Clavis

くされクリスチャンです。 自死遺族。 ここでは主にハラの中のことを書いていきます。 2023年7月6日の記事までは、過去に書いたものの再掲です。

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くされクリスチャンです。 自死遺族。 ここでは主にハラの中のことを書いていきます。 2023年7月6日の記事までは、過去に書いたものの再掲です。

最近の記事

父が死んだ日のこと

まず今日は、 ある程度、起こった事実を書いておく。 父の死の知らせを聞いたのは 15年以上前の深夜だった。 父は中小建企業の役員をしていた。 私は大人になって家を出ていたので 父とは一緒に暮らしていなかったが、 それでも日々 父の異常なまでの仕事ぶりを嘆く 母からの訴えを聞いていたため、 深夜の電話で起こされた瞬間、 嫌な予感が走った。 急いで電話に出ると 「お父さんが自殺した!!  急いで来て!!  気をつけて!!」 という母の悲鳴にも似た声が 飛び込んで来た。 自殺

    • 書き淀む

      父の自死によって 私がどうなったかを書く、 と決めたのだが、 なかなか進まない。 これは、自分としては驚きだ。 というのは、父が去ってから何年も 私は書いて書いて、書きまくったからだ。 書かなかったら耐えられなかったから。 書くことで、 どうにか呼吸していたような。 ほとんど誰にもこのことを話さなかったが その代わり恐ろしい速度で 心に湧き上がる思いを パソコンに打ち込んでいた。 今の私は、書き淀む。 呼吸するために 書く必要がなくなったから。 このことを書くことは

      • 父の死によって私がどうなったか

        具体的に、としたので 克明に書き始めてみたのだが それを公開するのはやめておこうと思った。 まず、書くことで 私の心の底に沈んだ澱が 凄まじい臭気と共に 急速に湧き上がって 私を苦しめる。 またこれを読む方がおられるとしたら それはその方にとって 益にならないのではないかと思う。 また、精神的に不安定な方が読んだ場合、 その方の自殺行動を惹起する可能性が なくもない。 そこで、父が自死したことで 「私がどうなったか」についてだけ、 ある程度具体的に記すことにしたい。 父の

        • 自死遺族としてのあゆみ

          プロフィールに自死遺族だと書いておきながら そのことに明確には触れて来なかった。 父を自死で喪ったのは 16年前のことだ。 これからは 少しずつ書いていこうと思う。 積極的な意味でそのように思ってる 自分の変化にも驚いている。 悼みの渦中にあった時、 私はたくさんのものを書いた。 というより、書き殴った。 当時はnoteではない別のブログを何本も書き、 自分のパソコンに誰にも見せない日記を打ち込み、 それでも書ききれない思いが 自分の脳内を駆け巡っていた。 一方、実生活上は

          芸術が超える壁

          教会が主催する ピアノとヴァイオリンのコンサートがあった。 そういうのはずっと避けていたのだが 久しぶりに顔を出してきた。 教会は、 クリスチャンの 素晴らしい演奏者を招いた。 教会の人たちもいたが 教会側はむしろ 地域に住む一般の方を 招きたいので、 教会の敷居を下げて 広くお誘いしていた。 そんなコンサートなので ちょっとした信仰話なども 披露された。 私は腐ってもクリスチャンなので まあ聞き慣れた話なのだが、 教会に馴染みが薄い方にとっては 場合によってはちょっと

          芸術が超える壁

          故郷

           「故郷を持たない者にとって、   書くことが故郷になる」      テオドール・W・アドルノ 確かに、私にとってはそうだ。 書くことで 確かに故郷に似た 価値ある何かを得られる気がして それで書いている。 価値とは。 Valueではない。 Worthなのだろう。 そして、Worthに至る道程には 長い慟哭があるものなのかもしれない。 なぜなら、アドルノはそののちに こうも書いているからだ。  「結局、書く者は、   その故郷で生きることも許されない」 そのように

          レバノン杉という木がある。 実物を見たことはないのだが 聖書の中に出てくるため、 牧師から話を聞いたことがある。 エゼキエル書には 以下のように書かれている。  それは、レバノンの杉。  美しい枝、濃い陰を作る森、  その丈は高く、そのこずえは雲の中。  ・・・  その丈は野のどの木よりも高くなり、  送られる豊かな水によって、  小枝は茂り、大枝は伸びた。  その木陰には多くの国民がみな住んだ。  それは大きくなり、  枝も伸びて美しかった。  豊かな水にその根を下ろし

          違和感から希望へ

          必ず助けられるだの、 神様が慰めてくださるだの・・・ それ、使徒信条にはない。 「必ず」なんて言えるのか。 次の世では、ということなのか。 それじゃだめだ。 耐えられない。 現世に生きている我々は 今直ちにここで 助けが必要なのだ。 この世にあって、 苦しみの中に長く長く置かれること、 決して解決されない苦悩があること、 土砂降りの中にある人は 今すぐに雨が止むことを望んでいるのに それが長く長く叶えられないこと、 そのことについて、 何も言わない牧師に違和感。 止まな

          違和感から希望へ

          連帯

          美とは、 連帯する人々の旗印。 かなしみを共有することで  新しきなにかが生まれる。 生まれるもの、それはなにか。 私の探求は続く。 苦しみの渦中で、人は孤独だ。 しかし、孤独なものたちは 苦しみを抱えながら、 苦しみを抱えている人たちと 連帯することができる。 そこに、 新たな美が生まれるのかもしれない。

          三美神

          このところ、世界がちょっとだけ 違って見えることに気付く。 私に起こったネガティブな出来事は これまでは、ただの汚点だった。 忘れたいもの、なかったことにしたいもの、 でも取り消すことは絶対に不可能なもの。 脳裏にうかんだら最後、 心が真っ黒な雲に覆われるもの。 今、それが違ってきたのだ。 ネガティブな出来事が想起されたとき、 なんとも言えないいとおしさとともに かなしみと美しさが入り混じった 不思議な何かが 湧き上がってくるのだ。 この湧き上がる何ものかは、 成功や楽

          さなぎ

          先週末、帰宅したら 玄関先でなかなか派手な姿をした芋虫が 私が大切にしている植物に ぶら下がっていた。 黒・赤でトゲトゲのキャタピラ。 いかにも毒虫っぽかったが よく見るとし「し」の字になって じっとしている。   蛹になる直前だな。 そう思ったら、 むげにぽいと捨てるのが 無粋な気がして、 そっとしておいた。 数時間後見に行ったら、 みごとに蛹化していた。 この蛹には棘があるのだが、 その棘が、なんと輝いている。 私は初めて見るこの蛹の メタルな派手さに驚き、 なん

          母と私

          私は自分の子どもがいないので 母ではない。 でも、私の母親はいる。 私にとってはちょっと付き合いづらい 微妙な存在だ。 なぜかぶつかってしまうから。 とはいえ、母は私に 多少歪んでいようとも 愛を注いで育ててくれたとは思う。 父の死後、 私と弟は、当然ながら 母を心配した。 父の最期を発見した母。 父の遺書の宛先となった母。 母は父を亡くして、 一人暮らしとなった。 弟と私は、 親の家から離れて暮らしていたため、 弟と私は父の葬儀を終えた後、 それぞれの生活の場に戻っ

          死が遠い時代と神

          現代人の宗教離れが進んでいる。 それについて私は 科学技術が発達して 昔は謎だった色んな事象が 理論的に説明されるように なったからだと思っていた。 しかし、ふと思った。 昔、今よりもずっとずっと 人が簡単に死んだ時代があった。 人々は家で家族に囲まれて死んだりした。 その時代 人の死は今よりずっと リアルで生々しいものだっただろう。 昔の人は、 今より回数が多いからと言って 死に慣れたりはしなかっただろう。 何度経験しても慣れることのない死に対峙するとき 人は神を求める

          死が遠い時代と神

          美術館にて

          なんだか美術館に行きたくなり、 今日は出かけてみた。 特に私はゴッホの作品が気になっている。 私は黙って西洋美術のコーナーに向かった。 そこには、こんな田舎になぜ?と思うほどの たくさんの素晴らしい作品が展示されていた。 気になったものから徒然に 書いてみる。 ミレーの「バター作りの女」が 私を迎えてくれた。 どっしりとした、大きな作品。 薄暗い納屋のようなところで 彼女は一心にミルクを混ぜている。 きっとすぐ近くに牛小屋があるに違いない。 搾りたての牛乳を使ってい

          美術館にて

          美術品の美を考える

          美術品の美しさって、 なんだろう、と考えてみた。 それは人間のによって 作られるもの。 例えば、生きた花などのように 儚くはない。 では、そのように 人が作ったものに なぜ美しさを感じるのだろうか。 見た目の美しさということもあるが、 私は、 儚く失われゆくものを なんとか形あるものに写し取ろうという 心の動きが大きく働くことによって 作品を制作しようという意図が働き、 それが美を産み出す力に なることがあるのではないかと 考えてみた。 絵画のコピーや印刷ではなく 肉筆を

          美術品の美を考える

          醜く美しい

          美について ダンナと意見を交わしてみた。 といっても、投稿を見せてはいない。 ただ投稿のエッセンスを説明したら 彼はめんどくさそうな顔をしていた。 しかし、私が諦めずに 「美を感じる対象の底辺に、かなしみがあるから」 「人間は死を知っているから」 「生花だと思ってみたその花が  実は造花だったと知った時、  ちょっと興醒めする何かがある。  その何かとは、  生花が持つ儚さがない。  枯れるという運命がない。  その一点にあるように思うのよ。」 と説明を続けたところ、

          醜く美しい