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『文学ムック ことばとvol.3 ことばと音楽』

☆mediopos-2361  2021.5.4

mediopos-2358(2021.5.1)で
大江千里が「歌詞とメロディの同時作曲法」を
作曲法として見出していることについて言及したが

それはつまり歌詞とメロディが
響きあい通じ合っているところで
音楽が生まれているということなのだろう
逆に言えばそうでない音楽は
どこかでなにかが不全なままつくられている

佐々木敦による雑誌『ことばと』のvol.3では
「ことばと音楽」という特集が組まれているが
佐々木敦が特集の最初に編集長として
「私は現在、巷を賑わしているポップソングの
歌詞の多くに、正直いえば、飽いている」
そう言っているのは
そうした不全を感じているということなのだろう
とくにメロディ先行で歌詞が無理につけられ
「言葉という要素が大切にされていない」ということ

そうした実感からこの特集では
「自分が信頼しているミュージシャンたちに」
「歌詞(だけ書いてください)」
というオファーを出し
素晴らしい「「歌詞」たち」が届けられている

そのオファーに応えたのは次のミュージシャンである

イ・ラン「私はある女の生き様を想像してみる」
(カン・バンファ訳)
澁谷浩次(yumbo)「歌の終わり」
七尾旅人「元日の横須賀」
崎山蒼志「時間」
野口順哉(空間現代)「符牒」
寺尾紗穂「香水」
諭吉佳作/men「から」
豊田道倫「海の街へ」
さや(テニスコーツ)「その夢のなか」
小島ケイタニーラブ「帰ってきたシーラカンス」
山本精一「二度寝の子守唄」
澤部渡(スカート)「私が夢かたさめたら」
蓮沼執太「フェイシズ」

まだそこには旋律は不在だが
これらの「ことば」から旋律が響いてくるとき
そこに「届く」音楽は生まれてくるのだろう

さて「YouTubeが普通」になって
「サブスクリプションや動画サイトとかをフルに活用したら」
過去の音楽データがほぼほぼ全て
聴くことのできる時代になっている現代
そこからどんな新しい音楽が生まれ得るのだろうか

聴くことができる
というとき
だれでもそれが可能ということではない
それは聴くための環境というよりは
結局のところその能動性において
それを活用し得る能力によって
まったく異なってくるということでもある

実際のところ音楽マーケットは
同じような音楽が繰り返し消費されてゆくようなところに
収斂されてゆく傾向があるようだ
そしてむしろ「マイナーなものや新しいものは
以前よりも厳しい位置に置かれている」

こうした状況は音楽だけにかぎらない
情報を得る可能性は
かつてより飛躍的に増大したが
生きた活用のできる能力については
それに対応しているとはいえないということだ

いわゆる民主主義なるものが機能不全になるのも
管理社会がますます強化されるのも
多様な情報を読み取り活用しえるリテラシーや
そこからあらたなものを生み出しえる力を
育てることは難しいということでもある

アーカイブはそのデータ量が多かろうか少なかろうが
アーカイブでしかない
それはそのままでは死んでいる
アーカイブから引き出されたたデータの一部だけが
繰り返しオウム機械のようにループされていても
そこには何も生まれることはない
間に合わせのような恣意的なデータの組みあわせで
何か新たな認識が生まれることもない

そこにあらたな
生きた「ことばと」ともに
歩む人がいなければ
どんな情報も意味を持つことはない

ここでテーマとなっている「ことばと音楽」では
ことばから音楽を音楽からことばを
生み育てられる力がなけれならないということなのだろう

閉塞的にもみえる現代に
そんな可能性の光が見いだせますように

■『文学ムック ことばとvol.3 ことばと音楽』
 (書肆侃侃房 2021.4)

(佐々木敦「まだ言葉だけのうた」)

「まだメロディが、節がつけられていない、つまり「曲」になる以前の、というか「曲」になるのかどうかもわからない、しかし「詩」ではなく「歌詞」を、これと思った音楽家たちに依頼してみよう。
 通常、歌詞とサウンドという大きく2つの要素から成っている「歌曲」は、メロディ先行型、歌詞先行型、同時進行型、があり得るわけだが、かつてポピュラー音楽のミュージシャンへの取材が仕事の中で大きなウェイトを占めていた頃、よく、あなたの場合はどれですか、と質問してみていた。あくまでも私が聞いた限りでは、ということではあるが、圧倒的にメロディ先行が多く、歌詞先行は(アイドルソングなど職業作家の分業ではしばしばあるようだが)あまりなく、同時進行は意外なほど多かった。なるほど面白いなあ、と思ったものである。
 歌詞(だけ書いてください)、という不思議なオファーを受けた、今回、参加してくださった音楽家の皆さんは、まだ節のない、もしかしたら永久にメロディが付かないかもしれない歌詞を綴りながら、頭のなかでメロディを鳴らしていただろうか? 勝手に鳴ってしまったりするものなのだろうか? ポエムとリリックは、どこがどう違うのか? そもそも両者に違いはあるのだろうか? 頼んだ私は勝手にあれこれ想像しつつ、節のない歌詞が届くのを待っていた。
 もうひとつ、私は現在、巷を賑わしているポップソングの歌詞の多くに、正直いえば、飽いている。どうしてそうなったのかはわからないが(本当はわからなくもないのだが。長くなるのでわからないことにしておく)、街に出ると自然に耳に入ってくるヒット曲のほとんどにおいて、言葉という要素が大切にされていないと思えてならない。それはお前が年を取ったからだ、と誹られてしまうかもしれないが、語彙も表現も、シンプルといえば聞こえは良いが、要するに貧しく単純に過ぎると思ってしまう。だから、歌詞という言葉による営み/試みを、自分が信頼しているミュージシャンたちに、いまいちど賦活してもらえたら、と思ったのだ。
 そして届いた「歌詞」たちは、いずれもほんとうに素晴らしかった。
 ぜひ、(まだ)不在の節を、旋律を、音を、どこかで意識しながら、紡がれたことばを読んで欲しい。」

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(対談「佐藤良明×細馬宏通/言葉と音楽、そのしくみをめぐって(司会 佐々木敦)」より)

「細馬/まず僕が今のポップスについていけてないんです。だからそんなに・・・・・・たぶんとんがった人はたくさんいるはずなんだけど、フォローできていないだけだと思う。たまに「ちょっとこの曲いいな」と思ってよくよく聴いてみると素晴らしいものもあるんですよね。たとえば一昨年か昨年か、たまたまアンジュルムのある曲が耳について「アンジュルムってすごい変わった歌詞を歌ってるな、というかこの歌詞書いたやつ誰?」って思ったら児玉雨子という人で。その彼女は近田春夫のアルバムに五,六曲書き下ろしていて「あ、近田さん、これに反応したんだ」と思って僕はすごい感激したんです。また近田春夫に書いた曲が超いい曲が多いんです。そういう人はポコポコ現れるので。
佐々木/児玉雨子さんはまだ二十代ですからね。
細馬/なのかな。僕は全然プロフィールを知らないの。でもそういう人たちが現れているうちは、なんだかんだいっても面白いことは起こり続けているんだろうな、と。要は、世の中がというより僕のアクセス能力が二十歳のときや三十歳のときの感じじゃないので、わかっていないだけであって。
佐々木/それはここにいる三人ともそうかも(笑)。
細馬/だって、今たとえば紅白とかミュージックステーションで普通に流れている曲を小学生で聴いている子たちがこれから音楽を作っていくわけでしょう。だからもう基礎教養が全然違うなという感じはしまう。これぐらいのクオリティのものをずっと聴き続けていて、その先にまた全然別のことを考えるわけだから、変な人がまた現れるだろうなという気はしています。」

「佐藤/やっぱりこれは歴史が変わったんでしょうね。歴史が消失したともいえます。YouTubeが普通になっちゃって、それが決定打だとは思いますけれども、あらゆるコンテンツに時間差なくアクセスできてしまう世の中になった。これじゃ。時代が前に進みようがないですよ。少なくとも文化が時代をきりひらくには無理です。九〇年代にインターネットが拡がったのが、ベルリンの壁は崩れて、ソ連もなくなって、ポップの原理に基づくグローバル経済になって、政府からなにから「クール」なコンテンツ作りに励むみたいな。これでは、マス・マーケットに良質なポップが並ぶはずがない。でも一方で、個人個人は自由に力を伸ばすことができて、たとえば中学生の天才ギタリストが現れたり、一人でホテル・カリフォルニアの全楽器を演奏しちゃう中国の幼い少女がYouTubeで話題になったりするみたいなことは、ごく普通に起きるようになった。ただ、そういう個別な傑出した技術が、世代を先に進めるかというとね、それはちょっと否定てきです。」

「佐々木/混合しているのが浮遊、みたいなことの中から、個人の天才というか、新たな才能はもちろん出てくると思います。
佐藤/一方で新たな階級差が生まれてきている状況にも目を向けないとまずいでしょう。何にでもアクセスして、黒人のことでも何でも情報を集めて自分の中で組織できる能力を育んでいける人と、そうではなく、情報化社会の中で暗黒の中に落とされてしまうような人とが分かれてきますよね。
(・・・)
佐々木/ボブ・ディランを全然聴いたことがなかった若者が「ディランもちょっといいなあ」とおもったら、今ではサブスクリプションや動画サイトとかをフルに活用したらほぼほぼ全部聴けちゃうわけですよね。その気になれば、ちょっと前まで全く知らなかったミュージシャンや音楽に関して、わずかな時間でほぼすべてを把握できる時代になっている、それ自体はすごくいいことで、音楽なら音楽の歴史へのアクセシビリティが増すことによって、それを能動的に活用することかた自分自身の表現を生み出したり、自分の音楽の趣味性を広げることが出来た人は過去にもたくさんいた。今はそういうことは昔よりもはるかに容易になっている。つまり、いろんな音楽が大量に聴けるようになった。でも、実態としてはそういう方向よりも、むしろサブスクとかは人気のある曲が何ヶ月も何年もずっと再生され続けていて、マイナーなものや新しいものは以前よりも厳しい位置に置かれているという現実がある。これは日本だけでなくアメリカでも起きている。世界中で起こっている現象で、ユーザーに能動性がないと同じ曲で別にかまわないことになってしまう。僕なんかは売れない音楽レーベルを長年やっているので、よけいに何といいますか・・・・・・(苦笑)。つまり健全な欲望や動機を持った音楽リスナーを形成しないと、かつてのようになんとなくいろんな音楽を聴いているということが普通ではなくなってしまったので、そこをどうすればいいのかというのは考えてもなかなか答えが出ない。聴こうと思えば何でも聴けるから何も聴かない、という現実にどう抗うか。
佐藤/やっぱりアクセス数で宣伝利益が出てお金が動いちゃうと、どうしても決まったものだけで商売ができて、それは音楽業界の人たちにとっても面白くないはずなんだけど、経済を回すにはそれでいくしかないみたいな。」

「佐藤/時代が過ぎゆかなくなった時代に、いつでもふわっとそこにあるコンテンツを、正しく文脈づけるようないい言葉が、音楽を包んでいってほしいなと思いますね。言葉の果たす役割は、いまとても大きいと思います。まさに「ことばと」の時代ですね。」

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