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ネガティブなときに考えること

ここしばらく、ネガティブな考えがいくつかぽつりぽつりと頭の中によぎり、また改めて考え直さなきゃな、と思う機会がやってきていて。

まず、シンプルに多忙が重なったとき、睡眠の質が悪いのか、疲れが取れにくく、余計に疲労感への悪循環に陥りやすくなってしまう。
休むときは、しっかり一人の時間をとって、静かに内観しながら休養する時間が、特に欲しくなる。ああ、内向型人間なんだあ、とその都度つくづく思う。
子育てに追われる日々なのか、気を休める時間をうまく作らなきゃならないなあ、と。

もう一つ、最近、新しい環境でのまったく知らない人たちがいる中で、自分の中でその場にどう対処したらいいのかわからなくなり、混乱する状態が続いていたこと。人間関係の問題はつきものだけれど、まったく、いつになってもむつかしいし、気にしないのならラクだけれども、まったくそうしないわけにはいかない。「適度」って、自分で調整しなきゃならないものだなあ、とつくづく思う。

べつに居心地が悪い場所にあえて飛び込まなくてもいいだろうし、自分の中でここはいいな、すごいな、素晴らしいな、と思った人と積極的に話すことはたのしくて、おもしろくて、いい刺激になったりもするし…“まったく興味がないわ、話す気ないわ”という姿勢を感じる人とは、深い会話にもなることがなく、どこか幸福感が押し寄せなかったりしてしまう。壁を作ってしまう人とは、そもそもうまく行きようもなかったりするのだけれど、どこかに共通点が見出せれば、それはそれで面白かったりする瞬間があったたり。
自分の中の敵キャラにあえて近づくことも学びにはなることもある。けれど、無理に近づかなくてもいいし、そういうストレスは、うまくかわして、生きるために必要な手段を選ぶようにしたい。
最近は、つい使いたくなるような活気溢れる物事に費やす時間を大事にしたい。まずは、なによりも、体力の回復が最優先!だなあ、と。


そんなこんなで考えている最中でも、悶々としてしまうのだから、こりゃいかん。と思い、いろんな文章を手当たり次第に読んでみている。

最新知ったことで良かったことは、ひとつめ。
人は、どうやら環境の何かに反応するとき、体内で90秒間の化学的プロセスが起こるらしい、ということ。

怒りや悲しみなどのネガティブな感情の原因を自分でだらだらと考え続けてしまえば、神経伝達物質を増やしてしまうそうで、本当はその感情は、90秒で体内にとどまることなく、完全に排出されるのだそう。
要は、悩みの種を自分で上手く対処しさえすれば、改善していくのだとか。

たしかに、日記をつけ始めてある程度発散されることを知ってからは、気持ちが晴々とし、ずいぶん溜め込むこともなくなってきた。数年前の自分から考えれば、上出来なんじゃないか、とも思う。
けれども、近ごろ1ヶ月書かない日が続き、今回のような期間が重なってか、心の中で悶々としたものがどんどん溜まっていっていく感覚が久々にした。
こういうとき、頭の中でどうしたらいいのか分からず、上手く処理できない状態でいるなあ、と、改めて気づく瞬間だった。

数日前には、自分の書いた記録を読み返してみたとき、だいたいいつも同じようなことを書いていることに気がついた。
言葉のニュアンスは違っても、書くことは、だいたい同じ。ああ、こうしたいんだったな、また忘れかけてたなあ、こうありたかったんだなあ。と思い直したり。
自分の見えている視点は、その通りだとは限らなくて、自分ではまだ気づけなくて、知らない部分が潜んでいたりするのだと思う。

また考え直す機会がきているということは、何かしら変化を起こしていこう、というサイン。
考え方が変わって、行動も変化して、悩まなくもなる。そんなとき、ああ、そうだそうだ。とにかくやってみて、違和感があれば、少しずつ変化させてみよう。と、また改めて思ったり。

というわけで、最近の目標は、いまの自分のベストな過ごし方に沿って、行動してみること。

・「何が生活する上で、大事なのか」
・その大事なものを理解してもらえる、配慮し合える関係なのか、どうか。
・何を避けるか、何を得たいのか。


ひとつひとつ大切なものを考えながら、立ち止まりながら、拾っては、また改善したい。


:追伸
心入れ替えられるいい本を探したいなあと思っていたところ、今夜は、村上春樹の『走ることについて語るときに僕の語ること』というエッセイをみつけた。これは、コーヒーを一杯買って飲むよりも有意義な時間になりそうだと思い、すぐに読みたくなり、電子書籍で購入した。
今からじっくり読もう。
よく考えてみれば、ネガテイブさから離れたいとき、すぐに起こしてしまう行動は、「読書」か「書くこと」か「庭仕事」になっている気がする。



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