(内観する)
人間関係で疲れやすいとき、ついナーバスになっている事に気づく。
自分の至らなかったところをダメなんだ、とだけ鵜呑みにして、そういう加点をしちゃう癖がつくと、「おっと、危ないな」と思った。
先日、子供たちがいつも仲良くしてる家族たちと、何人かでお酒を飲んで話した。初対面の人もいたけれど、とても話しやすい人もいた。
自分は自分でもあるし、人もそれぞれ。良い、悪いとかではなく、それぞれいろんなカタチがあっていいよね、と思える──そんなフラットな雰囲気を持っている人と話しているときならば、疲れないなあ、としみじみ思えた瞬間だった。
むしろ、近寄りたくなる人には、自然と歩み寄っている気がする。
最初はよくても、いくつかのよくない疑問点が湧き、変化していく関係もある。だいたい最初の時点で難しいな、と思えば、むずかしいままだったりもする。
場合によっては、話すことは好き。
けれども、結局、自分からはいつも誘わなかったり。誘ってもらうことは全然抵抗もなく、むしろウェルカムで、ありがたいことと思えるけれど、結局、自分は、「人と会うよりも個人の時間を確保して、内観して、充電しなきゃな、と思ったりする。
子供たちのためだからと言って、無理してでもその周囲の雰囲気に合わせないといけないのか?果たして、その視点が合っている⋯?
上手くやろうとして、一方的に努力して動かなければならないのだろうか?
これは、一体誰のための人生?
ほんとうにありたい人間関係なのか?と思うと、そうでもないかも、と思えることが多かったりする。自分の思うとおりにうまくいくことは、そもそもないのだけれど。周りに流されすぎず、押されることなく。
たぶん、うまくいく関係は、きっとどこでも、お互いに歩み寄る配慮や優しさがあり、そういう関係はうまくいっている気がする。
話した時点で、ああ·····なんだかむずかしいかも。と思ってしまえば、その人に近寄ろうとはしないタイプなんだ、とも思う。そのほうが心が平穏でもあるだろうし、相手に対して不満を抱くこともなくなる。
そうとはいえ、完全に壁をつくるワケでもなく、やれるだけのことは、やってみること。
人間関係などでも、勢いで即答しないようにもしていくこと。調子が崩れたりしないように。余力を残しておくこと。期待はしないこと。諦めモードでフラットに接していく方が力が入りすぎないで、いい気分で話せる。
自分の我を抑えてくことも大切であるけれど。そのままの姿でいることも、できない。むしろ、自然体で、正直に話しながらも、相手に合わせながら、その中で接し方や自分の設定も試みること。
良くも悪くも我が道をゆくことは、選べるということ。
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