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醜く美しい

美について
ダンナと意見を交わしてみた。
といっても、投稿を見せてはいない。
ただ投稿のエッセンスを説明したら
彼はめんどくさそうな顔をしていた。

しかし、私が諦めずに
「美を感じる対象の底辺に、かなしみがあるから」
「人間は死を知っているから」

「生花だと思ってみたその花が
 実は造花だったと知った時、
 ちょっと興醒めする何かがある。
 その何かとは、
 生花が持つ儚さがない。
 枯れるという運命がない。
 その一点にあるように思うのよ。」

と説明を続けたところ、
ちょっと身を乗り出してきた。

実は彼はちょっとした聖書オタクで、
若い頃、聖書の中の美というテーマで
レポートを書いたんだそうだ。
新旧聖書から
美しいと訳される可能性のある原語を拾い、
その意味を4つに分類したんだとか。

言葉かぁ・・・
そりゃそうだ、聖書はことばだからね。
私が考えていることと、
接点を見つけられるだろうか。
しかし、真理ってのは繋がるもんだ。
醜いものが美しかったりする、
そういう逆説って、真理だったりするはずだ。

私たちは話を続けた。

ダンナ曰く。
美しいと言っても、必ずしも良いものとは限らない。
例えば姿形の美しさは表面的なものである可能性がある。
人は外を見るが、神は心を見る。
キリストの美しさを考えると、
イザヤ書53章がすぐに思い浮かぶ。

53:2 彼には、私たちが見とれるような姿もなく、
  輝きもなく、
  私たちが慕うような見ばえもない。

53:3 彼はさげすまれ、
  人々からのけ者にされ、
  悲しみの人で病を知っていた。
  人が顔をそむけるほどさげすまれ、
  私たちも彼を尊ばなかった。

53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、
  私たちの痛みをになった。
  だが、私たちは思った。
  彼は罰せられ、神に打たれ、
  苦しめられたのだと。

彼は人が褒めるような外見状の美の
真逆を行っていた。

ダンナ
「イザヤ書53章のキリストの姿は、醜い。
 我々のために醜くなってくださったのだ」

「そだね。悍ましく、痛々しい姿だったわけだ。
 見た目は血みどろで目を背けるほどだったわけだけど、
 では我々の身代わりとなって十字架にかかったその行為は、
 醜いのか?」

ダンナ
「・・・美しかったんだよねぇ」

きた。
接点だ。

泥の中から美しく咲く、蓮。

おぞましき出来事から、
究極の美。

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