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稲垣諭「連載「くぐり抜け」の哲学 9.「人間のふるさと」へ向かって」(群像 2023年 06 月号)/坂口安吾『堕落論』

☆mediopos-3106  2023.5.20

「人間のふるさと」は
どこにあるのだろう

ここでいう「ふるさと」は
ふつうイメージされるような
わたしたちを抱擁してくれるような
大地性のそれではない

坂口安吾が「堕落論」で説くような
むしろ「堕ちること」で
そこに根を下ろすような
モラルや社会性から離れたそれである

私たちはそうした「ふるさと」へと
帰ることを怖れるがゆえに
モラルや社会性そして規則に「安心」
いってみれば「救い」を求めるようになる

ある意味で必然的ともいえる
現代の「管理社会化」も
そうした「安心」「救い」を
求めることの極北にあるといえる

それは「プレイ」を怖れるがゆえに
「ゲーム」を求めることである

「ゲーム」には「規則」が必須であるが
「プレイ」にそれが必要ではないということではない
「プレイは、規則や社会的な有意義から外れたところで
「何かが起こる」という出来事性からな」り
「究極なまでの自己目的的行動」であり
「規則を翻弄しながら新しい規則を生みだすことさえ
プレイの特性」でもあるが
「その規則がプレイを縛るようになるとゲームに近くなる」

本論考ではそうした「プレイ」に関わるものとして
ヴァレリーの「踊るクラゲ」
バタイユの「至高性が生じる場所」
そして安吾の「ふるさと」が示唆されている

安吾の示唆している「ふるさと」は
「常人には受け入れがたい残酷な「ふるさと」であり
それは「常人には受け入れがたい
残酷な」ものであるがゆえに
ひとは「あまりにも簡単にそこから目を逸らし、
忘れてしまう」「弱さ」へと逃れてしまう

その「弱さ」ゆえに
「安心」「救い」を求めるからである
そしてそのためにさまざまな「規則」がつくられ
それに従うことを
モラルや社会性として受容するようになる

昨日とりあげたヤマザキマリの
『人類三千年の幸福論』においても
「想像力をすり減らす同調圧力」が
日本だけではなく
ヨーロッパにもそういう現象が
見られるようになっているという話があったが

本論で稲垣諭が苦手としてきている「予約文化」も
そうした与えられた「安心」のもとで生きるための
「モラル」であり「社会性」だといえる

そうした「安心」から
解き放たれてしまうという「怖れ」ゆえに
そうした「管理社会化」へと
わたしたちは歩んでいかざるをえないところがある

ある特定のテーマにおいて
「管理社会化」に批判的であったとしても
その批判的であるそのことそのものが
さらなる「管理社会化」を
促進してしまうことにもなってしまう

そんななかで大切なのは
ゲーム化へと向かいすぎることに意識的になり
「プレイ」という「ふるさとを忘れないこと、
ふるさとから目を離さず」にいることだろう

そうでなければ
規則は規則のための規則
モラルはモラルのためのモラル
社会性は社会性のための社会性となり
私たちの「生」は
ただ「ゲーム」を演じるだけのものとなってしまう

■稲垣諭「連載「くぐり抜け」の哲学 9.「人間のふるさと」へ向かって」
 (群像 2023年 06 月号)
■坂口安吾『堕落論』(角川文庫 昭和五十六年七月)

(稲垣諭「連載「くぐり抜け」の哲学 9.「人間のふるさと」へ向かって」より)

「予約文化はとどまることを知らない。旅行からレストラン、居酒屋、歯医者、美容室などなど、予約を行ってからその場所へと向かう。郵便局や銀行でも整理番号をもらって順番を待つ。これはもう当たり前の風景である。」

「私はこの予約というのが、物心ついてからずっと苦手である。予約という行為も、予約をしてしまった後の心持ちもすこぶる苦手である。心がギュッとしぼられる感じがする。どうして予約なんかしてしまったのだろう、と後悔し、落ち込むこともよくある。これとは逆に、スケジュールが予定で埋まらないほうが不安だという話はしばしば聞く。これも分からなくはない、暇が怖いからである。しかし、では、自分の場合のこのメンタリティ、これがいったい何に由来するのか、いまだによく分からない。」

「むしろ人々は自ら進んで、規則や未来の時間に積極的に縛られようとする。理由は明白である。「遊び=プレイ」が怖いからである。」

(稲垣諭「連載「くぐり抜け」の哲学 9.「人間のふるさと」へ向かって」〜「1.プレイは定義できるか」より)

「前回は、人類学者のD・グレーバーによる「ゲーム」の定義を用いて、人々がどうして「ゲーム」を愛するのか、その誘惑がどこにあるのかを論じた。今回は、その裏にある「プレイ」の側かえあ思考を進めてみる。グレーバーが指摘していたように、そもそも人はなぜプレイを怖れるのか。むしろ多くの人々が同意するのは、たとえば子どもにとって遊びの経験は発達的に重要だし、遊びには「創造性」の鍵も含まれているということだろう。プレイの恐ろしさはどこにあるのか。
「プレイ」をそれ自体として定義してみようとすると、非常に困難であることが分かってくる。その理由のひとつは「ゲーム」との差異が不明瞭だからである。したがって「ゲーム」との対比を際立てながらプレイの実像を押さえていく方法がベターとなる。
 まずプレイには、ゲームにとって必須の規則が存在しなくてもよい。「プレイには原則、規則は必要ではない」というメタ規則があるわけでもない。むしろプレイは、規則や社会的な有意義から外れたところで「何かが起こる」という出来事性からなる。そしてそこから人は快楽を積極的に得るのだ。
 そもそも人は遊びたくなるから遊ぶのであって、もし何か別のことを目的として遊んだり、遊びが規則的になったりする場合、その純粋さ、本義は失われる。プレイは究極なまでの自己目的的行動である。規則を翻弄しながら新しい規則を生みだすことさえプレイの特性であり、逆にその規則がプレイを縛るようになるとゲームに近くなる。」

「この恣意性と、いつ、そして、何が起こるか分からない不確定性から、遊びを自由や自律、主体性へと結び付けることもできる。遊びは偶然の「余白(play)」から生じ、遊動空間の「余地(pkay)」に糧を与え、生真面目で融通の利かないお堅い世界とは異なる、ゆるんだ現実があることを私たちに垣間見せる。
 本連載において、このプレイにかかわる議論に私たちはすでに何度か出会っている。それは、詩人のヴァレリーが見た「踊るクラゲ」としてであり、哲学者のバタイユによって至高性が生じる場所のひとつとしてである。
 プレイは芸術性や創造性の溢れる場所であり、ヴァレリーにとってそれは、「それ自体が目的となるダンスの生成」であったし、バタイユにとってそれは「未来から私たちを搾取してくる労働からの離脱」であった。どちらもそのような至高な体験に貫かれ、それを夢見ていた。その体験とは、後先を考えることから切り離された、現在の瞬間に特化した特別なものである。」

(稲垣諭「連載「くぐり抜け」の哲学 9.「人間のふるさと」へ向かって」〜「2.自然はプレイする」より)

「どうして私たちがプレイを怖れるのか、その理由は、プレイのこうした恣意的な暴力性とその暴走を、プレイそのものによって抑制することが困難であることを私たちが深く自覚しているからである。
 だから私たちはゲームを愛することでプレイを囲い込み、プレイをゲームへと吸収する。それは、獰猛なオオカミが長い時間を経て豆柴になったように、プレイを家畜や伴侶動物のように飼い慣らすことでもある(プレイの家畜化)。ゲームを壊さない範囲でのプレイ、つまり「ゲーム内プレイ」だけを許容していくような社会の方向性である。予約文化も含め、私たちは間違いなく、そうした世界に向かっている。
 しかしそれはどこまで可能で、そこに別種の問題はないのだろうか(いずれ私たちは、プレイ的暴力とゲーム的暴力の差異を見つめなければならなくなるだろう)。

(稲垣諭「連載「くぐり抜け」の哲学 9.「人間のふるさと」へ向かって」〜「4.これが人間のふるさとなのか」より)

「大地から根が離れ、くらげのように浮遊した生は、突き放されることで再度、「大地に根の降りた生活」となる。このことはそのまま、「堕落論」における「堕ちること」のプロセスとも重なり合っている。大地を離れて浮遊した生活を送る人間は、堕ちることでふるさとを知るのである。安吾は、プレイの大地に根を下ろすことなしには、どのようなモラルも社会も信用に値しない、そう考えている。

  モラルがないこと、突き放すこと、私はこれを文学の否定的な態度だとは思いません。むしろ、文学の建設的なもの、モラルとか社会性というようなものは、この「ふるさと」の上に立たなければならないものだと思うものです。

 安吾はこの「ふるさと」を「宝石の冷たさのようなもの」であり、「生存それ自体が孕んでいる絶対の孤独」であるとも述べる。私たちが突き放されてしまうとき、この「私たち」という連帯はほどけ、一個の世界とそこに居合わせる「私」の二つしかなくなってしまう。言葉も行為も失って個であることが、ナイフの切っ先のような鋭さで突き付けられる。(・・・)どのような救いも、モラルも、規則もないまま、プレイに翻弄された実存の孤独である。
 そこに身を浸しきったときに私たちは、自らの「ふるさと」に触れるのだと安吾はいう。このふるさとは明らかに一般的に理解されるふるさとではなく、異様なほど非−ふるさと的な何かである。にもかかわらず、この「非−ふるさと」こそが「ふるさと」であると、安吾はアクロバティックに矛盾するレトリックを用いて主張する。

(・・・)

 モラルがないことがモラルであり、救いがないことが救いであるとの表現を安吾は何度も用いている。このふるさとは予約をしてから帰るような場所ではありえない。それは「宿命などというものよりも、もっと重たい感じのする、のっぴきならぬもの」であり、「我々の生きる道にはどうしてもそのようでなければならぬ崖があって、そこでは、モラルがない、ということ自体が、モラル」なのだから。」

「ふるさとに戻ること、帰ることは大人がすべき仕事ではない。大切なのは、このふるさとを忘れないこと、ふるさとから目を離さず、ふるさとの紐帯を手放さないことである。その逆に、安吾が恐れるのは、人間があまりにも簡単にそこから目を逸らし、忘れてしまうことにあるのかもしれない。いや、恐れというのとは違う。そうではなく、常人には受け入れがたい残酷な「ふるさと」を「氷を抱きしめたような、切ない悲しさ、美しさ」として回収できてしまう安吾の「強さ」に対置される人間全般の「弱さ」の冷徹な眼差しである。」

「ここから問われるべきものは、二つである。
 バタイユや安吾には具わっているように見える至高な体験に耐える「強さ」が何に由来していたのかと、それに対して堕ちぬくことのできない「弱さ」をかかえた人々がどこに向かうのかである。この二つの問いが指し示しているのはやはり、ゲームがプレイを凌駕していく社会に他ならない。」

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