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森達也『虐殺のスイッチ/一人すら殺せない人が、なぜ多くの人を殺せるのか?』

☆mediopos-3175  2023.7.28

なぜ悲劇は繰り返されるのか

ナチスのホロコースト
クメール・ルージュの大量殺戮
関東大震災の朝鮮人虐殺
インドネシア政権による虐殺
ルワンダ・フツ族のツチ族虐殺

それらは残虐な極悪人の仕業で
そうした悪人たちがいなければ
起きなかったことなのだろうか

森達也は集団と同調圧力によって
普通の善良な市民が
同じように普通の人を簡単に殺すのだという

そのことを本書の副題
「一人すら殺せない人が、なぜ多くの人を殺せるのか」
あるいは本書なかで
「なぜ人は優しいままで人を大量に殺せるのか」
という問いで表現している

森達也のその問いの出発点は
オウム真理教の信者達のドキュメンタリーの取材だった
そして信者たちの「屈託のない彼らの笑顔と
穏やかな応対に出会って混乱」する
そして問い煩悶する
「なぜこれほどに純朴で穏やかな人たちが、
多くの人を殺そうとしたのか。殺したのか」と

地下鉄サリン事件の際
森達也以外にも多くのメディア関係者が
そうした信者たちに接し驚いていたはずだが
メディアはいっせいに
「凶暴凶悪だから人を殺したという単純な構図に
オウム事件を押し込めた。
確かにそれはわかりやすい。でも事実とは違う」という

事件とその責任については追及しなければならないが
そこで問い報道しなければならなかったのは
その矛盾とも思えるなかで見えてくる
私たちずべてにかかわってくるものだったはずである

「凶悪で残虐な人たちが善良な人たちを殺すのではない。
普通の人が普通の人を殺す」という
現実を見据えなければならない

しかしメディアやその報道を信じた人たちは
被害者あるいは被害者になりかねない多くの善人と
「凶悪で残虐な人たち」という図式でしか
それを理解し報道しようとはしなかった

本書で示唆されているように

「虐殺に加担する男や女たちは常に集団だ。
個人ではない。集団だからこそ主語が変わる。
一人称単数である「私」や「僕」が、
「我々」とか「我が党」とか
「我が国家」などに肥大する。」

「私」という「個人」ではなく
権威ある「組織」「集団」が主語となっているので
そこに「加害」の意識はない
それを行っているときはむしろ
「正義」からそれをおこなっている

こうしたことを自覚しないままでいると
同様なことは何度でも起こる

森達也も本書でこう述べているように
「断言しよう。ならば僕たちは、同じことを繰り返す。」

まさに「同じこと」は
現在進行形で起こっている

少し前までは「陰謀論」としか形容されず
メディアでもほとんど意図的に
報道規制が続いていたコロナワクチンの薬害だが
(いまだにデータの隠蔽や検閲も続いているが)

ようやく日本国内でも
日本医師会がそのデメリットを否応なく認め始め
メディアも少しずつ報道規制を解除しはじめている

ワクチン接種による死者や副作用による重症患者
そしてその影響としか想定され得ないだろう超過死亡者数も
想像を絶した数となっている
(それを「人口減少社会」という言葉にすり替えながら)

この影響は地下鉄サリン事件など
霞んでしまうほどのものであるにもかかわらず
いまだだれも加害責任を負おうとはしていないどころか
論点や責任主体のすり替えなどが起ころうとしている
そこでも責任主体は権威ある集団だからだ
しかも巨大な利権がそこには存在している

まさにそこでは
「なぜ人は優しいままで人を大量に殺せるのか」
なぜ「普通の人が普通の人を殺す」のか
という問いが叫ばれなければならないはずで

ワクチン接種に積極的に関わった
医療関係者を含む「善良な市民」や
接種を推進したひとたちは
それらの薬害の責任を
アイヒマンのように負う必要はないだろうか

アイヒマンはイスラエル警察の取り調べの際に
「私の罪は従順だったことだ」といったそうだが

ハンナ・アレントは
アイヒマンが罪を負うべき「唯一の理由」を
「多くの人の殺害に関与したから」でも
「残虐」さでもなく
組織に「従属して指示に従ったこと」だとしている
つまりアイヒマンの官僚としての「凡庸さ」

「僕たちは、同じことを繰り返す。」

ならばせめて
これから同じことを繰り返さないために
「従順」に従うのではなく
問いつづけなければならないのではないか

■森達也『虐殺のスイッチ/
     一人すら殺せない人が、なぜ多くの人を殺せるのか?』
 (ちくま文庫 筑摩書房 2023/7)

(「まえがき」より)

「地下鉄サリン事件が発生した一九九五年三月二〇日以降、日本社会はパニック状態になった。

(・・・)

 この時期に僕はテレビディレクターだった。信者たちを被写体にするテレビドキュメンタリーを企ててオウム施設内に入ったとき、屈託のない彼らの笑顔と穏やかな応対に出会って混乱した。邪悪で凶暴などの要素は欠片もない。だから撮りながら考え続けた。なぜこれほどに純朴で穏やかな人たちが、多くの人を殺そうとしたのか。殺したのか。

 もちろん僕以外にも記者やディレクターなど多くのメディア関係者が、このときはオウム信者に接していた。彼らも驚いたはずだ。でもその後も記事や番組など彼らのアウトプットは変わらない。凶暴で冷酷な集団であることは前提のままだ。なぜなら社会がその情報を求めているからだ、メディアはこれに抗わない。もしもこの時期にオウム信者一人ひとりは善良で穏やかですなどとアナウンスしたり記事に書いたりしたら、そのテレビ局や新聞社はオウムを擁護するのかと罵声と批判の集中砲火を浴びていただろう。視聴率や部数は急激に下落するし、スポンサーは降りるかもしれない。会社としてメリットは何一つないのだ。

 ならばなぜ僕はこの回路から離脱できたのか。

 その理由のひとつは、オウム信者たちを被写体にしたドキュメンタリーを長期にわたって撮り続けたこと。結果としてはこの時期、僕以外にドキュメンタリーという発想をした人はいなかった。そしてもうひとつの理由は、撮影開始直後に番組製作会社から解雇されて一人になったことだ。

 信者たちが居住するオウム施設内でカメラを手に一人うろついているのだから。一般市民とは言いがたい。でもメディアにも居場所はない。もちろんオウムに入信することもありえない。

 後ろ盾がまったくない。仲間もいない。徹底的に一人だった。施設内でカメラを回しながら、自問自答の時間が続く。その守護は常に一人称単数だ。テレビがナレーションなどでよく使う「我々」ではない。だから述語が変わる。変わった述語が自分にフィードバックする。視点が変わる。ならば世界は変わる。これまで見えなかった景色が見えてくる。」

「なぜ人は優しいままで人を大量に殺せるのか。

 結果として社会とメディアは、この煩悶を選択しなかった。凶暴凶悪だから人を殺したという単純な構図にオウム事件を押し込めた。確かにそれはわかりやすい。でも事実とは違う。」

「何度でも書く。凶悪で残虐な人たちが善良な人たちを殺すのではない。普通の人が普通の人を殺すのだ。世界はそんな歴史に溢れている。ならば知らなくてはならない。その理由とメカニズムについて。スイッチの機序について。学んで記憶しなくてはならない。そんな事態を何度も起こさないために。」

(「5 人を殺してはいけない理由などない」より)

「日本人は組織と相性がよい。言い換えれば個が弱い。だから組織に馴染みやすい。周囲と協調することが得意だ。悪く言えば機械の部品になりやすい。だからこそ組織の命令に従うことに対し、個による摩擦が働かない。」

「人は社会的な生きものだ。組織に帰属しなければ生きていけない。だから組織そのものを否定するつもりはない。けれども組織にはリスクがある。後から考えればありえない方向に暴走する。理性や論理を失う。そして組織の失敗は個人の過ちとは規模が違う。多くの人が害される。

 組織の過ちは世界中にある。過去にもあるし今もある。そして組織の一部になりやすい日本人は、組織の一部になることの危険性とリスクが身に染みていない。だからこそ多くの日本兵は壊れづらい。内省しない。自分の加害を記憶しない。組織に帰属しやすい自分への意識が薄い。組織の危うさを実感していない。しっかりと振り返って自分たちの過ちを見つめていない。都合の悪い歴史から目を逸らしている。

 断言しよう。ならば僕たちは、同じことを繰り返す。」

(「8 集団と忖度 虐殺の核にあるもの」より)

「加害の記憶は薄くなる。思い出したくないかた。できることなら忘れたいかた。そして人は、忘れたい過去を実際に(すべてではないが)忘れることができる。あるいは記憶を微妙に変える。修正する。さらには、自分自身が変えたことや修正したことを忘れてしまう。

 加害の記憶を忘却するメカニズムはもう一つある。加害の渦中で思考は止まる。なぜなら戦争や虐殺に加担するとき、人は個人ではない。集団や組織の一部だ。自分自身を主語にしない。主語は組織や集団だ。だから個人的な体験を記憶できない。記憶を蓄積できない。」

(「9 善良な人々が虐殺の歯車になるとき」より)

「アレントが(アイヒマンが絞首されねばならない)その唯一の理由」としたことは、「多くの人の殺害に関与したから」ではなく、ましてや(最近の日本の裁判官が判決理由で述べるような)「残虐このうえなく」とか「あまりに身勝手過ぎ」とか「更生の可能性もなく」でもなく、法と秩序を破壊して。世界に住むべき人を選択できると思いこんだナチスという政治体系に従属して指示に従ったことである。

 アイヒマンの立場になれば誰でもアイヒマンになりえたことを認めながら、そのうえで絞首することを肯定すべきなのだと、アレントは主張した。裁かれるべきはアイヒマンの特異性ではなく、実務能力に長けた官僚としてのアイヒマンの凡庸さなのだ。

 でもならば、この裁判が本当の意味を持つためには、アイヒマンと(おそらくはヒトラーも含めての)他のナチス幹部たちのほとんどが凡庸な存在であることを、多くの人が認識することが前提だ。

 彼らは悪ではない。良き人でもある。しかし、行為は絶対的な悪だ。それを命じる組織に帰属したことが罪だ。ただし裁かれて処罰される彼らは、裁く側の私たちでもある。その認識を持ったうえで歯を食いしばりながら、有罪を宣告せねばならないのだ。

 アレントの主張を、僕はこのように解釈する。とはいえ、『エルサレムのアイヒマン』刊行後のアレントは、収容所では多くのユダヤ人が殺戮に加担していたと記述したこともあって、同朋であるユダヤ人たちから「アイヒマンの免罪を主張している」「ナチズムを擁護している」などと激しく批判された。

 ちなみに収容所で多くのユダヤ人がゾンダーコマンド(ドイツ語で特殊部隊を意味する)と呼ばれながら、殺戮に加担していたことは、今では事実であったことが明らかになっている。

(・・・)

 イスラエル警察の取り調べの際に、アイヒマンは「私の罪は従順だったことだ」という言葉を残している。」

(「10 虐殺のスイッチを探る」より)

「人はなぜ優しくて善良なままで人を殺すのか。オウム施設で撮影をしてから僕はずっとこの命題を考えつづけている。」

「ナチスにしてもクメール・ルージュにしても、虐殺に加担する男や女たちは常に集団だ。個人ではない。集団だからこそ主語が変わる。一人称単数である「私」や「僕」が、「我々」とか「我が党」とか「我が国家」などに肥大する。

 だから述語が乱暴になる。威勢がよくなる。一人称単数に付随する躊躇や逡巡や悔恨が薄くなる。思考しなくなる。責任が回避される。こうして人は人を殺す。無自覚なままで。優しくて穏やかで善良なままで。」

「群れは全体が同じ動きをする。つまり同調圧力だ。もしも全体と違う動きをする個体がいれば、天敵から真っ先に狙われる。」

「・・・・・・ここまで読みながら、あなたは気づくかもしれない。要するに、学校のいじめと虐殺は構造が同じなのだと。それが社会全体で起きる。異物と見なす理由は、動きの差異だけではない。皮膚や眼の色の違い。言葉のイントネーション。あるいは自分たちとは違う神を称えていること。理由は様々だ。というか何でもいい。

 ただし、一つだけ条件がある。やられる側が少数であるか弱者であることだ。その少数派の集団を、多数派の集団が攻撃する。

 こうして異物を排除した集団は。さらに同質性を集団内部に求めながら、足並みそろえて行軍する。なぜこの方向に進むのか、なぜこれほど足早になるのか、疑問はあっても誰も口にはしない。やがてその疑問も消滅する。疑問を口にしたり首をかしげたりするだけで、自分が異物と見なされる可能性があるからだ。」

(「転がる石のように あとがきに代えて」より)

「僕は、この歳になるまで、組織と距離を置いて生きてきた。意識してそうしたわけじゃない。でも結果としてそうなった。」

「僕は、密集度が高い集団の真ん中にいることができない。なんとなく居心地が悪いのだ。だから気がつけばいつも、集団の端にいる。密集度は低い。だから真ん中よりは自由に動ける。きょろきょろと視点を変えることもできる。そして気づく。世界は単色ではない。多面的で多重的で多層的だ。だから思わずつぶやく。もう少しだけ端に寄れば、もっともっと違う景色が見えるのに、もう少しだけ端に人が増えれば、世界はもう少し風通しが良くなるのに。」

(武田砂鉄「解説 考えないと考えなくなる」より)

「森達也はずっと煩悶している。少なくとも『世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい』を刊行した20年前から同じように煩悶している。煩悶、つまり、もだえ苦しんでいる。本書も同様である。」

「「自分のことは自分で決めましょう」「相手の気持ちを考えましょう」、これは小学生の時に先生から繰り返し言われた二つなので、自分はずっと覚えているのだが、なぜか、忘れてしまっている人が多い。考えないと考えなくなる。結果、大変なことになる。これまでも、大変なことを起こしてきた。森達也はその実相を伝えてくる。私たちはもっともっと考えて、もだえ苦しんだほうがいい。」

【目次】

まえがき

1 なぜ人はこれほど残虐になれるのか カンボジアの残像
トゥール・スレン虐殺犯罪博物館にて
朝起きたら歯を磨くように人を殺す
惨劇の痕跡

2 どうしても学校や会社には適応できない 僕が虐殺に関心を抱いた理由(その1)
吃音のいじめられっ子だった頃
映画を「作る」楽しみ
アメリカン・ニューシネマの時代
役者を目指したものの……
ドキュメンタリーとの出会い
ドキュメンタリーはおもしろい!?

3 オウムを撮ることで気づいたこと 僕が虐殺に関心を抱いた理由(その2)
そして一人きりになった
宗教が救えるものの限界
なぜオウムは人を殺したの
オウムの側から社会を眺める
こうして人は歯車になる

4 生きものの命は殺してもいいのか
クジラと日本
生きものと知性
線引きの難しさ
調査捕鯨を続ける本当の理由
ウシやブタやイルカの殺され方

5 人を殺してはいけない理由などない
人は身勝手な生きもの
人は人を殺してはいけないと誰が言ったのですか?
人は人を簡単には殺せない
映画『フルメタル・ジャケット』から見えてくるもの
日本人の心は壊れにくいのか?

6 もとからモンスターである人などいない
殺人をどう罰するか
加害者は人間であり、モンスターではない
憎しみと愛情のはざまで
自由意志のあやうさ

7 この世界は虐殺に満ちている
虐殺の歴史を振り返ってみよう
①デマが罪のない多くの人を殺す ―― 関東大震災時の朝鮮人虐殺
②ホロコースト ―― ナチスによるユダヤ人大量虐殺
③普通の人が普通の人を殺す ―― 政権側によるインドネシアでの虐殺
④一つの民族が殺しあい、人口が激減した国 ―― カンボジアでのクメール・ルージュによる大量虐殺
⑤民族の対立をラジオが煽る ―― ルワンダでのフツ族によるツチ族虐殺
加害者の本当の姿を知りたい
被害者感情と取材の難しさ

8 集団と忖度   虐殺の核にあるもの
「私が彼を」でなく、「我々0 0 が彼ら0 0 を」殺すとは?
虐殺は誰かの指示がなくても始まる
アウシュビッツ強制収容所を訪ねて

9 善良な人々が虐殺の歯車になるとき
一人ひとりはみな優しい
凡庸な悪としてのアイヒマン
人は何に服従するのか
見えぬ命令系統
純粋さゆえの残虐さ

10 虐殺のスイッチを探る
集団化と同調圧力
過剰な忖度と異物の排除
お化け屋敷は、なぜ怖いのか?
集団が変異する熱狂の瞬間
虐殺のスイッチとは

転がる石のように あとがきに代えて

ちくま文庫版のためのあとがき

解説 武田砂鉄

◎森達也(もり・たつや):
映画監督・作家。1998年、オウム真理教のドキュメンタリー映画『A』を公開。2001年、続編『A2』が山形国際ドキュメンタリー映画祭で審査員特別賞・市民賞を受賞。11年に『A3』が講談社ノンフィクション賞を受賞。著書に『放送禁止歌』(知恵の森文庫)、『死刑』『いのちの食べかた』(角川文庫)、『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』(ちくま文庫)、『たったひとつの「真実」なんてない』『集団に流されず個人として生きるには』(ちくまプリマー新書)など。

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