自死遺族としてのあゆみ
プロフィールに自死遺族だと書いておきながら
そのことに明確には触れて来なかった。
父を自死で喪ったのは
16年前のことだ。
これからは
少しずつ書いていこうと思う。
積極的な意味でそのように思ってる
自分の変化にも驚いている。
悼みの渦中にあった時、
私はたくさんのものを書いた。
というより、書き殴った。
当時はnoteではない別のブログを何本も書き、
自分のパソコンに誰にも見せない日記を打ち込み、
それでも書ききれない思いが
自分の脳内を駆け巡っていた。
一方、実生活上は
ほとんど誰にもそのことを話さなかった。
吐き出したくてたまらない自分がいる一方で、
語ろうとすれば、
感情で自分を律することができなくなり
結局語れなくなる自分がいた。
乱れに乱れた私を
忍耐して待つ人がいたら
話せたかもしれないが
それはわからないことだった。
その状態は10年以上続いた。
しかし2021年12月、
ふとしたことから
私は違う世界に目を開かれた。
それがこのnoteの一番初めの記事、
「ありふれた祈り」とコヘレト・ヨブ・そしてフランクル
なっている。
この読書によって私は
想像もしていなかった希望を
遠くに見出した。
それから1年後の2023年2月、
会いたいという記事を書いた。
もちろん会いたい相手は父だ。
「会いたいのに会えない」と嘆く私が
一転して
「父はここにいる」
という希望を持っている。
そこに大きな論理の飛躍があるのだが
それをこの記事では一切言えていない。
物理的・肉体的な体はなくなった父だが
父の存在は厳然とある。
霊だのオカルトだのという話ではない。
確かに私はキリスト教で
私が持つに至った確信は
キリスト教独特の来世思想と
矛盾しないのだろう。
だが、この確信は
もっと一般的な意味で適用できると思う。
これはただの慰めや思い込み、妄想ではない。
そのような確信が、私にはある。
それを少しずつ語ってきたのが
このnoteというわけだが
具体性に欠けている。
これからは
具体的な話をしたいと思っている。