中村文則『列』/インタビュー「不寛容な時代の欲望」中村文則、聞き手=中条省平/蜂飼耳「その列はいったい何の列なのか」
☆mediopos3291 2023.11.21
「群像」2023年7月号に掲載されていた
中村文則の小説『列』が単行本化され
その刊行を記念して11月号で
インタビュー・書評等が掲載されている
ある動物の研究者である「私」は
いつのまにか「列」に並んでいる
なぜ並んでいるのかわからない
いつから並んでいるのかもわからない
何のために並んでいるのかもわからない
列の先も最後尾も見えない真っ直ぐな列・・・
列に並んでいる人たちは
互いを疑いときに軽蔑したり羨んだりしている
「あらゆるところに、ただ列が溢れているだけだ。
何かの競争や比較から離れれば、
今度はゆとりや心の平安の、
競争や比較が始まることになる。
私達はそうやって、互いを常に苦しめ続ける」という
あるとき列に並んでいる人たち全員が
ひとりひとり違う「整理券」を持っているとされ
「私」の整理券には「列に並ぶこと」と書いてあり
その意味がわからず混乱したりもする
カフカやベケットを想像させる不条理の物語である
中村文則がこれまで描いていたような
ドストエフスキー的な善と悪・罪と罰といった
対立概念がダイナミックにせめぎ合う
「弁証法的なドラマの展開」があるわけではない
印象に残るのは
地面に書かれた「楽しくあれ」という文字
誰が書いたのかわからず
踏まれて消えてしまっても
思い出され永遠に繰り返される文字
『列』の刊行を記念して行われた
中条省平とのインタビュー記事のなかで
その「楽しくあれ」は
大江健三郎がイエーツの詩を引用した
「Rejoice!(喜びを抱け!)」や
原始仏教の原典に出て来る言葉
ニーチェの『喜ばしき知識』につながるとも示唆されている
わからないまま「列」に
ただならび続けるというのは
まさに「不条理」そのものでもある
「そのしがらみから、人間は逃れられない。
そして個人は、日常や人生において直面する
列から逃れられない。」(蜂飼耳)
しかしこの物語は
「楽しくあれ」という文字が現れることによって
「列というある種の閉塞状況を書きながら、
最終的に何か肯定的なものが響く結末へと向かってい」る
(中条省平)
「列」は
どこから生まれて来たのかどこへと向かっているのか
何のために生きているのかわからないでいるように
私たちのだれもが置かれている状況にほかならない
しかしそのなかで
「楽しくあ」るということは
そして「楽しくあれ」と求められているということは
どういうことなのかを問うことで
不条理と思われていたことは
いつのまにか別の様相を
垣間見せてくれるようになるのではないだろうか
■【『列』刊行記念】
・インタビュー「不寛容な時代の欲望」中村文則、聞き手=中条省平
・書評「その列はいったい何の列なのか」蜂飼耳
(群像 2023年11月号)
■中村文則『列』(講談社 2023/10)
(中村文則『列』〜「第一部」〜「灰色の鳥」より)
「その列は長く、いつまでも動かなかった。
先が見えず、最後尾も見えなかった。何かに対し律儀さでも見せるように、奇妙なほど真っ直ぐだった。」
「近くの地面には、誰の仕業かわからないが、「楽しくあれ」と書かれていた。」
(中村文則『列』〜「第三部」〜「整理券」より)
「「後方からの噂ですが、どうやら私達は全員、整理券を持っているらしい」
「は?」
「私達のポケットに、入っているらしいですよ。後方の誰かが見つけて、他の人間も持ってたって。券はそれぞれ違うらしいです。つまり」
手相の男の視線が、言いながら揺れた。
「私達が、何のために並んでるかわかる。それは書かれてる」
「知りたくない」
私は反射的にそう言っていた。鼓動が微かに速くなっていく。
「ええ、私もです」
「嫌だ。自分を知ることになる」
後方から、様々に声が聞こえる。」
「チャック付きの右ポケットに、それはあった。他にはない。私には一枚しかない。
見るまでもなかった。私の願いは論文だ。それだけの人生だった。
視界が狭くなる中、整理券を見る。「列に並ぶこと」とあった。
「ということは」
手相の男が、私の整理券を覗いて言う。私は困惑する。意味がわからない。
「あなたの目的は、並ぶことなんだ」
「は?」
「何かの願いより、もう並ぶことが目的になっているんですよ。・・・・・・最悪だ。もう中毒に等しい」
「違う」
「でもそう書いてある。つまりあなたは、本当は」
手相の男の声に同情が滲む。私の望んでいない同情が。
「他人と自分を比べてずっと文句を言い、ずっと苦しんでいたいんだ」」
(中村文則『列』〜「第三部」〜「修理屋」より)
「眩暈が酷くなる。これまで、経験したことがないほどに。視界が揺れる。意識が途切れたような感覚があった。私は目を開く。
その列は長く、いつまでも動かなかった。
先が見えず、最後尾も見えなかった。何かに対し律儀さでも見せるように、奇妙なほど真っ直ぐだった。
近くの地面には、「楽しくあれ」と書かれている。」
(インタビュー「「不寛容な時代の欲望」中村文則、聞き手=中条省平」より)
「中条/今までの中村さんの小説には比較されるプロトタイプとしてドストエフスキーがありました。ドストエフスキーの小説は善と悪、罪と罰といった対立概念がダイナミックにせめぎ合うことを特質としています。それに対して『列』は、対立概念があって弁証法的なドラマの発展があるのではなく、むしろ何も起こらない迷宮というか閉塞した状況の中で、人間はどう行動するのかが書かれている。作中にも出てくる言葉で言うと、この作品は「列」ではなく「円」ではないか。そうすると、どこまでも終わらない工程ということになり、やはり『城』を思い出すのです・
これまでの作品で書かれてきたドストエフスキーと直結するドラマトゥルギーを離れて、カフカの迷宮的な閉塞感を描くという中村文学の大きな転換が、今回はあったように僕は思います。」
「中村/後で気づいたことですが、作中に出てくる「楽しくあれ」という言葉は、僕の中での大江さんの「Rejoice!(喜びを抱け!)」だったのかもしれないです。大江さんがイエーツの詩を引用した「Rejoice!」には僕も大きな影響を受けましたし「楽しくあれ」というのは普通の言葉ですが、原始仏教の原典に出て来る言葉でもある。結局、人生はどこで行き着くというか。だから、大江さんには『列』を読んでいただきたかったんですよね。書いている間にお亡くなりになったので、かないませんでしたが。
中条/「「楽しくあれ!」についてのお考えはすばらしいですね。ニーチェの『喜ばしき知識』と訳されている文集は簡単な言葉で言うと「楽しい各問」になる。フランス語だとgai(陽気な、楽しい)と訳していますが、なぜニーチェが楽しい、陽気な学問を提唱したかというと、西欧的な学問の伝統はつまらない冷たい楽しくない学問だったからです。「楽しくあれ」は大江さんの「Rejoice!」にもつながるし原始仏教にもつながるし、ニーチェ的な反キリスト教的な伝統にもつながると思います。」
「中条/『列』は列というある種の閉塞状況を書きながら、最終的に何か肯定的なものが響く結末へと向かっています。列という個人の意思ではどうにもならない状況を書きつつ、ある種の肯定性がいくつかの場面に埋め込まれているところは、この小説の感動的なところです。
その一つは先ほども話題に出た「楽しくあれ」という地面に書かれた文字。列に並ぶ人たちが踏んで消えてしまっても、思い出したりすることで、永遠に繰り返される形になっています。」
「中村/『王国』のラストではユリカさんが木崎を経て価値観が逆転して、同じ行為が逆の意味を持ち始めます。捨てられることは自由になることであり、「毒じゃないから」の言葉も反転してプラスの意味に変わる。
『列』でいえば、「楽しくあれ」は最初は皮肉として出てきます。みんなが列の中で争っているとき、足元に「楽しくあれ」と。でも印象が変わっていく。ここには『王国』のラストとの響き合いが絶対にあったと思います。列に並ぶというきついシチュエーションでも、しかし希望はあるという風に。」
「蜂飼耳「その列はいったい何の列なのか」より)
「不条理、といった単語はあまりにも完結に見えて、使うことにかえってためらいも生じる。しかし、魅力があるという意味で、『列』にはカフカ的でベケット的な不条理の企てがあると書こう。作品の世界において、確かに時間は進み、展開がもたらされ、人物も動いているが、人物を取り巻く状況についての肝心の目的が空洞化されていたり、中心軸への言及が敢えて外されつづけたりする、あの感覚がある。何なのか、明かすことなく引き延ばしつづけること事態に、作品の重要な要素が仕組まれているのだ。
とはいえ、『列』は、不条理を底に据える方法に安住した上で抽象的なレベルでまもとめられた作品ではない。」
「「でも、と私は思っていた。楽しく、あれと。そのような中でも、楽しくあれと。なぜそう言いたかったのだろう」。この「私」の自問は、そのまま読者へと向けられる問いだ。
生物がこれまで辿ってきた歴史という列。そのしがらみから、人間は逃れられない。そして個人は、日常や人生において直面する列から逃れられない。この小説には、前提としてそうした観点が存在する。だからこそ「楽しくあれ」なのだ。なぜなら、楽しくあることは、列の虚しさや厳しさに対する、ささやかな抵抗となるからだ。二〇世紀に注目され、人間を強く捉えた不条理の観点をめぐって、作者が示した県警の一つは、現時点ではこの「楽しくあれ」だろう。不条理の底なし沼を、単に覗き込みつづける態度に終始するのではなく、そこに脱出の可能性や救いに類する通路を用意しようとするこの結末には、いま、小説の在り方をどう探求するかという視点がある。この小説が見出した列のイメージは、文字を超えて、容赦なく人間を炙り出す。」