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ショートショート『筆触分割』

 雨粒がハーバーランドを走る僕の腕を濡らしたのは、折り返し地点と決めていた塔のオブジェの手前あたりにさしかかったころだった。
 澄んだ闇の中を遊覧船が優雅に進んでいる。夜の街は光るネオンの引き立て役に徹していた。
 はぐれたような雨粒はやがて神戸の空と同じ幅の束になった。カラーボックスの奥から引っ張り出してきたサイズの合わない運動用のTシャツは雨を吸って上半身のラインをなぞった。水滴を拭うためにメガネを外して剥き出しになった裸眼に、ぼやけたポートタワーの赤が荒々しく迫ってくる。メガネを掛け直すと、赤は落ち着いた調子を取り戻す。
 遊覧船のデッキに出ていた二つの人影が船内に戻っていく。か細い雨は火照る体をなだめ、この一帯に点在する光の滲み方を変調させた。
 光には漏れなく色がついている。一色一色を挙げればキリがないが、白い光だけはないな、と思い、運動習慣のない自分が走りにきた理由を思い出す。
 
 日中を過ごすオフィスの白い光のもとでストレスにさらされることで僕は生活費を得ている。上司の気まぐれに振り回されることで好きな歌集と画集を買う金を生み出している。割り切っている。そう思っていた。
「山下って彼女いるの?」
 昼過ぎ、置きっぱなしにしていたマグカップを取ろうと給湯室に入ると、壁にもたれて話し込んでいた上司二人のうちの一人が、そう絡んできた。
「はあ。今はいません」
 こう聞かれたらこう返すと決めている回答を返す。彼女がいたことはないが、「今はいない」といっても嘘にはならない。
「今は、ね。今は」
 質問してきた方ではない方が、含み笑いをしながら言った。目線が俺の小太り体型を捉えている。
「彼女いたら、なにかと金かかるじゃないですか」
「かかるけど、そこまでじゃない? 金かかる女じゃなければ、そんなかかんなくない?」
「まあそうなんですけど。僕は趣味に使っちゃうんで」
「風俗?」
 ぎゃはは、と二人は笑った。
「違います。モネとか」
「ああ、モネちゃんって子がお気に入りなのね」
 またぎゃははと笑う。ああ、そうです、と言って給湯室を出た。デスクについて、自分の顎の肉をつまみながら、差し戻された書類につけられた付箋の指摘事項を読んでいるうちに、マグカップを取り損ねたことに気づく。風俗か。僕は女の裸を絵の中でしか見たことがない。
 バカにされたストレスを解消したかったからか、痩せたくなったからかわからない。ただ、走りたい衝動が全身にあふれていた。
 
 手首のスマートウォッチが1時間経過のタイマーを振動で伝えている。僕は休憩を取ることにした。
 雨足は軽い。海と向かい合う形で設置されたベンチに腰掛ける。しばらく無心で波の音に重ねていた荒い息が、心拍数ととに鎮まり、そのうちに波の音だけが残った。
 トラックパンツのポケットのファスナーを開けて、スマホを取り出す。電子書籍のアプリを開いて、モネの画集を開く。今自分が目にしている光景をモネが描くとすれば、どうなるだろう。メガネを外し、目を閉じて、網膜に焼きついた景色のマテリアルの境目を溶かしてみる。空、海、突堤、遊覧船、タワーマンション、オリエンタルホテル、観覧車……。それらは融和してゆるやかに統合に向かう。
「あの」
 背後から声がした。振り返ると、女がいた。裸眼では顔立ちはハッキリとは見えず、背後の景色と輪郭が同化しているように見えた。
「なにか」
「となり、いい?」
 絹のような声だった。目の前の相手が発した声が耳に届くというより、僕の頭のなかで鳴っているような感じだ。
 このとき、僕には身勝手な確信があった。今日のために、僕は妥協の恋愛もどきを排してきたのだと。
 女は隣に腰を下ろす。僕は横顔すら見ないまま、彼女は美しいと決め打った。ルノワールの【イレーヌ・カーン・ダンヴェルス嬢】を思い浮かべた。
 そんな彼女が僕に話しかけた。そう、僕に!
 少なからず悪くは思っていないのだろう。
「気持ちのいい場所よね」
「わかるよ。僕もここが大好きだ」
「視界を遮るものがない。開放的ね」彼女は伸びをした。煙る水平線に触ろうとするみたいに。「いつもは、部屋の中にいるから」
「ああ、そうなんだ? デパートの受付とかかい?」
「ずっとベッドの上にいるの」
「ああ、そう……。在宅ワーク? グラフィックデザイナーとか?」
「見て、魚が跳ねた」
 僕はメガネをかけ、彼女が指差す方へ身を乗り出した。魚は見えなかった。月は夜の海に光を投げかけている。
「君、目がいいんだね」
 緊張で強張る体を無理やり彼女に向けると、僕は絶句した。
 裸だった。
 正確に言えば、腰に何か布のようなものを巻いていて局部は隠しているが、上半身は一糸纏わず、乳房もあらわだった。
「ちょっと、服はどうしたの。寒いでしょ」
 僕は腰に引っ掛けていたナイロンの巾着からオレンジ色の薄手のポケッタブルのパーカーを取り出して、女に着せた。
 彼女の肌に近づいた時、塗りたての絵の具のような白い肌が見えた。
「寒くはないのよ」
 そう言って、彼女は僕の方に体を向けた。視線がかち合う。
「でもありがとう」
 そう言って、彼女は僕の頬に、決して短すぎない秒数、キスをした。
 同時に、雨が止んだ。
 そのとき、決意は固まった。
 僕は、この子と付き合う。落として見せると。
 夜を徹して、語り合った。これまでのこと、これからのこと。僕は、「いつか自分の歌集を出版したい」と言っていた。そんなこと、口にしたことも、思ったこともなかった。しかし、自分の底にあったものが、この出会いによって浮かんできたのだろう。
 彼女は、本と美術が好きだった。いつも、窓から差し込む光をベッドの上で浴びながら、お気に入りの本を読み耽っているらしい。長い本のタイトルは、三度聞き返したが、その度に忘れた。彼女は聞き返される度に頬を膨らませながら教えてくれた。しかし忘れてしまう。不思議なほど、耳に馴染まなかった。
 いつのまにか夜は白み、それに気付きながらも、時間のことは口に出さず、話し続けた。
 周りに犬を散歩させる飼い主が増えてきて、太陽が夜に朝を混ぜはじめたころ、彼女から言った。
「私、そろそろ戻らなくちゃ」
「君がそう言ってくれなきゃ、ぼくは始業時間になってもしゃべり続けてたと思うよ」
 港の水面が風に揺れてなだらかな音を立てている。日光が彼女の顔に射し、頬の中央が薄桃色に染まる。
「いつも、ここを走ってるの」
「そうだよ」
「じゃあ、またここにくれば会えるのね」
「もちろんさ……明日も会おうよ、いや、今日か」
 元町駅方面の出口から、僕はハーバーランドを後にした。
 コンビニに入って壁にかかった時計を見ると、8時56分だった。始業時間は過ぎていた。その後遅れて出勤した僕を上司は使われていない会議室に呼び出した。
 その夜、僕がハーバーランドを一周まわってベンチで休んでいると、彼女がきた。そして、夜が明けるまで話し合った。
 そんな日が5日続いて、僕は帰り際、意を決した。
 明日、告白する。
 そう決めた朝、また会社に遅刻した。僕は会社をクビになった。
 その晩僕は、いつもの半袖短パンのスポーツウェアではなく、スーツ姿であのベンチに座っていた。メガネは外してコンタクトにした。
 手にはデパートのフラワーショップで買った花束を抱えて。
 僕は待った。
 海に臨むベンチに座り、魚が跳ねるのを見た。停泊所から出航した遊覧船が港を一周して帰ってくるのを見た。彼女を想って短歌を書いた。
 夜が明けた。
 彼女は来なかった。
 たまたまだ。そんな日もある。
 しかし、次の日も、その次の日も彼女は来なかった。
 彼女は来なくなった。花束は枯れた。僕はハーバーランドの夜を手放すことにした。
 
 僕はアルバイトを始めた。駅前の通りの入り口付近にある狭いビルの二階にあるカフェで働くことにした。
 店主はアート好きで面接のときから気が合った。店には、そこかしこに店主が集めた絵が飾ってあった。
 バイト初日は16時から20時まで勤務の予定だった。休憩時間にトイレに入る。トイレの壁面には、びっしりとチラシが貼ってあった。一部、音楽ライブのものもあったが、大半が近畿地方で開催される美術の展覧会のチラシだっった。規模はまちまちで、県立美術館で開催されるものから、雑居ビルの一室が使われる小規模なものまであった。
 便座に腰を下ろしてチラシからチラシへ視線をさまよわせていると、一箇所に目が止まった。
 そこには、彼女がいた。
 夜ごとベンチで語りに耽ったあの彼女が、1枚のA4サイズのポスターの中央にいた。ヨーロッパの貴族が寝るような天蓋付きのベッドの上で、初めて出会ったときと同じ露わな格好で、気だるげに本のページをめくっていた。腰から下は掛け布団で覆われていた。部屋の隅にはオレンジ色の滲みのような跡があって、汚れなのか意図して描かれたものか、よくわからなかった。
 その個展は、彼女が来なくなった日から開催されており、今日が最終日となっている。開催時間は、19時まで。会場のギャラリーは、遠くはないが歩けば30分はかかりそうな距離にあった。
 僕はトイレを出た。壁かけ時計の針は18時30分を示している。店主はキッチンで腰を屈めてトーストにシナモンを振っていた。トレーにコーヒーといっしょに載せた。
「山下くん、4番のお客さんに出してくれる? ん、どこいくの?」
 走れば間に合うと体が教えていた。間に合ってどうなるのかは誰も教えてくれなかった。おぼろげで荒々しい予感だけがあった。
 雨が降り出して、僕の腕を濡らした。
 
<おわり>

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