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杉浦 康平『本が湧きだす(杉浦康平デザインの言葉)』

☆mediopos2943  2022.12.8

グラフィックデザイナーの杉浦康平のことを知ったのは
松岡正剛の編集していた雑誌『遊』の頃からだが
それ以降そのブックデザインには感嘆させられ続けてきた
まさに「本が湧き出す」

工作舎から刊行されてきた
【杉浦康平 デザインの言葉】シリーズも
『多主語的なアジア』
『アジアの音・光・夢幻』
『文字の霊力』に続き
本書『本が湧きだす』で第四弾目

杉浦康平は一九三二年九月生まれだから
すでに現在九〇才となっているが
まだまだご健在そうで心強い限り

本書では
「一」冊の本を開けば左右の「二」
パラパラとめくれば「多」
閉じれば即座に「一」に戻るという
「一即二即多即一」となる本の形態の絶妙さなど
語られているが

ここでは同じブックデザイナーの
戸田ツトムと鈴木一誌が聞き手となって
「デザインという行為」について
語られているところから
「つくり手」の存在について

「つくり手」としての杉浦康平は
「重層性をもつ濾過器」
「通路であり記憶の層を織り込む場所」であり
モノをつくるときには
「自分自身の感覚を全開して、世界を受容しうる
一つの装置に自らが変容してゆく」のだという

そしてそれは
鈴木大拙が「五本の指をもつ人間の手」について
考察しているように

指を分けてとらえるのではなく
「五本の指を一つにまとめる場所」であり
「指を握るときに、掌の上に五本の指が集まって一つになる」
つまり「指一本一本の区別から、
「一」なるものへ・・・と一気に溯ること」のできる
「掌(たなごころ)」において

「見る」ことを、ほかの知覚と分断せずに、
「握って」包括的な行動として捉える」ような
共感覚的な次元のありようであるともいえる

そうしたありようを可能にするためには
「からだの中に、
古層から新しい層までのたくさんの層が堆積し、
その「重層性」が濾過器となって、
一つひとつの仕事に適した形をつくりだす」
ことができなければならない

重要なのはみずからのなかに
そうした「重層性」を持ち得てはじめて
そうした「かたち」が生まれ得るということだろう

それはどんなことについてもいえることで
たとえば「職人」の世界はまさにそれ
「職人」に憧れるのはそんな「重層性」ゆえにである

付け焼き刃はすぐに露呈してしまう
みずからのうちにいかにさまざまな「層」を
つくる営為を重ね続けているかが鍵となる
ひとの魂も同様である

■杉浦 康平『本が湧きだす(杉浦康平デザインの言葉)』
 (工作舎 2022/11)

(聞き手=戸田ツトムさん+鈴木一誌さん 季刊「d/SIGN」インタビュー「現在進行形のデザインのために」より)

「杉浦/杉浦という人間のからだの中に、古層から新しい層までのたくさんの層が堆積し、その「重層性」が濾過器となって、一つひとつの仕事に適した形をつくりだす。つまり他者によって与えられた命題が、自己化されて吐きだされてくる。しかし自己化とはいえ、果たして「自分」と呼ぶような偏った媒体が必要なのかどうかはわからない。これはもう一つの大問題ですね。
でもとにかく杉浦という重層性をもつ濾過器を通してモノが姿・形を変え、世界に向けて飛び出していくことになる。

戸田/さまざまな経験や記憶そのものが、作品の形になるのではなく、自己が通路であり記憶の層を織り込む場所であるということですね。」

「杉浦/モノをつくるときには、まず濾過器としてのつくり手が存在していなければならない。存在するためには、自分自身の感覚を全開して、世界を受容しうる一つの装置に自らが変容してゆく。そのときに、たとえばグラフィックデザインは視覚に関係するものだから目玉を見開いていればいいのかというと、そうではない。それだけではすまないのです。
いま私たちは、ヒトの感覚系というものを五つ、六つに分けてしまったわけだけれど、ここで思いおこすのは、鈴木大拙による「五本の指をもつ人間の手」、その指と掌にまつわる考察です。

   西洋型の考へ方や感じ方は、これを手にたとへて云へば、五本の指のうちの一本が獨立して、ほかの四本にたいして権利を主張する。小指は小指であり、親指は親指である。それで小指は小指としての、親指は親指としての責任をはたす、道徳をまもつてゆく。東洋はその反對で五本の指がおかれてゐるところ、または五本の指の出てくるところ、それは手のひらであり、手全軆であるといつてもいいが、手全軆をつかまうとする。根本をつかめば、五本の指はひとりで動くと考へる。だから小指が親指で、親指が人さし指だといふやうにもいへるのです。西洋の考へ方は、五本の指に重きをおく。一つ一つわかれてゐるから規則があるし、組織が大事になる。そこから個人主義といふことが出てくる。また一方に個人主義をやかましく云ふところに機械主義・科學主義が発展する。(鈴木大拙「東洋の考へ方」『東洋の心』岩波書店/一九七〇年)

禅的な明晰さ、発想の妙をつくして意表をつく、簡潔な記述ですね。
五本の指それぞれが、親指、小指というように名前をもち、分けられてしまう。名づける、分けるということが西洋哲学の根本、認識の根本にあり、分節、分析・再結合という行為を積み重ねて現代科学が組みたてられ、今日にいたっている。
分節化、分析手法はとても明晰な、他者に対していつでも伝達しうる鮮明な考え方ですね。私たちもその手法を学びとって、現代社会を築きあげてきた。
しかし、人間の手には掌(たなごころ)というものがある。たなごころとは五本の指を一つにまとめる場所で、指を握るときに、掌の上に五本の指が集まって一つになる。指のすき間からこぼれ落ちるものを、掌はしっかり受けとめています。指一本一本の区別から、「一」なるものへ・・・と一気に溯ることができる。
分けること、まとめること、この二つの対極的な認識を人間の手はたくみに象徴している・・・という。東洋的認識、「東洋的思想」というのは、この握るということだ」・・・と鈴木大拙さんは記す。明快な把握力だと思います。

戸田/「見る」ことを、ほかの知覚と分断せずに、「握って」包括的な行動として捉えるというわけですね。

杉浦/見るということは、握られた指では、一としてまとまって「ある」ということと同じ。あるいは、生きるということと同じです。すると、見ることは聴くことと同じ、聴くことは触ることといっしょ・・・ということになる。われわれがよく経験する共感覚体験に結びつくのでは・・・。

鈴木/曜日や文字一つずるに、あるいは音に、固有の色が見えてしまう共感覚者の体験談を興味深く読んだことがありますが。

杉浦/格別な例でなくても、ともかく人間が「わっと驚く」ときには、目や耳・手・足、脳や内臓・・・そんな区別が問題にならない。ひとまとまりの存在になるでしょう。皮膚で包まれた全身が湧きたち、わっと驚く。飛び上がるという言い方があるように、一瞬にして身体がまとまり、宙に浮く。部分でなく、全体が「一」になる。
この一になる瞬間というものは、全身が最高潮に働いている一瞬ですね。」

〈目次〉

はじめに
1 ブックデザインの核心
一枚の紙、宇宙を呑む
一即二即多即一
Color pages ブックデザイン選
メディア論的「必然」としての杉浦デザイン—石田英敬さんとの対話

2 感覚の地層
耳と静寂
眼球のなかの宇宙
眼球運動的書斎術
熱い宇宙を着てみたい—松岡正剛さんとの対
1960-70年代の写真集のデザイン

3 本の活力
エディトリアル・デザインの周縁—赤崎正一さんとの対話
現在進行形のデザインのために—聞き手=戸田ツトムさん、鈴木一誌さん
人類としての記憶—北川フラムさんとの対話

初出一覧
あとがき ブックデザインの道を拓く

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