ふらっと

ピアノじゃない鍵盤楽器を趣味で弾く、くされクリスチャンです。 ここでは主にハラの中のこ…

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ピアノじゃない鍵盤楽器を趣味で弾く、くされクリスチャンです。 ここでは主にハラの中のことを書いていきます。 2023年7月6日の記事までは、過去に書いたものの再掲です。

最近の記事

願うことへの恐怖と嫌悪

恐ろしい。 「願う」ことが。 昔、強烈に願って それが見事に裏切られたから。 裏切ったのが神だったから。 それが私の呻きの源です。 絶対的存在であった神は 私の期待を裏切ったんです。 少なくとも私にはそのように感じられ、 また喪失という厳然たる事実は どんなに祈ろうが叫ぼうが 変更されることはなかった。 それ以降、夢のテーマは一貫していて 「期待はずれ」だった。 それが神に対するイメージの表れだと 気づくのに数年かかったほどに それほど私は神を信頼していた。 さてさて、

    • 問いに対する答え それは問いの価値

      今日は、2月末に見た、 私にとっては衝撃的な講演会について 記録を書こうと思います。 たまたま見つけた動画配信です。 衝撃というか・・・ 長年の私の苦悶に対する 意味的解答をもらった気がする。 それを長い間、欲していた。 でもそれは、今じゃないと 私には理解できなかったんだと思います。 実は私は教会と一定の距離を置いています。 奏楽はしてるけど、それだけ、 みたいな。 私にとって衝撃的な出来事が起こって以来、 私は神さまとトラブっているからです。 どうしてこんなことにな

      • 響振

        自分と同じ心情を持つ人がいたらなあ、 と憧れるのだが、 そういう人は、世界広しといえども いないんだよね。 問いが個別性を帯びているから。 でも、問いが共振する人は、いる。 私はこれを「響振」と呼びたい。 私のこのめんどくさい性質を 理解してくださる方は なかなかいないかもしれないけど 問いが共振する人に出会えたら 嬉しいなと思っている。 あ、響振という言葉は私の造語です。 一般的には「共振」ですね。 ある程度、何かが響振する人として、 特にづら先生は 私の前に現れた

        • 若松氏による神谷の「いきがいについて」

          「『生きがい』を失っている人を見出し、そして慰めるのは「生きがい」を失い、再び発見した人である」 と神谷は言う。一般的に「苦しい思いをした人は苦しみの渦中にある人を理解できる」というが、そのとき、意味として感じとれるのは、同じ経験をした者同士の分かり合いというものである。上の神谷の言葉はさらにもう一段上の何かをふんわりと包含しているように思う。 私は自分の経験や、自分が負った病を恥じることこそあれ、それが誰かの役に立つなどとは思えなかった。「神がすべてのことを働かせて益とし

        願うことへの恐怖と嫌悪

          喪失からの回復2

          教会で行われる葬儀に参加すると 死後の救いが語られ、 天上での再会が語られる。 それに最終の希望を見出すことが それが遺族にとっての究極の慰めとなる。 翻って、父に関しては 「信じないものはすでにさばかれている。  神のひとり子の名を信じなかったからである」 を根拠と考えると、 究極の慰めは適応されないということになる。 私が信じる神、信頼する大きな存在。 それが、私が愛する彼を裁くという。 それが私の中の大きなギャップとなった。 私の中の神とそのことばは すべて私の心

          喪失からの回復2

          喪失からの回復

          私は長年、ある喪失体験から 立ち直れないでいる。 どうしてこんなことが起こるんだろう。 「なぜ」という疑問でいっぱいの15年を過ごしてきた。 そんな折、2021年の末に 突然私の目の前に、 ある「答え」らしきものが現れた。 それをつかみかけている。 「ありふれた祈り」に登場するルースは 私と同じ性質の葛藤を抱えていた。 読んだ直後、 偶然にしてはあまりにもできすぎなタイミングで、 若松英輔氏の語りをテレビで聞いた。 私は突然天上から照らし出されたような気がした。 これ、

          喪失からの回復

          会いたい

          家族の手術の付き添いで 病院にいます。 もう手術は終わったそう。 ちょこっと会えるというから それを待ってるんですけど なかなか呼ばれません。 それで暇つぶしに、 前に読んだ若松英輔氏の 「悲しみの秘義」を読んでたら、 詩を書けと言われた気がしました。 この本を読んだそもそものきっかけは、 父を喪ったことにありました。 それで、父を想って 書いてみました。 父よ あなたに会いたい。 そのためなら、 あの山の向こうにでも、 空の彼方にでも行こうものを。 しかし、あ

          私の「夜と霧」の先

          1年前の「ありふれた祈り」の稀有な読書体験を振り返った。 この体験を1年寝かせた私に どんな変化があるかを確認しなければならないと思っていた。 ボスが「また考えてみなよ」と 私の背中を押しているようにも思う。 一年前、自分にとって重要な何かが 指し示されたのがわかったが、 それを無理やり実生活にあてはめたり 自分をそれに無理に適応させたりするのは 早計だと感じていた。 分かったからと言ってできるわけでもない。 分かったからと言って得心したわけでもない。 その時が来るまで、押

          私の「夜と霧」の先

          ボスはいる

          私の職場は数年前、大きな組織変革がありました。 私の上司であるボスが 倒産するかと思われた職場の組織を大改革し、 それとともに旧態依然とした体質を変えました。 私はボスの直属の部下として ボスの庇護のもとに仕事をしていました。 ところが、ボスはビルの建築途中で 病に倒れてしまった。 うちの職員みな、 ボスへの気持ちを整理できずにおりました。 あまりにも早く別れが来てしまったので 多くの職員にとっては突然過ぎたのです。 そんな折、職員から ボスに感謝する会をしたいという

          言葉

          私は言葉が多すぎるんです。 言葉でなんでも説明理解納得するべきだと 思ってて、いかんなあと。 尊敬する若松英輔氏のことば。  私が書いた言葉を  あなたの胸の熱で  溶かして下さい  文字の姿が消えて  語り得ない  意味だけが残るように  私が語った言葉を  あなたの胸で  抱きしめてください  音の姿が消えて  耳には聞こえない  響きだけが残るように 胸の熱で溶かしていただけるような 言葉を使ってみたいなぁ。

          恩寵への不可避な道程

          読書のアウトプットです。 若松英輔著「涙のしずくに洗われて咲きいずるもの」と 「悲しみの秘義」。 両者のテーマは同じだと思います。 みんなそれぞれに、 悲しいこと、別れ、 時にははらわたがちぎれるなんて言う言葉では 表しきれないような別離を 経験するものだと思います。 私にもその経験があり、 それ以来私にとって世界の見え方が まったく違うものになりました。 それ以来、クリスチャンとしての私は 腐ったと思います。 時々自分を腐れクリスチャンと呼びますが それはほんとにそう

          恩寵への不可避な道程

          影差す美しさ

          さて、今日は BWV617をもう一度録音した。 とってもとっても難しい。 相当練習したんだけど なんだか必死で弾いてます感が大きいなぁ。 この曲、シメオンの賛歌がもとになっている。 死がもう近くに来ているときに 誕生した救い主にあったというシメオンね。 私はこの曲を練習し続けて、 バッハ先生が曲を通してほんとに シメオン老人を表現したんだなあって思った。 和声時々メジャーコードも現れながらも 基本的にはマイナーで、 シメオンの悲喜こもごもの人生が 表されているように思う。

          影差す美しさ

          存在するということ

          私には子どもはいないんですが、 うちの猫はみんなうちの子です。 死んじゃった子も含めて、私の子です。 死んたからといって いなくなったわけじゃないと思うんですね。 オカルト的意味でなく、本当に実在としていると。 物質としての存在はないのかもしれないけど、 むしろ物質としての制約から自由になった 実在する存在として、いると、私は思う。 こういう考えは 聖書に反していると思い込んでいた。 体がないから存在がないなんて、 だれが考えたんだろう。 科学で証明できないからって、

          存在するということ

          「ありふれた祈り」とコヘレト・ヨブ・そしてフランクル

          お友だちのフランシスカさんが 「ありふれた祈り」というミステリーを紹介してくださいました。 フランシスカさんが紹介なさっている文章をちょっと読んだとき、 これは私に関係のある本だ、とすぐにわかりました。 いろんな思いがあふれてきて、 アウトプットせずにはいられない気持ちなので、 ここに書きます。 キリスト教信仰深い牧師家庭に生まれた愛すべき娘が何者かに殺された。その時、牧師である父ネイサンは、それでも神への信頼を持ち続ける。一方母ルースは神に怒りを向ける。なぜこうなるんだ

          「ありふれた祈り」とコヘレト・ヨブ・そしてフランクル