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プロット信仰

なんとなく「長編はしっかりプロットを作らないと書けない」と思っていないでしょうか? でもそれは半分合っている面もあるものの、半分は迷信です。

これってかなりエンタメに偏った考え方なんです。たとえば娯楽性よりも文学性を重視する分野の作家の多くが、どれほど長編になろうとしっかりとしたプロットなんて書きません。おそらく練り込んだプロットでありながら「作り物臭さ」を消して力強いリアリティを実現するのが、相当に難しいからでしょう。そのためしっかりとしたプロットがないと書けないタイプは圧倒的に不利だと思われます。もちろんプロットをしっかり練ってから書く純文作家もいるでしょうが、かなりの少数派です。しかも詳しい話を聞いてみるとシナリオ論の「プロット」とは違う、ただの「大まかな流れ」のメモを便宜上「プロット」と呼んでいるだけの場合がほとんどです。

しかしネットでは書き手も読み手もエンタメ系の人が多く、そのため調べるとエンタメ系の考え方ばかりが出てきます。確かにエンタメ系ならば、しっかりとしたプロットを作れるほど有利になる傾向があります。長編ならなおさらです。

しかしまずは自分がどういう作風で書きたいのかをよく考え、それに合った執筆スタイルを検討してみるべきです。文学性とまではいかなくても、「その瞬間のエモさ」のようなものを強く出していきたいなら、プロットの存在が足手まといになる可能性もあるのです。エモさを追求する人が長編を書くなら、必要なのはプロットよりも、書いている瞬間の作品世界と文章に、もっともっと向き合うことです。より深く作品世界に潜り込み、より多くの文章を捻り出すことで、長編とすべきです。プロット信仰なんて投げ捨てましょう。迷信です。

一方でエンタメ性、具体的言えば「その瞬間のエモさ」よりもストーリー性を重視する作風なら、やっぱりプロットは重要です。プロットはあくまでストーリーを強化するツールでしかないのですが、ストーリー性を重視するなら主力の武器になるからです。もはやプロットは神ですし、プロットを信仰しましょう。信じる者はそこそこ救われます。

……とは言いつつも、結局のところ傾向でしかないので、自分なりにプロットととの付き合い方を見つける必要があります。少数派ですが純文学でガチガチにプロットを組む人もいるでしょうし、エンタメに振り切った長編なのにプロット一切なしで書く人もいるでしょう。

とにかく知ってほしいのは、「長編はしっかりプロットを作らないと書けない」なんて考えに囚われる必要はないということです。プロットが重要じゃない作風なのにプロットが書けず悩む人は、非常に多いです。また、問題をプロットが書けないことのせいにして前に進めなくなっている人も多いです。ですが、プロットは魔法ではありません。繰り返しますがあくまでストーリーを強化するツールです。ストーリーを重要視するなら重要で、そうじゃないならもっと重要なことがあるという、フラットな捉え方をしてください。

その前提で、マシュマロ式ではまず執筆スタイルを4つに分類しました。それぞれ親和性の高い作風を提示しつつも、最終的なスタイルは各自で微調整して見つけてもらう形です。

というわけで次回はそれぞれの分類について紹介します。

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