見出し画像

[短編小説]夕立の合間に、僕と淑女と黒猫

 ***

 滝のように降り注ぐ雨に打たれながら、自分の行動に対して後悔を抱いていた。

 僕が暮らす場所は田舎と呼ぶに相応しい場所で、どこへ行くにも時間と体力と根気が必要だった。毎日通わなければいけない高校でさえも、修練かと間違うくらいに歩かされてしまう。普段であれば近所の幼馴染と一緒に帰るのに、僕は今、遠い道のりをたった一人で帰っていた。
 そして、いつもよりどこか寂しい想いを抱えながら一人で歩いていたところ――、これだ。

 最近は暑く晴れ渡った日が続いていたから、夕立という概念は頭の中から失していた。ただでさえ自分を取り巻く状況を整理することに手いっぱいだったということもある。

 だけど、今日に限ってここまで降らなくてもいいじゃないか。ひとまず夕立を凌げる場所に隠れなければ。と言っても、僕が暮らしている場所は、とんだ田舎町。今だって、田舎らしい木々に囲まれた山道にいて、雨風を凌げるような建物はない。

 ここから家まで、全力で走っても十五分は掛かる。十五分の間、この雨に打たれ続けてしまえば、流石に風邪を引くことは容易く想像出来る。
 この山道だけなら十分ほどで抜けられるとして、そこから家に着くまで避難出来るような場所はない。

「あ、詰んだ」

 脳内でシミュレーションしたところで、思わず愚痴のような言葉が漏れた。

 もう割り切って、雨に打たれながら帰ろう。どちらにせよ、今は全力で走って、憂さ晴らしをしたい気分だ。
 そう決意した瞬間、皮肉なことに雷が鳴り響いた。轟音と共に、あたり一面が眩い光に照らされる。

「……うわっ」

 視界が遮られるほど雨脚も強くなったことも相まって、僕は足を止めてしまった。走る気力が、根こそぎ奪われる。

 まるで最近の僕の状況を投影しているかのようだ。前に踏み出そうとした瞬間、僕の決意は容易く打ち砕かれてしまう。

 どうしようもなくなった僕は、首をキョロキョロと動かした。左、右と動かしたところ――、

「わっ」

 身を震わせるほどの雷鳴が、再び轟いた。思わず身を震わせたけど、林の中に建物のような影が光照らされたことを、僕は見逃さなかった。

 あんな場所に、建物なんかあったっけ……。

 疑問に思うところはあったけれど、迷っている余裕はなかった。夕立がいつ治まるかも分からない中、ここに留まり続けて打たれ続ける訳には流石にいかない。

 目測ではあるけれど、数分走れば建物の前まで近付けるだろう。
 まるで吸い寄せられるように林の中に飛び込み、建物へと訪れることにした。

 僕の目測は正しく、瞬く間に目的地へ辿り着くことが出来た。遠目で見た時は分からなかったけれど、目の前にしてようやく、ここが古びた教会の跡地だということが分かった。

 僕の町は田舎だから、人口も多くない。ましてや、ここはそんな田舎の山奥に位置している。人の目から離れ、忘れ去られてしまうのも仕方のないことかもしれない。 

 容赦なく降り注がれた雨によって、体と服の境界線も曖昧になるくらいずぶ濡れになっていたことで、辿り着いた先で受け入れてもらえるだろうかという不安もあった。
 しかし、古びた景観の前に、その不安は払拭された。
 人もいなそうなここでなら気を遣うことなく、雨宿りすることが出来る。

 そう思い、扉の前まで行こうとしたところ、「にゃあ」と雨音に消されてしまいそうな鳴き声を僕の耳は捉えた。

「あ、ごめん。先客がいたんだね」

 玄関の前に黒猫がいた。黒猫はまるで我が家でくつろぐように身を丸くさせていた。

「雨宿り出来る場所を探しているんだ。よかったら、僕もここで休ませてもらっていいかな?」

 僕の言葉を理解してくれたかのように、黒猫は体を起こして、ちょうど僕のお尻が収まる分のスペースを開けてくれた。まさか本当に僕の言葉を理解してくれたのか。普段ならすることのない思考だけれど、古びた教会という不思議な雰囲気が、そう思わせて来る。

 僕は「あ、ありがとう」とそこに腰かけ、黒猫に手を伸ばした。すると、「ふしゃあ」と威嚇するような鳴き声が響いたので、僕はすぐさま手を引っ込めた。どうやら、ただの猫の気まぐれのようだ。
 そりゃ当然だよな。そんなファンタジーみたいなことが、この現実に起こるはずがない。

 浅はかな思考に僕は自嘲を漏らすと、

「うわっ」
「ふにゃっ」

 近くで再び雷が落ちた。僕と黒猫の反応は、ほぼ同時だった。そして、再び雨脚が強くなる。

 この古びた教会に辿り着かなければ、僕はあの滝の中を今もなお走り続けていたということか。想像するだけで、ゾッと震え上がる。

「……暫く仲良くしてくれると嬉しいな」

 いつ通り過ぎるか分からない夕立を前に、少しの間だけ運命共同体になることになった黒猫に声を掛けた。仕方がない、と言わんばかりに、黒猫はほんの僅かだけこちらに身を寄せて丸くなった。

「ところで、君の名前はなんて言うの? 僕は和斗って言うんだけど……」

 沈黙に耐えられなくて僕は黒猫に語りかける。返事なんて来ないことは分かっていたけれど、興味がないように尻尾を振られてしまうと、少しだけ落胆してしまう。

「……何やってるんだか」

 一人渇いた笑いを漏らし、僕は上を見上げることにした。

 ――すると、本来なら交わるべきはずのない視線が、僕を捉えていることに気が付いた。

 ***

 空を見れば、雲一つない綺麗な青空が広がっていた。まさに夏と呼ぶに相応しい晴天を見ながら、けれど昨日のようにいつ夕立が襲い掛かるか分からないと、少しだけ穿った目で捉えている僕がいた。

 今は昼休みで、周りの皆はそれぞれの友達と楽しそうに談笑している。そんな声をBGMにしながら、僕は空を見つめていた。

 滝のような夕立に見舞われたとは思えないくらい澄んだ空に、昨日の古びた教会の跡地で起こった出来事も夢ではないかと思えて来る。

 だけど――、

「ここの近くの廃屋に幽霊が住んでるって知ってる?」
「あの林の中のことだろ? 俺は魔女って聞いたぜ」

 クラスメイト同士で交わされる噂話を耳にして、現実に起こっていたことだと思い知らされる。いや。噂の内容からしたら、ファンタジー色が混じっているような気がするのだが、僕は噂の張本人と対面して彼女の名前が沙耶さんだということも知っている。

 昨日の現実離れした夢みたいな出来事を、思い返す。

 まるで滝のように降り注ぐ夕立によって視界すらも閉ざされそうな中、古びた教会の影を林の中に捉えた僕は、これ以上ずぶ濡れになるのを防ぐために後先考えずに訪れた。

 玄関前にいるのは、一匹の黒猫だけだった。
 ただでさえ田舎という悪立地に加え、こんなにも古びた場所だ。当然ながら、ここには僕以外の人間はいないと踏んでいた。

 なのに、僕の頭上に人の気配を感じたと同時、

「なんか話し声が聞こえたと思ったから来てみれば、まさかこんなところに人が来ようとはねぇ」

 あからさまに人間に向けた会話が、降り注いで来た。
 意図せず、目が合ってしまった。僕を見下ろす形で立っていたのは、五十代後半くらいの背筋が整った淑女だった。

 驚きのあまり、僕は反射的に体勢を立て直した。視界が塞がれるほどの雨景色を、淑女は見つめていた。

「この夕立の中で、わざわざここに訪れるなんて、とんだ物好きもいるもんだねぇ」
「そ、それは、僕の……」

 ようやく僕の口から言葉が出て来た。けれど、言おうとした言葉は、最後まで紡がれなかった。こんなところで人に会うとは思いもしなかった動揺と、人見知りする性格が、ここでも露骨に現れてしまった。

 淑女はふっと一息を吐くと、

「で、和斗くんは、どうしてこんなところにいるんだい?」

 ドキリと胸が弾んだ。まだ僕はこの人に自分の名前を紹介なんてしていないのに、どうして知られているのだろう。彼女の纏う雰囲気と古びた教会の雰囲気から、目の前にいるのは人でなく魔女ではないのかという不安が漂った。

「なんで僕の名前……」
「さっき自分でその子に語りかけていたところじゃないかい」

 淑女は僕の隣にいる黒猫を指さしながら言った。

 そうか、黒猫との独り言を聞かれてしまっていたのか。種が分かれば、なんてことのないことだった。多少の恥ずかしさを憶えて、僕は黙り込んでしまった。

 暫しの間、僕と淑女と黒猫を満たす音は、滝のような轟音を奏でる雨音だけだった。

 夕立が酷いタイミングでなかったら、僕はこの場から一目散に逃げていたけれど、そうは問屋が許さない。

 どうしようと居たたまれなくなった僕の耳に、

「さや」

 意識していなければ雨音にかき消されてしまいそうな声が聞こえた。突然に言葉が発せられていたから、一瞬淑女が何を言ったのか分からなかった。

 淑女は自分に向けて指を差すと、

「私の名前、沙耶って言うんだ。こっちだけ一方的に知っているというのも、和斗くんからしたら気味が悪いだろう?」
「あ、いえ……」

 謎の淑女――沙耶さんの気遣いに、僕は曖昧に頷くことで返した。先ほどまで名前なんて気にならなかったけれど、教えてもらった途端、少しだけ親しみも湧いて来るから不思議だ。

「それにしても、いつ雨が止むか分からないねぇ。立ち話も何だし、座らせてもらうよ」

 淑女が黒猫の横に立ったことで、黒猫は少しだけ僕の方に近付いた。その空いた分のスペースに、淑女が腰を掛けた。当然僕には拒否権はないから、受け入れることしか出来なかった。

 古びた教会の跡地の屋根の下、黒猫を挟んで、何倍も年の離れた淑女と僕は座りあっている。何だろう、この空間は。自分の置かれている状況が、よく分からなくなってくる。

「で、ただの雨宿りならいいけど……、そうじゃないんだろう?」
「……なんで」
「只事ではないくらい、和斗くんの顔を見れば分かるさ」

 沙耶さんは悪戯っぽく綺麗に片目を閉じた。僕の心の中を言い当てる彼女は、やっぱり魔女かもしれないと思った。

「友達と喧嘩でもしたのかい?」
「喧嘩……、なら良かったんだけどね」
「訳ありかい? 私で良かったら聞くよ」

 僕は一瞬悩んだ。僕の小さな悩みを、今初めて出会ったばかりの人に打ち明けても本当に良いのだろうか。

 僕の逡巡を察したのか、沙耶さんは「気が向いたらでいいさ」と僕の気持ちを優先してくれた。実際、沙耶さんに深堀する気はないようで、屋根の外で広がる雨景色を見つめていた。

「でもまぁ、互いに知らないからこそ、話せることもあるかもしれないよ」

 沙耶さんはポツリと言葉を漏らした。

 どちらに気持ちが傾いても僕がしたいようにしてくれる、沙耶さんの優しさに触れ、

「実は、今まで兄弟にように仲の良かったルイっていう幼馴染がいたんだけど、その人が先週転校してしまったんだ」

 僕は自然と言葉を紡ぐようになっていた。

 僕にはずっと一緒に育って来た『累』という幼馴染がいた。何をするにしても引っ込み思案な僕を、累はいつも引っ張ってくれた。人と話す時は間を取りもってくれたり、宿題に悩む時は一緒に考えてくれたりもした。累にだけは、僕は自分を晒すことが出来た。

 幼馴染という関係を越えて、いつも累は僕に優しくしてくれた。そのことに、僕は甘え切っていた。

 だから、累が父親の仕事の関係でこの町を去ってしまった途端、僕は一人っきりになってしまった。誰かと話すにしても、いつも幼馴染経由で話しかけていた僕に、わざわざ話してくれる人はいない。

 自分から勇気を出して声を掛けようと意気込むも、近付こうとするだけで心臓が高鳴ってしまい断念した。根っからの性格が邪魔をして、僕は誰かと一から関係性を築くことは出来なかった。

「僕はずっとその幼馴染に頼りきりになっていたんだって痛感させられたんだ。一人じゃ何も出来ないことが嫌になって、気付けば学校を飛び出して、夕立に打たれて……」

 自分自身でも考えなしな行動だと思う。
 だけど、湧き出る感情を抑えることが出来ずに、全力で走ることで発散したかった。それしか方法は知らなかった。結果は、消化不良になってしまったけれど。

 幼く情けない僕の告白を、沙耶さんは馬鹿にすることはなかった。言葉を区切る度、しきりに頷いてくれ、僕の話が終わるや否や。

「和斗くんにとって、その子は特別だったんだねぇ」

 僕を受け入れ、慰めてくれた。

「だけど、別れはある意味チャンスさ。自分の世界を広げるためのね」

 そうして夕立が止むまで、僕と沙耶さんは雨音を聞きながら、ポツリポツリと話していた。と言っても、ほとんどは僕が零した悩みというか弱音というかに対して、沙耶さんが元気づけるような一言を言ってくれるだけだった。

 夕立が止み、雲間から太陽の陽射しが降り注ぐと、まず最初に動き出したのは黒猫だった。黒猫は大きく伸びをすると、未練すらも感じさせないように屋根の下から飛び出して、そのまま林の中へと消えた。
 黒猫の行動に従って流れ解散となったところ、沙耶さんは僕に対してエールを送ってくれたのだが――、

「やっぱ僕には勇気が出なかったよ……」

 そう簡単に変わるのであれば、ここまで悩んではいない。やはり引っ込み思案な僕にとって、自分から行くということは無謀そのものだ。

 朝に登校して、昼食時間が過ぎ、気付けば下校時間となっていた。今日話した人は担任の先生だけで、当たり障りのない連絡事項だけだった。

 これからどうしよう。僕はこれからずっと一人で学校生活を送らないといけないのだろうか。そう思うと、少しばかり憂鬱だ。

「……あれ」

 校門を出て、家までの遠い道のりに向けて一歩踏み出したところ、一匹の黒猫が尻尾を振りながら散歩している姿を捉えた。猫なんてこの世にたくさんいっぱいいる。だから、目の前にいる黒猫が、昨日の黒猫と一緒だとは限らない。むしろ、その可能性は低いだろう。

「にゃぁお」

 僕の視線に気付いたのか、黒猫は一瞬だけ振り返り、自分の道へと大きな足取りで進んでいった。昨日の黒猫だと、すぐに分かった。

 歩く度に揺れる尻尾を見つめながら、僕は黒猫の後を追いかけることにした。人間みたいな自由意思は動物にはないから、どこに行くかは分からない。

 だけど、この時の僕は何故か、この黒猫が向かう場所を直感的に察していた。

 ***

 幼馴染である累は、僕にとって傘のような人だった。

 雨のように降りかかる問題に対して、累は僕がずぶ濡れにならないように守ってくれていた。実際に累のおかげで助けられたことが、どれほど多かっただろうか。数え切れないくらい、たくさんある。
 累と一緒にいると安心出来た。累のおかげで、僕は一人で悩むことがほとんどなかった。

 一度だけ累に僕に優しくしてくれる理由を聞いた時、「父ちゃんも母ちゃんも、なんなら祖父ちゃんも祖母ちゃんも、周りには優しくしろって言ってたからなぁ」と言っていた。僕も両親から聞いたことがあったけど、行動には移せなかったから、素直に累のことを尊敬した。

 累の善意に甘え続け、そのせいで僕の頭上には雨が降り注いでいないと思い込んでいた。けれど、実際は違っていた。僕に降りかかる問題を全て、傘のように防いでくれる累に任せきりにしていただけだった。

 だから、累が転校してしまった時、今までのツケが僕に降りかかって来た。その時になって、累に丸投げしていたことにようやく気が付いた。しかも、累が防いでくれていたのはただの雨ではなく、滝のような夕立だった。

 雨を凌げる傘の下は安全地帯だ。だけど、一人用の傘は他人との距離も隔てる。距離を隔てていくうち、知らず知らず僕の体には孤独が染み付いていた。
 そして、累がいなくなった途端、人との関わり方を分からず孤独の匂いを漂わせる僕は、一人そのものになった。

 今まで傘の中が、僕の世界だった。だけど、違う町にいる累にはもう頼り切ることが出来ない。

 頼り切っていた世界が崩れ、完全に一人きりになった今、この町でどう生きようかと思っていたのに、

「なんで僕は黒猫と一緒にいるんだろ……」

 何の縁があってか、昨日出会った黒猫と一緒にいた。しかも、今いる場所も、黒猫と出会った教会の跡地の前だ。
 校門の前で黒猫を見かけた時に過った直感は、正しかったということだ。

 しかも驚くべきは、校門から跡地まで人間でさえも音を吐きそうな距離だというのに、寄り道することなく真っ直ぐにここまで辿り着いたことだ。

「この黒猫、只者じゃないのかも……」

 そう呟いた途端、黒猫は「にゃぅん」と弱々しい鳴き声を出し、昨日と同じ玄関先で丸くなってしまった。まさに猫そのものの仕草を見て、僕は苦笑しながら肩を落とす。何を考えていたのだろうか。考えすぎて自分の世界に入り込んでしまうのは、僕の悪い癖だ。

「……さて」

 せっかくここまで来たのだから、沙耶さんに挨拶をしようと思い、僕は扉をノックした。すると、「はい」という声と共に扉が開かれた。

「おや、和斗くんじゃないかい」
「あ、こんにちは」

 沙耶さんの屈託のない笑顔に、僕もつい笑顔を浮かべた。沙耶さんに対して色んな噂が飛び交ってしまっているけれど、実際の沙耶さんを見れば、噂なんてすぐに訂正されるはずだ。

「どうだい、上手く出来たかい?」

 僕は小さく首を横に振った。

「せっかく来たんだ。中に入って、お茶でも飲んでいくかい?」

 沙耶さんの優しさは、僕の胸に染みた。僕は小さく頷くと、沙耶さんが開いてくれていた扉の中に入っていった。
 昨日は入らなかった教会の跡地の中。
 扉を開けば、高い天井の下、一番奥の説教台を囲むように椅子が置かれていた。

「……わぁ」

 初めて見る教会の中を見て、息を呑む。教会の中は、思ったよりも綺麗だった。古びた外観から、中も相応の様になっているのではないかと勝手に思っていた。きっと沙耶さんが掃除をしているのだろう。

 それでもやっぱり、沙耶さん以外の人が訪れていないことは明白で、ところどころ埃が被っていたり蜘蛛の巣が掛かっていたりした。

 キョロキョロと周りを見る僕に対して、「こっちだよ」と沙耶さんは楽しそうに笑いながら進み出す。黒猫もちゃっかり入り込んでいたようで、尻尾を振りながら沙耶さんの隣を歩いていた。遅れないように沙耶さんについていく。

 沙耶さんが案内してくれた部屋には、少し大きめの机と椅子が対となって置かれていた。奥はカーテンで仕切られたような場所がある。相談室、みたいなところだろうか。

「適当に座っていいよ。少し待っていておくれ」

 そう言うと、沙耶さんはカーテンの奥に入っていった。迷いなく机のど真ん中で丸くなり始める黒猫に対して、一番扉に近い椅子に僕はそっと腰かけた。と、ほぼ同時に、沙耶さんは麦茶が入ったグラスを二つ持ってきて、僕の目の前に置いた。

「なんでここで暮らしてるんですか?」

 あまりの速さに、つい疑問が口から飛び出していた。

 沙耶さんは大きく口を開けて笑いながら、僕の対面上に置かれていた椅子をこちらの方まで持って来る。

 そして、椅子に座って麦茶を一口飲むと、

「別に暮らしてるわけじゃないんだよ。だけど、約束しちまったからねぇ」
「約束?」
「あぁ、そうさ。マザーテレサのような生き方を地でするような女と……、ね」
「一体どんな……」

 一瞬だけ、沙耶さんは切なそうに唇を結んだ。だけど、次の瞬間にはパッと表情を切り替えて、「和斗くんは時間あるのかい?」と問いかけて来た。累がいなくなって友達もいない僕は、家に帰ってもすることはない。けれど、それよりも沙耶さんと話す時間は、普通に楽しい。むしろ僕からお願いしたいくらいだ。「もちろん」と頷いた。

「じゃあ、少しだけ年寄りの与太話に付き合ってくれるかい? もしかしたら今の和斗くんにも役に立てる話かもしれないしねぇ」

 そう言うと、沙耶さんは遠い目をしながら語り出した。

 ***

 あいつ――輝海とは、昔ながらの幼馴染だったんだ。まさに和斗くんとルイくんのように、ね。

 輝海は小中高と一緒で、大学はそれぞれ別の場所に進学した。けど、離れていても連絡は途絶えずにいて、関係性が崩れることはなかった。
 それでね、大学を卒業して、互いに就職先を地元の近場にして、またこの町に戻ってくることにしたんだ。

 仕事で忙しくなって、あんまり輝海と話す機会も少なくなって来たある日のことだった。

「あのね、沙耶に案内したい場所があるの」

 この時の私達は、年齢的にも互いに働き盛りで、いい大人だったはずなんだ。なのに、まるで秘密基地を見せびらかすように子供のように、輝海は口元を緩めながら案内したんだよ。やっぱり今思い返しても、少しだけ笑ってしまうよね。

 それで、だ。ここを案内されて、私は驚いたよ。ただの物置きだったはずの場所が、なんと小綺麗な場所へと変わっているじゃないか。

「この場所、どうしたの?」
「おじいちゃんが使わない建物を譲ってもらって、教会風にリフォームしてもらったんだ」

 教会、という言葉を聞いて、その時の私はすぐにピンと来たよ。当時はマザーテレサが来日したばかりでね、多くの日本人が彼女の存在を知っていた。いわゆるブームみたいなものだったんだ。詳しくは知らなかったけど、興味のない私でも名前くらいは耳にしたことがあるほどだった。

「私ね、マザーテレサに感動したんだ」

 輝海は、目を輝かせながら言った。

 人に甘えているばかりの輝海だからこそ、そこまで関心はないと思っていたのに、まさか輝海の口からそんな言葉が出て来るとは思わなかったし、そんな行動をするとは思わなかったから、輝海には驚きを隠せなかったよ。

「私のことを言われているのかと思った。私の心にはね、ぽっかりと穴が空いていたんだって、その時に分かった。大学生になって一人で生活するようになってからや、地元に戻って仕事を始めてからも感じるようになった、言葉に出来ないモヤモヤの正体がようやく分かったんだ」

 輝海とはずっと幼馴染をやって来たつもりだったから、そんなに悩んでいたとは知らなかったよ。むしろ、いつも能天気で何も考えずに生きているような子だったのにね。

「私はね、今までたくさんのものを貰って来た。でも、私から与えることは、これまでしてこなかった。だから、苦しくなる一方だった。そんな時に、マザーテレサの言葉が響いたの。与えることが幸せに繋がるって、矛盾しているようにしか思えなかった。けど、その言葉通りに生きて笑っている彼女の姿を見て、本当かもしれないって思うようになったんだ。不思議だよね。そしたら、私もそうして生きたいって思うようになって来て、気付けば――」
「それだけの理由で、ここまでしたの?」
「うん。やっぱ形から入りたかったんだ。あ、でもね、形だけ入っている訳じゃないんだよ」

 聞けば、すでに輝海は働いていた職場に辞職を出していて、身を捧げる準備は出来ているってね。普段はマイペースでゆっくりなくせに、そういう時の行動力は昔からすごかったんだ。

「なんで、そこまで……」
「うーん」

 輝海は考えるように首を傾げた。けど、輝海の中で答えは決まっていたんだろうね。すぐにニコッと笑みを見せると、

「もし辛く寂しい想いをしている人がいたら笑って寄り添ってあげられるような人になりたいから、かな」

 真っ直ぐな瞳は、今でも忘れられないよ。

 それからの輝海は、自分が言った言葉通りに、他人に対して尽くすようになったんだ。

 顔を顰めている人がいれば迷わず声を掛けたり、無償で食事を振る舞う機会を設けたり、町全体に渡って掃除をしたり挨拶をしたりもした。小さな動物に対しても、手を掛けていたっけねぇ。それと、マザーテレサが信仰していたキリスト教も信仰するようになって、隙間時間を見つけては聖書を読むようになっていた。実際に有名な神学者の元に行って、学んだりもしてたよ。

 だけどね、当然馴染みのない田舎で、最初の方は輝海は受け入れられなかった。私もやんわりと止めた方がいいと注意したこともあったんだけど、輝海は変わらなかった。

 誰にでも出来そうで、けれど誰もやらないような小さなことを、自分から進んで行ない続けた。

 そんな輝海の前に、人々の心が解けるのは時間の問題だった。
 そもそもね。接していく内に、誰からも受け入れらるような、不思議な雰囲気。周りが放っておけないような、性格。そういう言葉には出来ない魅力が、昔から輝海にはあったんだ。
 まぁ、前提条件として、輝海の行動自身に人を傷つけるような悪い行動は一切なかったわけだしね。
 だから、人々が受け入れるのも、ある意味では自然な流れだったと思う。

 最初の時が嘘のように、この町の人は輝海を応援し、輝海の元へ訪れるようになった。
 輝海の表情は、今まで見たことがないくらいに充実していたよ。

 でもね。この町で輝海の行動が求められるようになった頃、忽然と輝海は姿を消してしまったんだ。

 最初、町の人は戸惑っていてね。誰も理由を知らないから、余計にだ。でも、輝海の性格を知っている人々は、気長に待つことにしたんだ。私も輝海の気まぐれだろうと、軽い気持ちで待っていたよ。
 でも、一向に輝海は帰って来なかった。

 人っていう生き物は単純で、目に見えるものや手が届くものに影響を受けやすい。人々が、輝海のことを忘れて、前の生活に戻っていくのは時間の問題だった。いつしか、誰も輝海のことを話す人はいなくなったし、ここも置き去りにされるようになったんだ。それが、この教会がここまでボロくなった理由。

 そして、ある日――じゃないね、輝海がこの町から姿を消してから数年後。

「沙耶、元気?」

 まるで昨日ぶりに会う友達に挨拶するかのような気軽さで、輝海は急に帰って来たんだ。たまたま私がここにいたから再会できたものの、もしいなかったらどうしてたんだろうね。今思い返しても、不思議でしょうがないよ。

 久し振りに帰って来た輝海は、何かを確認するように教会の中を詮索したと思ったら、「よし」って納得するように一人頷いてね。

 呆気に取られていた私だったけど、流石にこのまま放っておくことは出来なくて、

「ねぇ、輝海。あんた、この数年、いったい何して――」

 輝海の顔を見て、私は最後まで言葉を出せなかったよ。

 最後に見た時よりも、明らかに大人の顔つきに変わっていた。その顔を見て、輝海が簡単には言葉に出来ない経験をして来たのだと悟ったよ。

 だけど、笑うと子供みたいに顔をくしゃっとさせるところは、全く変わっていなかった。人と人との心の境界線を曖昧にしてしまうような笑顔で、「世界を回ってたんだ」と私の想像を遥かに超えるようなことを口にした。

「自分の可能性を広げたくて、世界に行ってみたんだ。この町でやれることも限られて来たし、それに声を掛けてもらえたっていうこともあったしね。実際、行ってよかったよ。人助けも出来たし、私なんかでも役に立てるんだって分かったからね」

 昔から決めたことには一直線なところがあったけれど、まさかここまで突拍子もない行動に出るとは思いもしなかったよ。呆れ半分、尊敬半分で、揚々と語る輝海の言葉に耳を傾けていたんだ。

 だけど、途中で輝海の弾んでいた声は、震えるような声へと変わっていった。

「でもね、世界は私が思っていたよりも悲惨な状況だった。大変なことがいっぱいあったんだ。本当にたくさんたくさん」

 本人も自覚していないくらい、自然と目から涙が零れ落ちた。こういう表現は正しくはないと思うけれど、多くもがいてきた分、輝海の涙は光り輝いて美しかった。

 気付けば、私は輝海を抱きしめていた。

 輝海が抱きしめられる人はたくさんいるけれど、輝海を抱きしめられる人は私しかいないと思った。
 するとね、輝海は箍が外れたように、声を上げて泣いたんだ。私もつられて泣いてしまったよ。

 暫くの間、互いの鼻を啜る音だけが響き渡った。支えあって、溶けあって、互いに一つになっていくかのようだった。

「ねぇ、沙耶。一つだけ我が儘言っていい?」

 私の肩に顎を載せながら、輝海は甘えた声で訊ねて来た。私は無言でいることで先を促した。

「この場所の管理、任せていいかな?」
「え?」

 思ってもいなかった輝海の我が儘に、私は腕を伸ばして輝海の顔を見た。涙で瞳を赤くさせていたけれど、輝海の表情は真剣そのものだった。

「沙耶になら託せられるかなって」
「任せるって、どういうこと? 管理なんて、私よく分からないよ?」

 言いたいことはたくさんあって、私の口からは当たり障りのない疑問しか出てこなかった。けれど、私の疑問なんて吹き飛ばすように、輝海は笑顔を浮かべると、

「大丈夫、私が安心したいだけだから」
「……安心?」
「うん、ここは私の原点だからさ。この場所がなくならない限り、私は頑張れる」
「それって……」
「気が向いたら掃除するくらいの、軽い気持ちでいいからさ。じゃあ、よろしくね」

 まるで輝海は私の言葉を遮るように一方的に約束を交わすと、また旅立っていったよ。

 交わした言葉の数は少なかった。けれど、私は輝海の言葉に出来ない心情を察したんだ。

 それから、だね。あいつとの約束を律儀に守って、この場所を守ることにしたのは。

 ***

 懐かしそうに、愛おしそうに、何より大切そうに語る沙耶さんの唇がきゅっと結ばれた時、僕の呼吸する音が相談室に響いた。……気がした。今まで呼吸することを忘れていたかのように、その分大きく息を吸っては吐いていく。新鮮な空気が、僕の体を廻った。やけに心臓が速く鳴っている。

 沙耶さんがこの教会の跡地にいる理由を知って、どうやら僕は衝撃を受けてしまったようだ。

 人のために尽くすことが出来るテルミさんと、友達との約束を守り続ける沙耶さん。

 僕には到底真似できない。

「それで、そのテルミさんは……」
「あぁ、死んだわけじゃないから安心していいよ。そういう連絡は、ここに届いてないからねぇ。今も、私なんかじゃ想像も出来ないような場所で、誰かを元気づけているんじゃないかい」

 沙耶さんは、あっけらかんと笑った。

「でもね、最後に輝海に会ったのは、あの時が最後なんだ。私が思うにね、輝海はあの時帰って来たのは、拠り所を作りたかったからじゃないか」
「拠り所?」
「言葉も通じない場所に行くって、不安なことばかりだと思うんだ。しかも、自分が受け入れられるかも分からない。そんな場所で自分がやりたいことを続けるというのは、周りが思うよりも困難ことだ。だから、自分を支えられる場所を残したいと考えて、私に託してくれたんだと思う」

 沙耶さんの言うことは、納得出来た。けれど、少しだけ疑問に思うこともある。

「でも、テルミさんがこの町でやって来たことは意味がなかったんじゃ……」

 自分の頭に浮かんだことを、つい僕は言葉に出していた。

「どうしてそう思うんだい?」
「えと、だって、テルミさんが町を離れた途端、昔のように戻ったんでしょ。ずっと頑張って来たテルミさんの努力は無駄に……」

 言葉を言い切る前に、沙耶さんは「あはは」と声を上げて笑った。面白いことなんて言っていないはずなのに、何でだろう。

 沙耶さんは目じりに浮かぶ涙を指で擦ると、

「確かに輝海がいた時のようには、目に見えて分からなくはなったねぇ。でも、輝海が残したものは、確実にこの町に染み付いているんだよ。輝海がいなくなってから、この町は少しだけ周りに優しくなったんだ」

 僕は思い返す。確かに道を思い返しても、ゴミは落ちていない。人と話すことが苦手だから意識していなかったけど、道行く人同士で挨拶を交わすところも目にしたこともある。

 そして、何より。

 ――父ちゃんも母ちゃんも、なんなら祖父ちゃんも祖母ちゃんも、周りには優しくしろって言ってたからなぁ。

 何気なく言っていた累の言葉が、答えだった。

 テルミさんのしてきたことが、確かに人の心に届き、受け継がれて来た証拠だ。

「私は輝海のようには出来ない。でもね、輝海が残してくれたものは大事にしていきたいって、心の底から思っているんだよ。もしいつか、輝海が苦しみに耐えられなくなった時、この場所に安心して帰って来れるようにね。そして、私は何も言わずに抱きしめてやるのさ」

 想像を語る沙耶さんの眼差しは、優しい色をしていた。それだけで、遠く離れていても、お互いに信頼しあっていることが言葉にせずとも分かる。

 幼馴染という関係だけで、ここまでの関係性を作り上げることが出来るのだろうか。
 少なくとも、僕には無理だ。

 だって、僕と累には、沙耶さんとテルミさんのような劇的な物語はない。僕は累に依存していただけで、何もしてあげることが出来なかったからだ。

「沙耶さんは凄いや」

 口から出たのは、ただの賛辞だ。そして、「僕には、出来ない」、ひねくれた自分自身への批判。

「信頼して任されたって、僕にはそんなこと出来ないよ。累には全部任せっきりにしてしまったんだ。なのに、累がいなくなって、もう今更……」
「人から人にしたものは、廻り廻るものなんだよ」

 僕の言葉を遮るように、沙耶さんはきっぱりと言い切った。そして、そっと僕の手を握ってくれる。まるで僕自身を受け入れてくれるように。

「だから、誰にだっていい。ルイくんからしてもらったことを、和斗くんは誰かにしてあげるんだ。そうすれば、ルイくんがしてくれたことは和斗くんを通して伝わり続けるし、いつかルイくんのため、何より和斗くん自身のためにもなる。いいかい。ルイくんから受けた優しさを忘れてはいけないよ」

 沙耶さんの手からは、温もりが感じられた。その温もりは、何故か僕を強くさせてくれるような気がした。

 累がいなければ何も出来ないと思っていたし、このまま変われずに生きていくのだろうと思っていた、これまでの思考が嘘のように僕の頭の中から外へ外へと追いやられていく。

 僕がゆっくりと首を縦に頷くと、沙耶さんは口角を上げた。「さて」と言い、僕の手から温かな温度が離れていくと、

「つい長く話してしまったかねぇ。そろそろ遅くなりそうだから、外まで見送るよ」

 沙耶さんが立ち上がったと同時、今まで微動だにしなかった黒猫も大きく伸びをして、器用に机から降り立った。僕も腰を上げ、沙耶さんと黒猫と一緒に相談室を出る。

 そのまま来た道を辿って行き、

「じゃあ、またいつでも遊びに来ていいからね」 

 沙耶さんが扉を開けると、眩い光が差し込んで、そして――。

 ――これは、いつかの未来。
 今よりも大人になった僕は、何故かこの場所にいて。だけど、今みたいな古びた教会ではなく、少しだけ整備されていて。活気づくようになった教会でも、やっぱ滝のような夕立が降り注げば、人も少なくなって。
 そんな中、扉の外に誰かが訪れた気配を感じた僕は、外にまで出迎えては中へと受け入れる。沙耶さんがそうしてくれたように、累がこれまで僕のことを守ってくれたように。そして、名前しか知らない輝海さんが誰に対しても手を差し伸べていたように。

「ボーっとしてどうしたんだい?」
「え、あれ?」

 沙耶さんの声でハッと我に還る。僕の体は、十四歳の時の細いままだった。

 今見たものは何だったんだろう。何だか分からないけど、未来の自分がやけにハッキリと脳裏に浮かんだ。

 現実になる保証なんて、どこにもない。だって、今の僕とは全くかけ離れている。

 でも、その景色をいいなと思えた自分もいる。

 誰かが苦しくなった時、傘のように受け入れられる人間になれるように――。僕は成長しようと心に決めて、扉の外に出た。

 まるで僕の門出を祝福せんばかりに、空は黄金色の眩い夕焼けに染まっていた。

<――終わり>

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?