『ぜったいに注文しないでください。』 そう書かれたメニューが、わたしの通う純喫茶にはある。 いつもわたしが注文する「カフェラテ(550円)」の上に書かれた、「ロコモナンド(900円)」というドリンクがそれだ。ドリンクの欄に書かれているからドリンクだと思っているだけで、どんな見た目をしているのかは知らない。 わたしはたいてい、客足の少ない早朝をねらい、校閲するゲラと大きめのトートバッグを右肩にかついで、その喫茶店に入る。化粧をしていると出発が遅れるから、すっぴんのまま、
雨粒がハーバーランドを走る僕の腕を濡らしたのは、折り返し地点と決めていた塔のオブジェの手前あたりにさしかかったころだった。 澄んだ闇の中を遊覧船が優雅に進んでいる。夜の街は光るネオンの引き立て役に徹していた。 はぐれたような雨粒はやがて神戸の空と同じ幅の束になった。カラーボックスの奥から引っ張り出してきたサイズの合わない運動用のTシャツは雨を吸って上半身のラインをなぞった。水滴を拭うためにメガネを外して剥き出しになった裸眼に、ぼやけたポートタワーの赤が荒々しく迫ってくる
私は暖房が壊れた取調室にいる。 何度もリモコンのボタンを押したが、いっこうにエアコンは反応を返さなかった。私はグレーのジャケットの前ボタンを閉めた。 私は部屋の中央に置かれたスチール机の前に置かれたキャスターつきのイスに座って、ズボンの裾から侵入してくる二月の冷気を両足を組んで揉み消しながら、目の前の陰気な男と向かい合っている。男が座っているのは、キャスターのついていないパイプイスだ。 男は、先日四丁目で起こった事件の容疑者として浮上した人物だ。事件現場で、複数の住人
■50代男性死亡、殺人事件か 凶器は見つからず 2023年11月20日夜、兵庫県神戸市長田区の横山克己さん(会社員・56歳)が、自宅近くの路上で何者かによって刃物で頭部や首を複数回刺され、遺体として発見された。県警は関係者に捜査を進めている。調べによると… 隼也は、ニュースアプリの画面から逃げるように目を背け、スマホをダッフルコートのポケットにしまった。文章から惨状がイメージtとして立ち上がり、電車の揺れと相まって気分が悪くなる。先ほどまでの楽しい気持ちがいとも簡単に上書
神戸の栄えた通りの真ん中から小道へ抜けて、ほんの十秒も歩けば、そのバーにたどり着くことができる。 L字型のカウンターは、6人座れば満席になる。店内には、歌声のない音楽が、会話の邪魔にならない音量でやわらかに流れていた。 アロハシャツを着た無口な白髪の老人のためにバーテンダーの青年がつくったカクテルは、清涼感のある紫色で透明なグラスを満たした。 老人は、黙ってカクテルで唇を湿らせた。薄い、カバーの取れた文庫本を数ページめくりながら、二十分ほどかけてグラスを空にした。 「