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苫野一徳『愛』/ウェブサイト「現代新書」/山口尚『日本哲学の最前線』/西田幾多郎『善の研究』

☆mediopos3529  2024.7.16

愛とはなにか

正直なところ
そう問うことは
どこか臆さざるをえない

愛という言葉を使うこと自体もそうだが
とくにそれを哲学的な用語を使って論じることが
果たしてできるのだろうかという疑問からでもある

個人的にいえば
哲学的に愛が論じられながら
それについてはじめて違和感を感じないで
どこか腑に落ちてくるような感覚を得たのは
西田幾多郎『善の研究』の
「第4編 宗教 第五章 知と愛」だったことを思いだす

そこでは(多分に宗教的ではあるが)
「知と愛とは同一の精神作用である」と説かれている

「知は愛、愛は知である。
たとえば我々が自己の好む所に熱中する時は殆ど無意識である。
自己を忘れ、ただ自己以上の不可思議力が独り堂々として働いている。
この時が主もなく客もなく、真の主客合一である。
この時が知即愛、愛即知である。」

「両者の差は精神作用その者にあるのではなく、
むしろ対象の種類に由るといってよろしい。」

「愛は実在の本体を捕捉する力である。物の最も深き知識である。
分析推論の知識は物の表面的知識であって
実在その者を捕捉することはできぬ。
我々はただ愛に由りてのみこれに達することができる。
愛は知の極点である。」というのである

さて現代の日本の哲学者のなかで
「愛」について論じているといえば苫野一徳である

その著書『愛』については
mediopos-1745(2019.8.26)でとりあげているが
それは著者が構想20年執筆2年半を要して書かれたものだという

『愛』では真の愛について
〈存在意味の合一〉と〈絶対分離的尊重〉の弁証法的統一である
という思索を経て「自己犠牲的献身」と特徴づけている

しかもそれは「自由への誘い」でもあり
自己犠牲的献身はたんなる自己否定に尽きず
〈自分への拘りから離れることによってよりいっそう自分らしくなる〉
という弁証法的連関によってひとを自由にするのだという

ある意味わかりやすい内容でもあり
弁証法的云々といった哲学用語を使う必要はなく
比較的平易に表現するとすれば

〈絶対分離的尊重〉とは
愛は他者があってはじめて成り立つということであり
〈存在意味の合一〉とは
ほんらい一なるものである我と汝が
その他者との合一を求めるということであり
「自己犠牲的献身」とは
我をなくして合一を求めるということだろう
そして愛における利自即利他が成立することによる自由・・・

ちなみに苫野一徳は西田においては
「愛を彼我合一の次元においてしか捉えていない」
そこには「絶対分離的尊重」の契機が欠けているという

しかし西田の哲学の背景にあるのは
たとえば鈴木大拙の禅仏教でもあり
ある意味で「無」「否定」「即非」といったことは
絶対矛盾的自己同一的に
そこに含意されているともいえるのではないかと思われるのだが

おそらく苫野一徳がその著書で論じようとしているいることは
そこにたどり着くまでのプロセスに意味がある
ということだと思われる

そのプロセスのなかに「絶対分離的尊重」という契機があり
その「存在意味の合一」との弁証法が重要で
そのうえで「自己犠牲的献身」への「意志」
ということが位置づけられている

つまり「「愛」は意志をもって育て上げるものである」
「〝真の愛〟は、親の子に対する愛のような、
必ずしも特別な関係においてのみ成立するわけではないのだ。
彼岸的な理想では断じてない。奇跡のような至難なものでもない。
「愛」は、わたしたちが自分の尻で座り、自らの意志をもって、
育てあげていくべきものなのだ。」というのである

言うは易し行うは難しで
極めて実践的な「意志」そのものとして
「愛」がとらえられているが
あえていえば哲学的な定義等によって
論じられるものでもないのかもしれない

著書『愛』を書くに至った経緯について
刊行当時(2019年)に綴られた文章が先日(2024.06.27)
ウェブサイト「現代新書」で公開されているので
それを少しばかり辿ってみる

著者が「愛」の探究へ向かった動機は
長い躁鬱病に苦しんでいた頃
突如として「人類愛」の啓示に打たれたことにある

そして著者は「人類愛教」の「教祖」になりそこに信者が集うが
その後「人類愛教」は崩壊し
自身も壊れ哲学によって再生する・・・

「あれほどありありと見えたあの「人類愛」のイメージは、
しかしじつは、わたし自身のある欲望によって作り出された、
一つの幻影だったのではないか、と。」

「それはわたしの「孤独を埋めたい欲望」だった」
というのである

哲学探究において著者は
「「愛」の概念をわたしたちが獲得して以来」
「現実にはありもしない究極的な「愛」のイメージを、
さまざまな仕方で思い描くようになった」のだが

「愛の本質を正しく捉えるためには」
「「このわたし」に確かに味わわれている愛の体験、
その理念的情念の本質をこそ洞察しなければならない」

「性愛、恋愛、友愛、そして親の子に対する愛」など
「愛」の名のもとに包摂されるありとあらゆる「愛」には
「「「合一感情」と「分離的尊重」の弁証法」が
通奏低音となっているというのである

しかも「〝真の愛〟には必ず「自己犠牲的献身」がある」

そして「「愛」とは何か、そしてそれはいかに可能か?」
という問いに対し上記のように
「「「愛」は意志をもって育て上げるものである」
ということを著書『愛』は明らかにした・・・と

しかしあえていえば
「理念的情念の本質」を「洞察」する云々という
哲学的な言葉を使って説明することで
愛はどこかハンドルに遊びのない車のような「意志」になって
そこから「笑い」や「ユーモア」が排されているように感じる

「愛」を説いたイエスには
「笑い」はなかったのだろうか
その意味でも「愛」を論じる哲学に
「笑い」の余地こそ必要ではないだろうか

「自己犠牲的献身」が「自由」であり得るのは
そこに「笑い」や「ユーモア」といった
「遊び」への開かれがあってこそではないか

「意志をもって育て上げる」といっても
それが顔をしかめたような生真面目なだけの
「笑い」のないものであったとき
それを「愛」と呼べるだろうか
そんなことをあらためて感じてしまうのだが・・・

■苫野一徳『愛』(講談社現代新書 2019.8)
■ウェブサイト「現代新書」〜苫野 一徳『愛』についての記事
■山口尚『日本哲学の最前線』(講談社現代新書 2021.7)
■西田幾多郎『善の研究』(岩波文庫 1984/6)

**(ウェブサイト「現代新書」〜苫野 一徳「躁鬱病に苦しんでいた若き日本人哲学者が、ある日突然「人類愛教」の教祖になり、崩壊し、そこから始めたこと」(2024.06.27)より)

〔『愛』を書くに至った経緯について、刊行当時(2019年)に苫野さんが綴った文章/前半〕

・躁鬱病に苦しんでいたある日、「人類愛」の啓示が

*「講談社現代新書から上梓した拙著『愛』は、構想20年、執筆に2年半をかけた、わたしにとっておそらく最も大切な哲学作品となるものだ。
 「愛」の探究へとわたしを駆り立てることになったそもそもの動機は、20年近く前、長い躁鬱病に苦しんでいた頃に、突如として「人類愛」の啓示に打たれたことにある。
 すべての人類が、互いに溶け合い、結ぼれ合った姿が、その時のわたしには、ありありと、手で触れられそうなほどの確かさを持って見えた。そのイメージは、わたしには「愛」と呼ぶほか言葉の見つからないものだった。
 この「人類愛」を、やがてわたしは次のように言い表すようになる。「今存在しているすべての人、かつて存在したすべての人、そしてまた、これから存在するすべての人、そのだれ一人欠けても、自分は決して存在し得ないのだということを、絶対的に知ること」。
 人類は、互いに完全に調和的に結ぼれ合っている。それゆえ人類は、そもそもにおいて、本来絶対的に愛し合っているのだ。
 それはわたしが人生で味わった最も強烈な啓示であり、恍惚だった。わたしは世界の「真理」を知ったと思った。「人類愛」の真理を、わたしはこの目で見たのだった。
 その後、わたしは「人類愛教」の「教祖」になった。なぜ、そしてどのようにしてそのような「宗教」ができ上がり、決して多くはないものの「信者」が集うようになったかという話は、かつて『子どもの頃から哲学者』という本に書いた。その後に続いた、「人類愛教」の崩壊と、わたし自身の壊れ、そして哲学による再生についても。」

・なぜ「人類愛教」は崩壊したか

*「「人類愛教」崩壊の直接の原因は、それまで何年も躁鬱に悩まされてきたわたしの鬱が悪化したことにあった。しかしより根源的な理由は、わたしが哲学に本当の意味で出会ったことによる。
 哲学とは、まず何をおいても自らを確かめ直す営みである。自身の信念や思想を問い直し、それが真に普遍性を持ちうるものであるか吟味する。
 その過程において、わたしは、「人類愛」は、じつはわたしの病的な精神が作り上げた、独りよがりなヴィジョンだったのではないかという疑いを抱くようになった。あれほどありありと見えたあの「人類愛」のイメージは、しかしじつは、わたし自身のある欲望によって作り出された、一つの幻影だったのではないか、と。」

・わたし自身の、ある欲望によって——?

*「端的に言えば、それはわたしの「孤独を埋めたい欲望」だった。子どもの頃から、だれからも理解されない、だれからも愛されたことがないと思い込んでいたわたしは、長い間、大きな孤独を抱えていた。
 それが、ある時人生最大の躁状態が訪れたのに伴って、いわば反動的に、わたしに「人類愛」のヴィジョンを強烈に与えたのだ。わたしが愛されていないはずがない。なぜなら本来、人類はそもそもにおいて愛し合っているのだから!」

・あの「感じ」は何だったのか

*「しかしそれは、わたしが自らの苦悩の反動として捏造した幻想にすぎなかった。哲学に本当の意味で出会ったことで、わたしはそのことを理解した。
 こうしてわたしは、それまで自分が信じていたものもろともに、壊れ去った。
 その後しばらく続いた暗鬱の時期の後、わたしは「人類愛」の思想をきっぱりと捨て去った。そうして、「確かめ可能」な普遍性を探究する営みとしての、哲学の道に入った。
 しかし、その後も長らく、どうしても分からなかったことがあった。
 わたしにありありと見えていたあの「人類愛」のヴィジョンは、確かにわたしの孤独の苦悩が生み出した幻影だったのだろう。しかしそれでもなお、あの時わたしは、確かに「人類愛」の恍惚を胸一杯に味わっていた。わたしは全人類を愛していると感じていたし、また全人類から愛されていると感じていた。」

・あの「感じ」は、いったい何だったのか?

*「あの「感じ」がわたしにやってきたことそれ自体は、今なお拭い去れない確かな感触だ。
 しかしあれは、本当に「愛」と呼ぶべきものだったのか? そう呼ぶほかにわたしは言葉を見つけられなかったが、しかしあれは本当に「愛」だったのか?
 そうだとするなら、なぜなのか? もしそうでなかったとするなら、いったい全体何だったのか? そして、ではそもそも、「愛」とはいったい、何なのか?」

 **(ウェブサイト「現代新書」〜苫野 一徳「性愛」、「恋愛」、「友愛」、「親子愛」は、まったく違う情念にもかかわらず、なぜどれも「愛」と呼ばれているのか」(2024.06.27)より)

〔『愛』を書くに至った経緯について、刊行当時(2019年)に苫野さんが綴った文章/後半〕

・ほとんどの哲学者が「愛」の解明に失敗した理由

*「拙著『愛』において、わたしはこの問いを徹底的に明らかにし得たと確信している。しかしそこに至るまでの道は、きわめて困難なものだった。
 言うまでもなく、「愛」は哲学史上最も重要なテーマの1つである。多くの哲学者たちが、これまで「愛」の本質解明に挑んできた。
 しかしわたしの考えでは、彼らの試みはそのほとんどが失敗している。
 その最大の理由は、「愛」がきわめて「理念性」の高い概念であることにある。
 単なる「好き」や「性欲」などの一般的な情念は、向こうから「やって来る」もの、あるいは内から「湧き上がって来る」ものである。わたしたちはそれを、ありありとこの胸で味わうことができる。
 それに対して、愛は、一度わたしたちの理性を通して吟味されずにはいられない、きわめて「理念性」の高い概念である。つまり愛は、情念であると同時に1つの理念でもあるのだ。
 愛の「理念性」、それはちょうど、「美」が「きれい」「心地よい」といった感性的な概念を超えた、理念性を帯びた概念であるのと同様である。
 「きれい」や「心地よい」は、肉感的に、五感全体を通してわたしたちに感じられるものである。「きれいな人」や「心地よいソファ」は、わたしたちの感官に快感を与え、ただ楽しませてくれるだけのものにすぎない。
 それに対して、「美しい人」や「美しい家具」といった表現には、ただの快以上のものが含意されている。「正しさ」「よさ」「完全さ」といった、何らかの価値理念が表現されているのだ。
 同様に、わたしたちは「愛」という言葉に何らかの価値理念を感じ取っている。単なる「好き」や「性欲」とは違って、愛には何か「正しいあり方」のようなものがあるのではないかと、つねにどこかで考えているのだ。

・現実にはありもしない「愛」のイメージ

*「それゆえ、一言で「愛」と言った時、わたしたちは、神の愛のような理想理念や、あるいはわたしの「人類愛」のような、世界の一切の矛盾や苦悩を克服しうる絶対調和の理念などをイメージすることがある。
 実際、キリスト教の影響を受けた西洋哲学者たちのほとんどは、「愛」をそのような何らかの理想理念として描き出し、そのいわば現実の姿を解明することに失敗してきたようにわたしには思われる。
 カントが言ったように、わたしたちの理性は究極を推論せずにはいられない本性を持っている。世界の始まりはあるのかないのか。その究極原因を、わたしたちは推論せずにはいられない。神はいるのか、いないのか。
 わたしたちの理性は、こうした世界の根本原因を推論せずにはいられない。そしてそれゆえにこそ、神や世界の始まりなどについて、決して確かめることのできない形而上学的な世界像を思い描くことになるのだ。
 「愛」も同様である。「愛」の概念をわたしたちが獲得して以来、わたしたちの理性は、その究極の姿を推論せずにはいられなかった。そうしていつしか、現実にはありもしない究極的な「愛」のイメージを、さまざまな仕方で思い描くようになったのだ。
 しかし愛の本質を正しく捉えるためには、わたしたちは愛の理想理念に思いをいたすのではなく、この現実の世界、現実の生活において、「このわたし」に確かに味わわれている愛の体験、その理念的情念の本質をこそ洞察しなければならない。そしてその普遍性を、広く問い合わなければならないはずなのだ。

・性愛、恋愛、友愛、親子愛…なぜ、どれも「愛」?

*「本書でわたしは、この「愛」の「理念性」の本質を明らかにした。性愛、恋愛、友愛、親の子に対する愛……。愛にはさまざまな形があるが、これらはいずれも、本来まったく異なったイメージを与えるものである。にもかかわらず、なぜこれらは「愛」の名で呼ばれうるのか?
 それは、そこに「愛」のある「理念性」の本質が通奏低音のように響いているからである。性愛も恋愛も友愛も親の子に対する愛も、その「愛」の通奏低音の上に、それぞれ独自の音色を響かせているのだ。
 あるいはこうも言える。エロティシズム、恋、友情、親の子に対する愛着……。これらは、互いにまったく異なる情念である。
 しかし、これらが「愛」の「理念性」の本質を帯びた情念へと育て上げられた時、わたしたちはそれを、性愛、恋愛、友愛、そして親の子に対する愛と呼ぶことになるのだと。本書の目的は、これら「愛」の名のもとに包摂されるありとあらゆる「愛」の本質を明らかにすることにある。
 その過程で、わたしは、わたしの「人類愛」がいったい何だったのかについても、明らかにすることができるであろう。さらにわたしたちは、「愛」の本質が明らかにされた時、ではそれはいかに可能かもまた、力強く明らかにすることができるようになる。
 「愛」とは何か、そしてそれはいかに可能か? これが、本書でわたしが挑み、そして明らかにした問いである。」

**(苫野一徳『愛』〜「第四章 真の愛」より)

*「「合一感情」と「分離的尊重」の弁証法。すべての「愛」は、この理念的な根本本質を通奏低音とする。逆に言えば、この根本本質を欠いた情念を、わたしたちが「愛」の名で呼ぶことはないのだ。」
「「存在意味の合一」と「絶対分離的尊重」の弁証法。これこそ、〝真の愛〟の正しい本質観取である。」

「もう一点、〝真の愛〟には第二の重要な根本本質がある。

 (・・・)述べてきた弁証法の先にあるもの、すなわち「自己犠牲的献身」である。

 〝真の愛〟には必ず「自己犠牲的献身」がある。わたしは、相手の存在において自身の存在意味を見出し、その上でなお、相手をわたしとは完全に切り離された他者として尊重する。このような弁証法の上に、「愛」における「自己犠牲的献身」ははじめて成り立つ。単なる自己満足に回収されることのない献身。「自己犠牲」という言葉の究極の意味を、わたしたちは「愛」において真に知るのだ。」

「単なる「共感」は、「分離的尊重」も、理念的な「歴史的関係性」も、また〝真の愛〟と比べるならば「自己犠牲的献身」も欠いているのだ。逆に言えば、もしわたしたちの「共感」にこれらの本質が備わっているならば、それはまぎれもなく「愛」である。悩みを打ち明けてきた友人に、わたしが「合一感情」と「分離的尊重」の弁証法や、理念的な「歴史的関係性」を感じているとするならば、わたしはそれを「友愛」の名で呼ぶことを躊躇わないだろう。」

**(苫野一徳『愛』〜「第五章 「愛」はいかに可能かより)

*「〝真の愛〟は、確かに容易に手に入れられるものではない。夫婦愛や友愛は言うまでもなく、親の子に対する愛でさえ、それがどれだけ自然な情であるように見えたとしても、親にその子を愛する準備が整っていなければ不可能である(わが子を所有物としか考えることのできない親を見よ)。

 「人類愛」のような愛に至っては、それはただ理論上可能にすぎないと思われるような愛である。
(・・・)
「存在意味の合一」と「絶対的分離的尊重」の弁証法。そしてその先にある「自己犠牲的献身」。わたしが全人類に対してその揺るがぬ思いを抱くことがあったなら、そしてそれを意志することができていたなら、わたしはそれを、いささかの疑いもなく「人類愛」と呼び得たのではないか?」

「〝真の愛〟。それはいったい、いかに可能なのか?
 ----自分の尻でしっかりと座ること。すなわち、自己不安と、その反動ゆえのナルシシズム----自己価値への過剰執着----を乗り越えること。そして、「意志」を持つこと。わたしはこの人を、わたしとは絶対的に分離された存在として尊重するという、「意志」を持つこと。これらの二つの条件を満たさない限り、わたしが〝真の愛〟を知ることはない。」

「「愛」は意志をもって育て上げるものである。そのことを、今のわたしはよく理解している。〝真の愛〟は、親の子に対する愛のような、必ずしも特別な関係においてのみ成立するわけではないのだ。
 彼岸的な理想では断じてない。奇跡のような至難なものでもない。「愛」は、わたしたちが自分の尻で座り、自らの意志をもって、育てあげていくべきものなのだ。」

**(山口尚『日本哲学の最前線』
   〜「第六章 エゴイズムの乗り越えと愛する意志/苫野一徳『愛』」より)

*「愛には感情的側面がある。とはいえ愛には「試練」なるものが伴わないだろうか。それゆえ愛には主体の意志の努力が関わらないであろうか。愛には(・・・)「行為的な」アスペクトがあるのである。」

*「「人類愛」は無意識的な欲望の産物に過ぎなかった。それゆえこれは————苫野はかつてこれを愛の真実の形態と考えていたが————愛でも何でもなかった・

「「人類愛」が虚構の類だとすれば、真実の愛とはどのようなものか。愛の本質は何か。これが『愛』の議論を導く問いである。

 見逃してはならないのは、この問いに答えようとする苫野が、「人類愛」を全否定していない。という
点だ。」

*「かくして苫野は「真の愛には足りない」事象の分析に取り組むのだが、こうした事象として取り上げられるもののひとつが「友愛」である。」

「友愛は合一と分離という二側面を併せ持つ。それゆえ友愛における合一は分離に媒介されており、友愛における分離は合一に媒介されている。合一しつつ分離しており、分離しつつ合一している————このように〈友愛〉はそれ自体のうちに弁証法的な複層性を内包する概念である。」

*「友愛は愛の一種であるが、真の愛ではない。その理由は《友愛において合一感情と分離的尊重という愛の本質がいずれも極限までは尖らされていない》という点にある。真の愛は一種の極限的事象であり、それゆえに稀であり困難である。ではそれはどのようなものか。はたして苫野は「真の愛」をどのように特徴づけるのか。」

「真の愛の特徴づけはむしろ、愛のふたつの本質的側面のそれぞれをいわば「先鋭化」することによって得られる。すなわち第一に合一感情は、真の愛においては、「存在意味の合一」と呼ばれうるものへ強化される。すなわち、そこでは愛する相手の存在によって自分の存在の意味が充実する、ということだ。かくして真の愛を生きる者は《その相手がいなかったとしたら本当の自分にはなれなかっただろう》とすら考える。」

「そして第二に分離的尊重は、真の愛においては、「絶対分離的尊重」と呼ばれうるものに高まる。(・・・)愛する者はその相手を一切の押しつけなしにありのままで受容するのである。」

*「苫野によれば、真の愛は〈存在意味の合一〉と〈絶対分離的尊重〉の弁証法的統一なのだが、それゆえにそれは「自己犠牲的献身」の様相を呈する。なぜなら、自らの存在の意味を形作るような相手の自律を絶対的に尊重するとき、ひとは一切の保身なしにその相手へ自己のすべてを捧げるからだ。

 かくして苫野は、弁証法的思索を経て、真の愛を「自己犠牲的献身」で特徴づける。」

「真の愛における献身には見返りの期待がない。いや、正確に言えば。相手の存在それ自体が余りある「見返り」になっている。苫野はこれを「単なる自己満足に回収されることのない献身」とも表現する・真の愛において、愛する者は一切を捧げるのだが、相手の存在はそれだけで当人の生を満ち足りたものにする。かくして真の愛においてひとは、すべてを捨てながら、すべてを得る。」

*「苫野の思想はいわば〈自由への誘い〉も含む。真の愛において、愛する者は相手の存在によって自分が今此処にいる意味を見たし、それによって本当の自分に成る。それゆえ自己犠牲的献身は決してたんなる自己否定に尽きない。そこには自己肯定の側面がある。より正確には〈自分への拘りから離れることによってよりいっそう自分らしくなる〉という弁証法的連関がある。したがって真の愛はひとを自由にすると言える。なぜなら〈本当の自分に成ること〉は「自由」という語が表現しうる深い事柄のひとつだからだ。」

**(西田幾多郎『善の研究』〜「第4編 宗教 第五章 知と愛」より)

*「知と愛とは普通には全然相異なった精神作用であると考えられている。しかし余はこの二つの精神作用は決して別種の者ではなく、本来同一の精神作用であると考える。然らば如何なる精神作用であるか、一言にていえば主客合一の作用である。我が物に一致する作用である。何故に知は主客合一であるか。我々が物の真相を知るというのは、自己の妄想臆断即ちいわゆる主観的の者を消磨し尽して物の真相に一致した時、即ち純客観に一致した時始めてこれを能よくするのである。たとえば明月の薄黒い処のあるは兎が餅を搗いているのであるとか、地震は地下の大鯰が動くのであるとかいうのは主観的妄想である。然るに我々は天文、地質の学において全然かかる主観的妄想を棄て、純客観的なる自然法則に従うて考究し、ここに始めてこれらの現象の真相に到達することができるのである。我々は客観的になればなるだけ益々能く物の真相を知ることができる。数千年来の学問進歩の歴史は我々人間が主観を棄て客観に従い来った道筋を示した者である。次に何故に愛は主客合一であるかを話して見よう。我々が物を愛するというのは、自己をすてて他に一致するの謂である。自他合一、その間一点の間隙なくして始めて真の愛情が起るのである。我々が花を愛するのは自分が花と一致するのである。月を愛するのは月に一致するのである。親が子となり子が親となりここに始めて親子の愛情が起るのである。親が子となるが故に子の一利一害は己の利害のように感ぜられ、子が親となるが故に親の一喜一憂は己の一喜一憂の如くに感ぜられるのである。我々が自己の私を棄てて純客観的即ち無私となればなる程愛は大きくなり深くなる。親子夫妻の愛より朋友の愛に進み、朋友の愛より人類の愛にすすむ。仏陀の愛は禽獣草木にまでも及んだのである。

 斯かくの如く知と愛とは同一の精神作用である。それで物を知るにはこれを愛せねばならず、物を愛するのはこれを知らねばならぬ。数学者は自己を棄てて数理を愛し数理其者と一致するが故に、能く数理を明にすることができるのである。美術家は能く自然を愛し、自然に一致し、自己を自然の中に没することに由りて甫めて自然の真を看破し得るのである。また一方より考えて見れば、我はわが友を知るが故にこれを愛するのである。境遇を同じうし思想趣味を同じうし、相理会するいよいよ深ければ深い程同情は益々濃かになる訳である。しかし愛は知の結果、知は愛の結果というように、この両作用を分けて考えては未だ愛と知の真相を得た者ではない。知は愛、愛は知である。たとえば我々が自己の好む所に熱中する時は殆ど無意識である。自己を忘れ、ただ自己以上の不可思議力が独り堂々として働いている。この時が主もなく客もなく、真の主客合一である。この時が知即愛、愛即知である。数理の妙に心を奪われ寝食を忘れてこれに耽ける時、我は数理を知ると共にこれを愛しつつあるのである。また我々が他人の喜憂に対して、全く自他の区別がなく、他人の感ずる所を直ただちに自己に感じ、共に笑い共に泣く、この時我は他人を愛しまたこれを知りつつあるのである。愛は他人の感情を直覚するのである。池に陥らんとする幼児を救うに当りては、可愛いという考すら起る余裕もない。

 普通には愛は感情であって純粋なる知識と区別されねばならぬという。しかし事実上の精神現象には純知識という者もなければ純感情という者もない。斯の如き区別は心理学者が学問上便宜の為に作った抽象的概念にすぎない。学理の研究が一種の感情に由って維持せられねばならぬように、他を愛するには一種の直覚が基とならねばならぬ。余の考を以て見ると、普通の知とは非人格的対象の知識である。たとい対象が人格的であっても、これを非人格的として見た時の知識である。これに反し、愛とは人格的対象の知識である、たとい対象が非人格的であってもこれを人格的として見た時の知識である。両者の差は精神作用その者にあるのではなく、むしろ対象の種類に由るといってよろしい。而して古来幾多の学者哲人のいったように、宇宙実在の本体は人格的の者であるとすると、愛は実在の本体を捕捉する力である。物の最も深き知識である。分析推論の知識は物の表面的知識であって実在その者を捕捉することはできぬ。我々はただ愛に由りてのみこれに達することができる。愛は知の極点である。

 以上少しく知と愛との関係を述べた所で、今これを宗教上の事に当てはめて考えて見よう。主観は自力である、客観は他力である。我々が物を知り物を愛すというのは自力をすてて他力の信心に入る謂いいである。人間一生の仕事が知と愛との外にないものとすれば、我々は日々に他力信心の上に働いているのである。学問も道徳も皆仏陀の光明であり、宗教という者はこの作用の極致である。学問や道徳は個々の差別的現象の上にこの他力の光明に浴するのであるが、宗教は宇宙全体の上において絶対無限の仏陀その者に接するのである。
「父よ、もしみこころにかなはばこの杯を我より離したまへ、されど我が意のままをなすにあらず、唯みこころのままになしたまへ」とか、「念仏はまことに浄土にむまるるたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じてもて存知せざるなり」とかいう語が宗教の極意である。而してこの絶対無限の仏もしくは神を知るのはただこれを愛するに因りて能くするのである、これを愛するが即ちこれを知るである。印度のヴェーダ教や新プラトー学派や仏教の聖道門はこれを知るといい、基督教や浄土宗はこれを愛すといいまたはこれに依るという。各自その特色はないではないがその本質においては同一である。神は分析や推論に由りて知り得べき者でない。実在の本質が人格的の者であるとすれば、神は最人格的なる者である。我々が神を知るのはただ愛または信の直覚に由りて知り得るのである。故に我は神を知らず我ただ神を愛すまたはこれを信ずという者は、最も能く神を知りおる者である。」

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