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(読む、書くこと)

9月に入り、朝晩は、涼しさを肌で感じる。一日中暑かった季節を通り過ぎたなあ、と。
次男も新学期が始まり、ドキドキ、ワクワク、でも少し緊張するこわばった表情で、それでも前向きな言葉を私に語りながら、向かって行った。

「子供達が帰ってくるまで、ちょっと、肩の荷が降りる時間を満喫しよう」
そう思うだけで、心がずいぶんと軽くなっていることに気づく。

今朝も家事を済ませながら、またどうしてこうか?と今後について、悶々と考え直していた。
たしかに言えることは、最近少しおもしろくない、と感じていること。

自分自身が同じやり方しかしなくなっているのか。
日常の感謝を忘れ、慣れのせいでおもしろく感じられないのか。

こうしよう、ああしよう、とあらかじめ思うほど、目の前のことに慎重になりすぎて、行動にもブレーキがかかってしまうということにも、心当たりがある。

そんなとき、ちょっと新鮮な空気が吸いたくなる。一旦ものごとから距離を置いて、引いて、客観的に周りを観察したり、リフレッシュしたくなる。
そう考えていると、「なんだかいまの自分の視点って、凝り固まっているんじゃないか」と思えてきた。

というわけで、いまの考え方を緩めるために新しい本を読んだり、たのしいことに専念することにした。

さっそく、昨夜買った村上春樹の「走ることについて語るときに僕の語ること」を読む。
文章を読み進めてからすぐに、感動する情景を思い浮かべさせてくれる押し寄せる高揚感と、正直に綴られていることへの心地よさ、安心感が包み込んでくれて、自分自身まで解放された気分になっていく。

本を読み進めていると、本というものは、そこら辺の内容の薄い社交的な会話ではなく、まるで親友と語り合っているかのような奥深い話を聞かせてくれるようだったり、たくさんの刺激を受け、新しい思考に切り替えるヒントをくれる。
「わたしにとっての理想的なあり方ってこんなときかも」とか、「今度誰かに会ったときには、こんな話をしてみようかな」なんて、日記を書くためにも久しぶりに意欲的に誰かと前向きに話す気持ちにもなってきた。

そういうことを考えながら読んでいくと、やっぱり日記に綴りたくなる。
これが、私の毎日の健康法なんじゃないか、とも思ってくる。

村上春樹も本の中で、書くことは、「何者にもかえがたい貴重なひととき」と言っていたが、よく考えてみると、私自身も、何度も書くことは遠ざけて…を繰り返しながらも、結局書きたいな。に変わって書いてしまっている。
自分にとって“書く”という行為自体が、毎日を活気付ける、ありふれた日常に見えなくさせてくれるとっておきの方法でもあり、
書く時間だけでもあれば、個人の時間を確保できる内向型人間にとっての救いなんじゃないか、とも思える。


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