谷川俊太郎×高橋睦郎「対談 詩のうまれるところ」 (進行:田原)・田原「論考 言葉から言葉へ」 『すばる』/『田原詩集』
☆mediopos-3011 2023.2.14
谷川俊太郎×高橋睦郎「対談 詩のうまれるところ」が
昨年10月28日に谷川俊太郎の自宅で収録され
『すばる』の3月号で記事となっている
進行役は日本語で詩を書き
谷川俊太郎の詩を中国に紹介していたりもする
中国人詩人・田原(ティエン・ユアン)である
谷川俊太郎と高橋睦郎の対談も興味深いが
非母語で言葉を書いている田原も含め
それぞれが詩を書いている背景ともなっている
生まれた環境の違いが詩にどのように反映しているか
逆にいえばそれぞれが独自の詩の言葉を生むために
どのような環境に生まれ育ってきたのか
生まれ育つ必要があったのか
そんなことをつらつらと考えてみることにした
谷川俊太郎にはコンプレックスがあるという
「自分は恵まれすぎ」
「子ども時代にいい生活を送ってきたことに負い目」をもち
そして「ドラマがない」
田原が「これほどまで清潔感が溢れる詩は、
どこの国を探しても発見は困難ではないか」という
谷川の詩についての評を紹介しているが
かつて結婚していた佐野洋子の評でいえば
「あんたの詩なんてスープのうわずみね」らしい
そんな谷川俊太郎に対し
高橋睦郎は子供の頃「非常に苦しい日々」を過ごす
しかし「今にして考えると、ある意味では恵まれていた」
「そんな経験、ぼくの同年輩でもほとんどした人がいない」ので
逆説的にいって「豊かな経験」だったのだという
谷川俊太郎は恵まれた環境にコンプレックスを持ちながらも
その条件のもとで「純粋詩」的な表現をし
高橋睦郎は厳しい環境に生まれながらも
ある意味悲惨なまでの環境を「豊かな経験」とし
そこからあのまさに豊かとしか言いようのない表現を生んでいる
そして田原だが
あえて中国語と日本語を橋渡しし
「非母語での執筆は言葉の冒険をする快感、
あるいは創造する快感を与えてくれるから」と
「非母語で言葉を書く」という
「制約」「足枷」の下で「挑戦」している
これは詩作に限ったことではないが
みずからの生まれ育つ環境を初期条件として
(どんな環境であれ「豊かな経験」ととらえ)
そこからどのように創造的に展開させていくか
ということが重要なことなのだと
三者の基本姿勢について考えながら実感させられる
若い頃はそうしたことを深く考える機会は少なかったが
年を経るにつけじぶんの生まれ育った環境・初期条件は
それが外から見て豊かかどうかとは別にして
じぶんなりにそれをどのように捉えていくか
それが重要なことなのだろう
豊かな環境で甘やかされて育ったときには
それをそれなりのかたちで生かしていけばいいし
貧しい環境で厳しく育ったときにもまた
それを「豊かな経験」としていけばいいということだ
そしてときにはあえてみずからに「制約」「足枷」をつくり
それを創造的なもののためのジャンピングボードにする
どちらにせよだいじなのは
「創造的な生」を送るということだ
■谷川俊太郎×高橋睦郎「対談 詩のうまれるところ」
(進行※田原 構成※長瀬海 撮影※藤澤由加)
(『すばる 2023年3月号』集英社 所収)
■田原「論考 言葉から言葉へ」
(『すばる 2023年3月号』集英社 所収)
■『田原詩集』(現代詩文庫205 思潮社 2014/3)
(谷川俊太郎×高橋睦郎「対談 詩のうまれるところ」より)
「日本の詩歌世界のレジェンド、谷川俊太郎氏と高橋睦郎氏。その豊かなインスピレーションの源はどこにあるのだろう・・・・・・。
二人の詩を深く読み込み、中国に紹介してきた、詩人で日本文学研究者の田原氏が進行役となって、作品世界に迫る。」
「谷川/ぼくにはコンプレックスがあるんです。といっても、文字通りの意味での劣等感ではなくて、その逆。子ども時代にいい生活を送ってきたことに負い目のようなものを感じるんですね。七つの大罪ってあるでしょう。あのなかで言えば、ぼくの罪は「傲慢」にあたる。生活に困った経験もないし、飢えたことも戦後すぐの数年しかない。だから睦郎さんの幼年時代の話を聞いたり読んだりすると、すごく後ろめたい気持ちになります。自分は恵まれすぎているような気がして、ちょっと気が咎める。
高橋/谷川さんがそのように感じる謂われはないと思います。確かにぼくの幼少期は極貧という言葉が相応しいものではありました。いつも「生きるか死ぬか」のすれすれのなかにいたような。生まれてすぐには、母がぼくに睡眠薬を服ませて、自分も大量に服んで死のうとしたことがあったようです。物心ついた小学生時代も、よく母は親子心中をぼくに持ちかけてきました。(・・・)
谷川/睦郎さんはお父さんが亡くなるのも早かったんですよね。
高橋/父が死んだのはぼくが生まれてすぐでした。だから母も本当に苦労したり、ぼくも非常に苦しい日々を過ごしました。けれど、今にして考えると、ある意味では恵まれていたと思うんですよ。だってそんな経験、ぼくの同年輩でもほとんどした人がいないんですから。ぼくは親類や他人の家を転々として、惨めな思いを味わってきました。そういう惨めさはほとんどの人が抱くことのないものだし、おかしな言い方になりますが、だからこそ豊かな経験だったんだなと振り返って思います。意地を張っているのではなく、素直にそう考えますね。」
「田原/お二人は六歳しか違いませんが、それぞれの幼少期の記憶を一緒に辿ると、別々の国で暮らしていたように感じられます。そうした原点の違いのゆえか、例えば、お二人の詩における「少年性」に着目すると随分と異なるのがわかります。高橋さんの詩には生命力————まるでハイエナのような————がありますが、谷川さんの詩における「少年性」は遊び心、感性がみずみずしく、ユーモアに満ちて、感性と理性とイマジネーションなどのバランスがうまく保たれているように思われます。」
「高橋/谷川さんの詩というのは一言で言うと、純粋詩なんですよ。詩以外の何ものでもない。
谷川/それは褒め言葉に聞こえますけど。
高橋/本当にそうですよ。谷川さんの詩に比べたらぼくなんかは、夾雑物があり過ぎる、ただ、ぼくは、谷川さんがおっしゃった知識や教養に対する自分の姿勢というのは、それらに恋している状態だと考えることにしています。知識や教養はぼくにとって材料なんじゃなくて、恋の対象でありたいんですよ。そういう形でしか、もはや生きようがない。
谷川/今日、冒頭で劣等感のお話をしましたが、ぼくは自分の人生にもう一つ別のコンプレックスがあるんです。それはドラマがないということ。ねじめ正一が「谷川さんにはエピソードがない」と言ったことがあるのね。確かにその通りで、ぼくには逸話の類いがあまりない。それは基本的にぼくがそういう人生におけるドラマを経験していないからなんです。
高橋/でも、自分で避けてしまうこともあるでしょう?
谷川/それはあります。夫婦喧嘩なんかしたくないって思っちゃうからね(笑)。一人っ子ってやっぱりそういう弱さがあるんですよ。さっき語り口の話をしましたけど、ドラマがないから詩における「喋り」に清潔感が出てくるんだと思う。ごちゃごちゃしないから。
田原/中国の詩人の北島が谷川さんの詩について「これほどまで清潔感が溢れる詩は、どこの国を探しても発見は困難ではないか」と以前、言っていました。
谷川/物は言いようで、佐野洋子が同じことを「あんたの詩なんてスープのうわずみね」と言ってましたよ(笑)。うまいでしょう、その言い方は。」
「田原/以前、中国で私の知人の娘さんが使っている教科書に谷川俊太郎の詩が収録されていることを知りました。訳者は私なんですが、掲載されるまでそのことを知りませんでした。もちろん日本の教科書にも載っていますし、私自身、谷川さんの詩には教育性があると感じています。
谷川/ありがたいことだけど、ぼくは「教科書詩人」なんて呼ばれてきたから、教科書に載るなんていうのはあまり嬉しくないんですよね。ぼくが学校嫌いだということをみんな知っているから、昔、ある学生が「学校嫌いのくせに何で自分の詩を教科書に載せるんだ」とぼくのことをなじった(笑)。ぼくが教育というものにあまり好意を持っていないのに、自分の詩を収録させていることが許せなかったんでしょうね。
高橋/載せてもらったわけじゃなくて、向こうが載せたんでしょう。断るのも面倒くさいし。
谷川/まぁ、それはそうなんだけどね。それはともかく、ぼくは教科書には不満を持っています。例えば、日本の近代詩なんかここのところ全然載らないじゃない。中原中也とか三好達治の詩を教科書で見かけることがほとんどなくなってしまった。ぼくはそれがすごく不満なんです。なんで現代詩なんかを載せるんだよ、と。近代詩をちゃんとやれよ、と思いますよ。中国の教科書は民間で創られていますか?
田原/中国の出版物は全て国の機関で作っています。
谷川/じゃあ、ぼくは体制側の詩人だと思われているわけだ(笑)・
高橋/体制側にいるわけじゃないけど、体制の方が利用できると思っているんでしょうね。
谷川/名誉ではないよね。体制嫌いなのにさ。ただ、ぼくは自分の詩は商品だと思っていますから。資本主義の世の中なんだから、売れるんだったら売ってもいいと思ってやってきました。要するに、ぼくには生活費が必要だったってことです。詩で生活するなんて簡単なことではないから。ぼくはずっと考えているんだけど、詩の研究者はちゃんと「詩と金の関係」について論文を書いた方がいい。誰も書いてくれないじゃない。」
(田原「論考 言葉から言葉へ」より)
「日本語で詩を描き始めて以来ずっと、私はいまも薄氷を踏むかのようである。二つの言語の間を行き来して、ときに楽しく、ときに戸惑うことも変わっていない。これは宿命だと思っている。なぜ母語を飛び越えて日本語で書くのか、最大の原動力は日本語に対する好奇心だ。
たまに自分が書いた日本語の詩を母語に訳すが、私は両方の言葉の当事者だが、母語に置き換えるときに、やはりある言葉や詩句は挑戦してくるのだ。言うまでもなく、言語は思惟の物質的な形式であり、思惟が言葉を詩に導く使命感や精神性、あるいは詩の本質に到達しようとする努力や、ポエジーを追い求める行為は、言語による大きな違いがそんなにあるとは思わない。詩を書くことは精神の冒険であり、いろいろな言葉に出逢った後、詩歌か小説かにかかわらず、一流の文学作品はいつも個人化という基礎の上に、世界性あるいは人類の普遍的な認知とある種の内在的な関連が発生するとも思われる。一篇の詩がいかに多文化的な広い視野と、人間性と人間の境遇に対する深い洞察力を持ち、高い芸術的完成度と文学的表現力で言葉の美学の本質を明らかにするか。おそらく詩人にとって、一篇の詩によって自己超越することは一つの理想かもしれない。
私にとって、母語と非母語の翻訳と、非母語で言葉を書くことはどちらも重要だと思うが、もし二者択一をするなら、私は後者を選ぶ。なぜなら、非母語での執筆は言葉の冒険をする快感、あるいは創造する快感を与えてくれるからだ。翻訳は一つの言語をもう一つの言語に置き換えていくプロセスであり、翻訳倫理の諸条件に制約され、足枷をつけざるを得ないダンサーとしては、自由な創造の場は限られている。とはいえ翻訳も私の視野を広げ、足枷を増やしてくれ、異なる思考の方向性も提供してくれる。そして知力と言語感覚を鍛えてくれる。ときにはいくつかの言葉が私を立ち往生させることもあるが・・・・・・。
言葉が思考を変えるということも関係しているのかもしれないが、母語ではない言葉の世界が開かれるのだ。この永遠の全く新しい世界は母語では描けない自画像を描かせて、好奇心と無限の吸引力を充たしてくれる。非母語の言葉を書くことは、母語を客観的に見る立場、あるいは言葉のテコを使って母語を動かすレバレッジを見つけることにつながるのである。」
(『田原詩集』〜「詩集〈石の記憶〉全編 あとがき」より」
「今も日本語で創作するとき、私に挑戦してくる語彙がたくさんある。私はそれらの語彙の上を薄氷を踏むようにして歩みを進め、そしてそれらが持つ意味の彼岸にたどり着く。
その挑戦とそれがもたらす刺激が私を常に刺激し、日本語で創作する意欲と日本語を手なずけようという好奇心をかき立ててくれる。
母語を越え、観念に背く。
日本語に分け入り、自らの語感に挑戦する。
中国語は硬の中に軟がある。抽象、具体、含蓄、直接、孤立、・・・・・・。
日本語は柔の中に剛がある。曖昧、柔軟、解放、婉曲、膠着、・・・・・・。」
「詩人にとって言葉は永遠に沈黙を守る高い壁であり、その高みは見ることも触れることもできず、詩人がそれを越えることができるかどうか試そうとしている。」
「物があふれ心が貧しきなったこの時代、私は特に有名でなくても心豊かな詩人でありたいと思う。
ネットとメールの発達が人々の時間を奪い取っている今、私はこっそりもっとたくさん自分の時間を持ち続けていたい。」
◎田 原
1955年、中国河南省生まれ。大学在学中に中国語による最初の詩集を刊行。1991年、来日。立命館大学大学院博士課程修了、文学博士号取得。2001年、第1回留学生文学賞受賞。日本語による詩集に、『石の記憶』(思潮社・2009年、第60回H氏賞)がある。中国語、英語による詩集で、第10回上海文学賞をはじめ、中国・アメリカ・台湾で詩の文学賞を受賞。中国語と日本語で詩作を続ける一方、日本現代詩人の作品を中国語に多数翻訳。『谷川俊太郎詩選』はこれまでに6冊編訳、中国における日本詩歌の見直しのきっかけを作った。