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美術館にて

なんだか美術館に行きたくなり、
今日は出かけてみた。

特に私はゴッホの作品が気になっている。
私は黙って西洋美術のコーナーに向かった。

そこには、こんな田舎になぜ?と思うほどの
たくさんの素晴らしい作品が展示されていた。

気になったものから徒然に
書いてみる。

ミレーの「バター作りの女」が
私を迎えてくれた。

どっしりとした、大きな作品。
薄暗い納屋のようなところで
彼女は一心にミルクを混ぜている。
きっとすぐ近くに牛小屋があるに違いない。
搾りたての牛乳を使っているのだろう。
一見彼女は薄暗い納屋で
孤独に作業しているようだが
実は足元に猫が擦り寄っているし
向こうには日が差す空間があり、
そこに鶏も見えるし、屋根の上に鳥もいる。
遠くには人がいるようにもみえる。
作業小屋は暗くても
女の人生は暗くはなさそうだ。
女は若そうだが
腕っぷしがしっかりしていて
いかにも労働者といった風情。
彼女は逞しく生きている。

ミレーはいつも
農民の普通の姿を描いたよね。
普通の生活、それがとても尊いものだと
ミレーは思っていたんでしょうね。

当時の民衆は
おそらく皆キリスト教を素朴に信じ、
教会の下で一致して
辛いことも悲しいことも
みんなで乗り越えていたんじゃないだろうか。
現代よりずっとずっと
死が近くにあっただろうな。
それもこれも、
生きているということだったんだろうな。


モネの作品、
サンジェルマンの森の中で。

形があるような、ないような、
すべてが色と光で描写されている。
この道を、どんな人が通ったのかな。
親子か。
恋人同士か。
旅人か。
近くでみると、
印刷物などでみるよりも
もっと生々しいと思った。
光・美という抽象的な印象を持っていたが
肉筆画はもっと生き物のような
性格を漂わせていた。

奥に進むと、
ゴッホの「静物 白い花瓶のバラ」という作品が
静かに私を待っていてくれた。

有名なひまわりなどとは違って
割と普通な印象。
彼がこれを描いたのは
耳切り事件を起こす前で、
発症前だったのかもしれないけど、
やはり色の使い方が個性的。
私は絵は描けないけど
花を花瓶に活けるとしたら
中心に葉っぱを配置したりはしない。
この絵は右側のバラが主役なんだろうけど
黒に近い緑の葉っぱが
とても印象的だと思った。
この個性、生き様、
まだ事件を起こしていないとはいえ、
生きにくかっただろうなぁ。

ゴッホは・・・、
私は他人事とは思えないんだ。

ゴッホの絵の近くに、
ジョアン・ミロの絵があった。
彼の絵はゴッホの絵と似ている。
強く影響を受けたんだろうなあ。


別のフロアでは
川瀬巴水の版画展が企画されていて
たくさんの人たちで賑わっていたので
私もちょっとだけ覗いてみた。

たくさんの作品。
これが版画だというのだから驚く。

作品には、時々雨や雪が現れる。
相州前川の雨という作品。

かなり強い雨のように思える。
暗い夜道、
家々の明かりを頼りに、
傘を握りしめて家路を急ぐ。
なんとなく不安、
でももうすぐ帰宅できる、
がんばろう。
そんなことを考えた。

雨に降られて、暗くて、濡れて、
人々の暮らしは、大変だっただろうな。

雪が扱われていると
画面が白くなって明るくなる。

雪に暮るる寺島村。

なんだか一瞬温かみを感じたり。
でもね、雪がどれだけ冷たく重く
やっかいなものかを、
私は知っているよ。
雪って・・・、
見た目の印象と実際の性質とに
ギャップがあるよね。

たまたまかもしれないけど
今日見た西洋の油絵には
雨や雪は見当たらなかった。


絵って
ちょっと俳句みたいだな、と思った。
一つの画面を切り取ったものなんだけど
みる人はそこからいろんな連想を
するんだね。

画家は
いいなと思ったその瞬間を
過ぎゆく時間の中から切り取って
絵に残そうとしたのかな。
言葉で事細かに説明するのでなく、
一瞬の時を切りとって絵にすることで
私たちに何かを伝えたいのだね。

とても楽しい経験だった。
私はゴッホの絵のポストカードを買ってきた。
小さな額も買ってきた。
身近なところに置こう。
チェンバロの近くがいいかもしれない。

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