう、と自分自身でも思った。それに、もしも宝物を持っていることで周りに認められたとしても、それは僕を見てのことではない。宝物がなくなった瞬間、また同じように見向きされなくなるだけだ。

 一人渇いた笑いを浮かべていると、

「――何やってるんだ、甲斐」

 頭上から落とされた声に顔を向ければ、タイゾー先生がいた。健康的に全身が焼けているタイゾー先生は、半袖のシャツを腕まくりしていた。

「……タイゾー先生、どうして」
「これでも先生なんだから、授業中に生徒が校庭にいたら様子を見に来るのは当然だろ」

 タイゾー先生は胸元を仰ぎながら、迷いなく答える。

 これもタイゾー先生が生徒から人気がある理由の一つだ。いつも子供じみた態度を取りながら、しっかりと人のことを見ている。けれど、タイゾー先生にとっては普通のことようで、「しかし暑ぃな」と、頬に流れる汗を肩を使いながら拭っていた。

「あー、ダメだ。疲れた」

 そう言うと、タイゾー先生は僕の隣にどっしりと腰を下ろした。生徒に混ざって全力でサッカーをすれば、それは疲れるだろう。
 だけど、それよりも疑問点がある。

「え、僕のこと教室に戻そうとしたんじゃないんですか?」
「遠目からすれば、俺が甲斐を説教してるように見えるだろ。別に、授業を受けたくない時に、無理して受けなくてもいいんじゃね」

 とても教師が言う台詞とは思えなかった。自分を一般的な常識に当てはめようとしないタイゾー先生を、遠い目で見つめる。自分に自信がない僕には、タイゾー先生のように自由奔放に行動することは出来ない。

 風を全身に感じるように、タイゾー先生は目を閉じていた。この一瞬を楽しめるような心の余裕が僕にもあればいいのだけど、胸の奥にある微かな罪悪感が許してくれない。

「……どうやったら、タイゾー先生みたいに自信に満ちて生きるようになるんですか?」
「自信なんてねぇよ」
「え?」

 隣を見れば、タイゾー先生は堂々と寝転がっていた。いや、タイゾー先生の行動で自信がないというのなら、自信がある人なんていないんじゃないか。

「いつも俺の言うこと一つに、生徒の人生に影響が及ぶんじゃないかとビクビクしてる。考えてもみろよ、自分の一言で相手の行く道が変わると思ったら、ちょっと怖いだろ」

 想像力を働かせながら、確かにそれは恐ろしいことだと思い、僕は無言で頷いた。

「だけど、先生という立場になったからには、生徒達には無駄に気を遣って、自分の個性を押し込めて欲しくないって、少なくとも俺は思ってる。他の先生はどうかは分からないけどな。だから、出来る限り一緒にはしゃいで、時には教えることを教えて、卒業してからも節度を持った自由な大人になれるように手助けしてやりたいんだ」

 タイゾー先生がそのような思いを抱いて仕事をしていることを、僕は初めて知った。いつも生徒と同じ振る舞いで遊んでいるから、自分にとって楽しいことしかしない人だと思っていたが、それは僕の勘違いだったようだ。

 ちゃんと話してみないと、人は分からない。

「お前はどうなんだ、甲斐」
「え?」
「周りに気を遣い過ぎだ――、とは言わないけど、もっと自分を出してもいいんじゃないのか?」

 セミの煩わしい鳴き声だけが、僕とタイゾー先生の間に響いている。
 僕はどうして自分を曝け出すことをしなくなったのだろう。過去を思い出す、という言葉にするまでもなく、その理由に思い至る。それは、まだ僕自身が、あの出来事を消化しきれていないからだ。

「――怖いんですよ、失敗が」

 そして、長い沈黙の末、僕は正直に打ち明けることにした。

「実は昔の僕って、仁志希や富士彦よりも足が速かったんですよ」

 タイゾー先生は僕の顔を見ながら、黙って聞いてくれている。僕は校庭に目を向けながら、学校の中を世界の全てだと思って駆け抜けた少年期を思い出す。
 誰よりも足が速かった僕は、小学校のヒーローだった。だから、周りの皆は、僕と話してくれていた。

「でも、小学五年の運動会で、僕は失敗したんです。力んで走った結果、思い切り転んで、リレーのバトンを繋げられずに勝利を逃した。しかも、恥ずかしいのが、自分が組を優勝させるって大言壮語していたことなんですよね」

 それに、この年になって、リレーで一位を取ったクラスには金メダルが贈呈されるようになっていた。クラス一丸となって一位を目指していたのに、僕はその期待を裏切ったのだ。今もバトンが僕の手から離れていく感覚、そして、クラスメイトが落胆する顔は、鮮明に思い出せてしまう。

「それから、失敗が怖くなって、必要以上に周りの目を気にするようになっていました」

 自嘲交じりに言った言葉も、タイゾー先生は静かに耳を傾けてくれていた。

「一度失敗したら、取り返せないじゃないですか。だったら、つまらないとしても、静かに暮らしていたい」

 そのような思考が、いつしか甲斐瑛太郎を象るようになってしまった。元気溌溂としていた昔には、たとえ演技だとしても、戻ることは出来ない。
 今まで言葉にしたことのない思いを口にすると、胸の奥にすっと風が通った気がした。言葉にするだけで、こんなにも軽くなる。軽くなっただけで、何かが劇的に変わったわけではないけれど。

「……なぁ、甲斐」
「はい」
「プールの近くで涼もうぜ」
「はい?」

 タイゾー先生の突然の提案に、間の抜けた声が漏れた。

「今日めっちゃ暑いからさ、プールの近くに行ったら、ここより涼しいと思うんだ」
「怒られないんですか?」
「大丈夫。一応、プールの様子を見て来いって言われるから。放課後行こうと思っていたのが早まるだけだ」

 からっと笑いながら木陰を離れていくタイゾー先生の後を、僕は仕方なくついて行く。ここまで来たら、もうどうにでもなれ、だ。

 しかし、タイゾー先生の目論見は外れ、プールサイドは暑かった。太陽の熱を吸収していて、灼熱の中に放り込まれたのかと錯覚するほどに身を焦がす。涼し気な青色に光り輝くプールが目の前にあるから、余計にそう感じてしまう。

「誰だよ、プールの近くなら涼しいとか言った奴……」
「言っておきますけど、タイゾー先生ですからね」
「まぁ、プールが綺麗なことは確認出来たから、良しとするか」

 タイゾー先生はシャツの胸元を仰ぎながら、しれっと言う。

「あ、そうだ。甲斐、今日ジャージとか持ってる?」
「……一応」
「よし、スマホとか財布とか、そこの物陰に置いてみ」

 言われた通りに、僕はポケットの中に入れていたものを、全部プールサイドの陰になっている場所に置く。念のため、金色の折り紙も一緒だ。

「ここ座って足入れてみようぜ。冷たくて気持ちいいぞ」
「あ、本当だ」

 そう頷くと、「だろ?」とタイゾー先生は、嬉しそうに僕の肩に腕を回した。そして、次の瞬間。

「――ぉわッッ」

 水飛沫と共に、僕の体は水に覆われた。

「な、な、な、何するんですかッ?」

 水面に顔を出すや否や、声を張り上げる。多分、ここ数年で一番大きな声だ。

 僕の声を無視するように、「ハハハッ、めっちゃ楽しいな!」とタイゾー先生は無邪気に笑っていた。そして、ひとしきり笑い終わると、

「なぁ、甲斐。世間一般の目からしたら、授業サボってプールに飛び込むなんて、失敗そのものに捉えられるんだろうな。けど、どうだ。失敗したとしても、命まではなくならない。過度に怯える必要なんてないんじゃないか」
「……」
「大事なのは、今だよ。お前は過去よりも成長してる。未来のことはその時に考える。そうやって考えたら、今だけに集中出来そうじゃね?」
「……そう、かもですね」

 気付けば、僕はもがくことを止めて、タイゾー先生の話に集中していた。
 実際、胸に湧き出るこの感情は、久し振りに感じるものだった。タイゾー先生との他愛のないやり取りを、僕は楽しんでいる。

「瑛太郎もタイゾー先生も、何やってるの?」

 投げられた問いに顔を上げる。そこには――、

「お、仁志希じゃん。お前もサボりか?」
「違います。教室の窓から二人の姿が見えたから、腹痛いフリして様子見に来たんですよ」

 ワイシャツを捲りながら、仁志希は淡々と答えた。

「そっか、心配してくれてサンキューな。でも、ちょうど良かったよ。プールの汚れ具合を確かめるために来たんだけど、足滑らせてさ。悪いんだけど、仁志希のジャージ貸してくれない?」

 仁志希の視線が、僕に注がれる。少しだけ僕より背の低い仁志希が、今はやけに大きく見えた。きっとプールから見上げているからだろう。でも、嫌な感覚ではない。

「あ、僕のジャージは下駄箱のロッカーに入ってるんだけど……」
「だってさ。甲斐と仁志希のジャージを持って来てくれないか? で、仁志希のジャージは一時的に俺に貸してくれ」
「はぁ、仕方ないですね。ちょっと待ってて」

 そう言うと、炎天下の中、仁志希は校舎に向かって駆け始めた。「ちゃんと洗って返すから、よろしくなー」とタイゾー先生は仁志希の背中に声を掛ける。「あ、ありがとう」と僕も言うと、仁志希は無言で手を上げた。

「――こーんな感じでさ」

 仁志希を見送ったタイゾー先生の口から声が漏れ、僕は「え?」と聞き返した。タイゾー先生は、白い歯を見せている。

「こんな感じで、失敗した時は意外と誰かが助けてくれるもんだ。だから、少しずつ挑戦していったらいいんじゃないか?」
「……そう、ですね」

 反論の余地はなかったから、素直に同意した。プールに飛び込む前の僕は、必要以上に怯え過ぎていたのだろう。もう少し、全身の力を抜いてもいいのかもしれない。

「あ、そうだ」

 思い出したように、タイゾー先生が言う。

「一応分かってるとは思うけど、一人で勝手にプールに飛び込むなよな」
「ふふっ、失敗してもいいんじゃないんですか?」
「それはそれだ。常識かつ自分と周囲の身に危険がない範囲でなら、全然止めねぇよ」

 仁志希が来るまでの間、僕は重力を手放して、プールに浮かぶ。燦爛と輝く太陽が、どこか心地よかった。

 ***

「――甲斐瑛太郎。この宝について分かりましたか?」

 昨日と同じように空き教室の中に入ると、ボイスチェンジャーを使った雑音混じりの声が聞こえた。

 ジャージのポケットから取り出した金色の折り紙を見つめながら、

「うん、分かったよ」

 そう僕が言った瞬間、ボイスチェンジャーから息を呑む音が聞こえた。声の持ち主も緊張していることが伝わって来る。

 僕が導き出した答えは、間違っているのだろうか。いや、たとえどんな結果が待ち構えていようとも、僕の答えは変わらない。

「これは、金メダルだね。……あの日、僕が手にすることが出来なかった」
「正解です。よく分かりましたね」
「今日たまたまタイゾー先生と話したら、ようやく気が付いたんだ。……不思議だよね。最初はガラクタだとしか思っていなかったのに、見方が変わったら、急に宝物のように思えるようになったんだ」

 意味の分からない人からしたら、この金メダルは子供が作ったガラクタのように思うだろう。第一印象をそう捉えた僕のように。
 だけど、今は違う。

「それでは約束通り、その金メダルはあなたのものです。堂々と持ち帰ってください、甲斐瑛太郎」
「ありがとう。そうするよ、仁志希」
「――ぇ」

 思わず漏れ出した声は、どこか少年のあどけなさが残るような声だった。その声を聞いて、僕の予想は外れていなかったと確信する。

 どうするか迷っているかのような時間が流れたが、やがて仁志希が教卓の下から姿を見せた。仁志希の表情には、あからさまに動揺の色が滲み出ていた。

「気付いてたんだ」
「うん、この金メダルの正体を思い出したら、自然とね。富士彦か仁志希のどちらかと思ったけど、時期を考えたら、仁志希しか思い当たらなかった」

 小学校の運動会で、リレーで一着を取ったクラスには金メダルを渡すという流れが出来たのは、小学五年生の時だ。もちろん、各クラスに本物の金メダルを渡す余裕はないから、仁志希が作ってくれたように、小学校の先生たちが金色の折り紙で手作りをしてくれていた。金メダルを貰ったクラスの子は、みんな笑顔を浮かべていた。
 運動会前に引っ越してしまった富士彦は、このことを知らないはずだ。

「そっか。ごめんな。こんな変な悪戯をしちゃって」
「別に気にしてないよ。楽しかったくらいだし。……でも、どうして宝探しみたいなことをしようと思ったの?」

 手紙の指示に従って金メダルを手に入れただけの僕と比べて、折り紙をしたり、ボイスチェンジャーを手にしたり、空き教室を見つけたりなど、仁志希の方には大きな手間が掛かっているはずだ。

 そんな手間を掛けてまで、仁志希が僕に金メダルを渡そうとした意図だけは、どう考えても分からなかった。メリットなんて、どこにもない。

 仁志希は真っ直ぐに僕のことを見つめると、

「運動会が終わった後くらいから徐々に自信をなくし始めて、中学で周りの奴に馴染めなかったり、高校に入ってからもクラスで一人でいる姿を見てさ。お節介だと思いながら、つい動いていたんだ。急に戻るのは難しくても、昔のお前を思い出して欲しかった」

 一息にそう言った。そして、「今更になって、悪かったけど」と頭を下げた。「い、いやいやいや、仁志希が悪いわけじゃないよ」と僕は、すぐに頭を上げさせる。本当に仁志希のせいではないのだから、謝る必要なんてどこにもない。

「……確かに、小学校の時は、そこそこに運動も出来ていたけど、大したことはなかったよ。子供には当たり前っていうかさ。だから、仁志希には申し訳ないけど、僕にそこまでしてくれる価値なんて……」
「そんなことない! エーちゃんは、もっと自分に自信を持つべきだ!」

 力強く言い張ったけど、仁志希は途中で顔を赤くさせた。仁志希の口から「エーちゃん」というあだ名が出て来たのは、一体いつぶりだろう。

 仁志希は自分の中で割り切るためか、「あーもう」と頭をガシガシと掻くと、

「エーちゃんはすごい奴なんだよ。優しくて、周りに気を遣えて、自分よりも人を優先してくれる。そんなエーちゃんに、俺はずっと憧れていた。エーちゃんは俺に持っていない良いところを、たくさん持っている」
「……僕の良いところ、か。ありがとう。でも、仁志希が言ってくれたことも、パッとは思い当たらないや」

 今まで僕は自分自身に何も出来ないと思って生きて来た。むしろ、周りの人に迷惑を掛けないように、波風立てないように生きて来た。その面を良いところと言われても、僕には正直ピンと来なかった。

 タイゾー先生から身を持って教えてもらったとしても、どこまで行こうと自分自身を受け入れることが出来ない僕がいた。

「いや、もっと考えてみなって」

 いつまでも否定的に考えてしまう僕に対して、仁志希は諦めずに諭すような口調を投げかける。

「たとえば――」
「あれ、ニッシーにエーちゃんじゃん。何してるん?」

 そこへ突然、何も事情を知らない富士彦がやって来た。富士彦はいつもの調子で、空き教室の中に入って来る。
 教室の中に入った途端、富士彦の視線が僕の手元に注がれる。

「って、この金メダル。もしかして、俺が転校していなくなった後に、運動会でもらったやつ? へー、やっぱどこの小学校も似てるんだな」

 富士彦は僕の手から金メダルを取ると、子供のようにキラキラとした目で言った。富士彦の姿を見て、僕と仁志希は顔を合わせて笑った。富士彦は、小学校の頃と何も変わらない。

「それ、昔の記憶を頼りに、俺がエーちゃんに作ったものだけどね」
「マジか。ニッシー、めっちゃ器用じゃん」

 富士彦は大きな体で満面の笑みを浮かべながら、金メダルを眺め続けている。しかし、富士彦は眉間にしわを寄せると、

「ん、でも、これまだ未完成だよな?」

 声を揃えて、僕と仁志希は「え?」と言った。金色の折り紙を、金メダルの形にする。それ以外に、何があるというのだろう。しかし、僕達の疑問に答えることなく、富士彦はリュックからペンを取り出すと、金メダルに何かを書き始めた。

「フジ、何書いてるんだ?」

 自分が作った金メダルに、何も言わずに手を加えられたことに、仁志希は少しだけ怒っているようにも見えた。仁志希の些細な変化を、金メダルに集中している富士彦は全く気付く素振りも見せず、「だってさぁ」と間延びした声を出す。

「金メダルには、そいつの良いところを書くもんだろ」

 富士彦に「ほい」と渡された金メダルを見ると、豪快な文字で「運動も勉強も出来て、気が利く良い奴! 俺の親友!」と書かれていた。
 仁志希は僅かに口を開けていた。そして、仁志希以上に、僕は呆然としている。

「転校した先の小学校では、これがお決まりだったんだけど……、あれ、もしかして違った?」

 いつも空気を読まずにいる富士彦も、僕と仁志希が何も言わないことに異常を察したらしい。富士彦には珍しく焦りの色が浮かんでいた。

「……いや。いいな、それ」

 そう小さく零すと、仁志希もまた僕の手から金メダルを取って、ペンを走らせた。迷うことなく文字を書き終わると、再び僕に金メダルを手渡す。

「――っ」

 金メダルに書かれた文字を見て、僕は息を呑んだ。

「自信がなくなりそうになった時、この金メダルを見て思い出してよ。エーちゃんは一人じゃないし、エーちゃんにはエーちゃんにしかない強みがあるってさ」

 真っ直ぐな瞳で、仁志希と富士彦が僕のことを見つめていた。僕は何も言えず、黙って頷いた。

 霞みかける視界の中で、もう一度仁志希と富士彦の思いを噛み締める。

「エーちゃんは、他の人より優れているところがあっても、絶対に見せびらかすことをしない。人の痛みを自分のように感じることが出来て、心優しい。いつまでも俺の親友」

 小学五年の運動会の日。あの時、僕の失敗で金メダルを逃してから、僕は変わってしまった。

 周りの期待を裏切ることの怖さを知り、それと同時に、何でも出来ると思い込んでいた自分の高慢さにも気が付いてしまった。
 僕には誰かから称賛を受ける資格なんてない――、そう自分自身に言い聞かせて、いつしか自分自身すらも信じられなくなっていた。

 だけど、今こうして何もなくても、僕のことを気にかけてくれて、僕のことを認めてくれる友達がいる。

 自分の心の流れが変わっていく。温かな感覚が芽生えていく。

 二人の思いが籠められた手作りの金メダルを手にして、ようやくそう思うことが出来た。

<――終わり>

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