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スキルと向上心はあるけど書きたいものがない人への檄文

自意識の壁や技術の壁と戦う過程で、多くの作品を書くと思います。そうやって経験を積むと、人によっては恐ろしい瞬間と出会います。それは「書きたいものがない」という瞬間です。今回はそういう状況に陥った人に向けて書いたニッチな檄文です。

スキルと向上心があるのに「書きたいものがない」と思ってしまうことは、初心者が「何を書けばいいのかわからない」と思うことと全く違います。経験を積んでいるので、ネタをひねり出すことは造作もないことです。書こうと思えば大抵のネタで書けます。しかし、「何かを書きたい」と強く願いながら、どのネタも「これを書きたい」と思えないのです。そうしてただただ焦りだけが募っていきます。

しかしこれは創作者にありがちな問題で、たとえ実力者だとしても、まだ創作の世界の入り口付近にいることの証拠です。創作の世界にはまだその先があります。なのに自分の足元しか見えていないから、「書きたいものがない」だなんて思ってしまうのです。そして逆に言えば、行き止まりに見えても、実際には目の前に広大な世界が広がっているのです。

どうやら創作者にも発達段階のようなものがあります。その段階に応じて「3つの目」が開き、創作の入り口よりももっと先が見えるようになってきます。今回はその3つの目について伝えながら檄を飛ばしていきます。

自分を見る目

創作を始めて創作者としての命に灯がともると、まず開くのは自分を見る目です。創作は自分の中にあるものを取り出す作業なので、この目は自然と開きます。

スキルの高い人ならば、この目の視力は非常に高いでしょう。スキルを上げる過程で目もどんどん鍛えられるからです。

ですがこの目だけではまだ自分の世界しか見えていません。様々な表現に挑戦して自分の中にあるものを一通り取り出したら、ネタが尽きてしまうのです。いわば空っぽの状態です。そうして「書きたいものがない」と思ってしまうのです。

ただ、空っぽになることには良い面もあります。呪われた創作者、つまり「創作しなきゃ生きていけない」というタイプの人は、創作で自分の中のネガティブなものを取り除いているのです。実際ライティングセラピーというものもありますし、『G戦場ヘヴンズドア』という漫画ではこれを「自分のくるったとこ、描いて治してんだ」とも表現していました。

要は心がマイナスに偏ってしまった人が、全部空っぽにして0に戻ることができるのです。これが「自分を救う創作」なのだと思います。

マシュマロちゃんはひょんなことから高いレベルの創作者をたくさん見てきました。マシュマロちゃんの理解できる範囲を大きく超えたスキルの人々です。でも、その多くが「書きたいものがない」「書きたいものがあればすぐ書くんだけどな」なんて言って創作をやめてしまいます。決して「書けるものがない」ではないんです。

それは自分を救ってゴールしてしまった状態とも言えます。人間として健全になるのはとてもいいことですから、祝福すべきことです。それに「呪われた創作者への檄文」でも書いているように、まずは自分を救った状態に到達するのが大切です。

しかし到達してもそのままだと作るものがなくなってしまい、創作者として終わってしまっています。創作者として生き続けるには、さらに発達段階を進む必要があります。もし「呪われた創作者」ならば、生きる術を失ってしまうので大問題です。

もちろんそのまま書けなくなって健全な「普通の人間」としてゴールすることだって何の問題もありません。ですが「『普通』を失って苦しんでもいいから創作したいんだ!」という人は別です。マシュマロちゃんは「意志ある者は普通で終わるな」というスタンスです。そのため、「書きたいものがない」に打ち勝ち、本当に書きたいものを見つけたいならば、「普通」なんて投げ捨ててさらに新しい目を開きましょう。そうして創作という修羅道の奥へ奥へと進んでいってください。

他者を見る目

人間の脳は、場所、顔、物語の3つを覚えることに特化しています。そのため、トランプの絵柄をどれだけ覚えられるか等を競う記憶力コンテストでは、競技者のほぼ全員がその3つを組み合わせた手法を採用しています。それほどまでに人間の脳はこの3つに特化しており、この3つを認識することを欲求している生き物です。

この3つの要素のうち物語はとりわけ重要で、『サピエンス全史』では人間は物語を含む「虚構」を認識できる力を獲得したことで血縁集団よりも大きな集団を作れるようになり、人間たる存在になったとも言われています。

とはいえ物語は実体がなく、普通に生活でしているだけでは認識しにくいものです。そのため古来より神話が語られ、現代では娯楽という形で明示的に認識の機会が作られています。

しかし物語は必ず「物語を作る誰か」を必要とします。つまり物語を認識する欲求は、同時に創作者に物語を求めるということなのです。

それなのに自分を見る目しか開かれていないと、誰がどんな物語を欲しているかわかりません。自分しか見えていないからです。人々はいつだって物語を渇望しているのに!

物語を食べ物にたとえればわかりやすい状況です。高いスキルを持っているということは、高い生産能力のパン工場を持っているようなものです。自分を見る目しかないというのは、工場の外を知らないということです。

では工場の外はどうなっているのかというと、食べ物がなくて飢えている人がたくさんいるのです。一切れのパンさえあれば今日を生きていけるのに、明日を待たずに死にゆく人々です。

それなのに「書きたいものがない」と言うのは、この状況で「作りたいパンがないから工場止めてるんだよね」と言っているようなものです。もしパンがなくて死のうとしている人が見えていたら、こう思うでしょう。頼むからパンを作らせてくれ、と。

物語も食べ物と同じです。「これは自分ための物語だ」という作品に出会えれば救われたはずの人々の心は、声を上げる方法も知らず次々と死んでいます。

「これは自分ための物語だ」という感覚、創作者なら覚えがあるでしょう。

それでどれだけ救われたか!
どれだけ立ち上がる力をもらえたか!

そして今、あなた人々に物語を与える力を持っています。他者を見る目を開き、物語を渇望する人々の存在を確認してください。よく見て、物語を差し出すだけでいいのです。それだけで救われる人がいるのです。そして同時に、それがないだけで死ぬ人もいるのです。

社会を見る目

多くの人間が同時に渇望した物語があるとすれば、それは社会が渇望した物語と言えるでしょう。社会に渇望された物語には、わかりやすい実例があります。

『ゴドーを待ちながら』という1952年のフランスで公開された演劇があります。「ゴドー」という人物を待つ二人を描いたもので、「待てど暮らせどゴドーは来なくて何も起こらない」という不条理な話です。

いやはや、いかにもインテリが好んで議論しそうな作品です。実際めっちゃ議論されました。当時は不条理な作品というのが珍しく、最初は酷評されました。そりゃ不条理ですからね。しかし次第に評価され、不条理さを作品に昇華した名作とされています。

この作品が、本当に生きるか死ぬかのレベルで社会に渇望されたことがあります。それはフランスのインテリ達のあいだではなく、コソボ紛争下のサラエボでした。

その時、サラエボはセルビアに侵攻されていました。多くの人が死に、街は破壊され廃墟群に成り果てました。

断続的に響く銃声、時おり地面を揺らす爆撃。まさにそんな中で、役者たちだって食う物に困っているのに、わざわざ『ゴドーを待ちながら』が上演されたのです。サラエボの人々がこの物語を渇望したのです。

国際社会から孤立し、待てど暮らせど救援は来ない……できるのはただ死なないように待つだけ…そんなサラエボの人々が「これは自分達の物語だ」と渇望したのが『ゴドーを待ちながら』だったのです。

目立つと爆撃の標的になるので、人々は隠れながら集まりました。銃声で台詞が聞こえなくなろうと、何度も何度も上演は繰り返されました。危険なのになぜって……それは生きていくのがつらくてつらくて、今この物語がないと明日を生きていけないから!

これを「社会が物語を渇望していた」と言わずなんと言いましょう。

こんな風にセンセーショナルじゃなくても、社会は常に物語を渇望しています。翻って今の日本を見てみましょう。今こそ社会への目を開くのです。いま日本どころか世界が疫病で大きく揺らぎ、社会が何かを求めているのは明らかです。

そこからもっともっと目を見開いてください。
何が見えますか?
どんな声が聞こえますか?
あなたの手は、そこに物語を差し出すことができるはずです。

まだ思いますか。「書きたいものがない」だなんて。今は具体的なものが思いつかなくても、3つの目を開けば何かを見つけられる気がしませんか?

作品を通じてそっと「大丈夫だよ」と伝えるだけでもいいんです。
「あなたはそれでいいんだよ」と受け入れるだけでもいいんです。
「生きづらい世界だよね」と共感するだけでもいいんです。

それだけで救えるのが物語の力です。
そしてその力を宿しているのが、あなたの手です。


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