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保坂和志「連載小説53/鉄の胡蝶は記憶を夢は歳月に彫るか」(『群像』 2023年 01 月号)

☆mediopos2945  2022.12.10

組織のなかで
疑問をもつことなく
「上」の命令に従う人がいる

そうすることで
じぶんも首尾良く「上」へ向かい
そこで「下」に命令する立場になる
おそらくそのときも
そのことに疑問をもつことはないのだろう

それは政治の世界でも
宗教の世界でも
経済の世界でも
教育の世界でも同じく
ヒエラルキーを形成する上下関係における
利に賢い生き方としての力学なのだろうが

比較的長く生きてきて
それなりにじぶんのこともふくめ
人間観察を続けながら
もっとも理解できずにいるのがそのことだ

それはハンナ・アレントが
アイヒマンについて語ったことと同様に
「凡庸」さのなかで求める
「処世術」であるといっていいのだろうが
なぜそのことに疑問をもたずに生きているのかだ

ぼくのばあいはふつうそうである以上に
命令することにも命令されることにも
強い拒否感を持ってしまうように
組織の「上」の立場に立とうというような
上昇志向が欠如しているところがあるのだが

それにしても
組織のなかの力学において
疑問も持たずに生きているというのは
どうしてなのか

ちょうど保坂和志が『群像』で連載している
小説「鉄の胡蝶は記憶を夢は歳月に彫るか」のなかで
森友学園に絡んだ佐川理財局長の
証人喚問での答弁についてふれていたのでとりあげてみた

保坂和志は(小説のなかの視点ではあるが)
「組織の奇妙な力学はカフカ的」だという

「組織のトップに任命される人は組織が持っている恥を
一身に体現する人物こそがふさわしい」というのだが
組織のなかで「上」の立場になろうとすることを
なににもまして志向するということは
まさにそういうことなのだろう

現在まさに進行中の政治家と官僚における
カフカ的としかいいようのない
いわば「組織の組織による組織のための組織」
あるいは「力の力による力のための力」を
生きている人たちというのは
それらの組織的なありようや力がもたらしている
惨禍などに目が向くことはないのだろう

惨禍をもたらした責任が問われるであろうときにも
佐川局長のようにあるいはアイヒマンのように
無自覚なまでの「忠誠心」以外のものを
そこに見出すことはおそらくできない

しかしなぜそういうメンタリティが可能なのだろう
その疑問はやはり消えそうもない

■保坂和志「連載小説53/鉄の胡蝶は記憶を夢は歳月に彫るか」
 『群像』 2023年 01 月号 講談社 2022/12 所収)

「ゴダールが言った、
「B級C級とされる戦地での戦争犯罪は指揮官が起こすのでなく、下級兵士が上官の命令で起こすのです。下級兵士ひとりひとりが上官の命令に従わなければ戦争犯罪は起こらないのです。」
 たしか〈ゴダール/映画史〉の中でそう言った、言ってなかったかもしれない、言ったとしても別の本かもしれない、秩序は現場でこそ守られる、秩序の決定権は現場にある、十月にロシア軍の総司令官に任命されたセルゲイ・スロビキンというのは冷酷な軍人で知られているという話でシリアで民間人の住む地区に容赦ない攻撃をしたこともあるそうだ。軍人としてほとんど最高の地位に昇りつめ、勲章をいっぱいつけている、しかしこの人には内面はなく、大統領と国家への忠誠心がただあるだけだ、驚くべきことだが組織のトップにちかい地位にいる人にはただ忠誠心だけの人が多い。

 軍人というのはコメディアンのように服にいっぱい勲章をつける、私にはどの軍人のどの場面を見ても「コメディアンみたい」にしか見えない。軍人が軍服でなくふつうのスーツとか散歩のときにカーディガンにも同じ数の勲章をつけて街を歩いていたらアタマがおかしい人としか思われない、Aの場面で失笑を買うことがBの場面で真面目に演じられるとしたらBの場面それ自体が狂っている、カフカが書いた情景というのはそういうものだった。」

「組織のトップはダメ人間でもなれる、組織の奇妙な力学はカフカ的で、
「まさかこのような人がトップに立てるとは誰も思わないような人物こそ組織というのは選ぶものなのです。」
 組織のトップに任命される人はことごとくそういう人物なのだと、だから森友学園に絡んだ佐川理財局長もそういう人物なのだったと、
「組織のトップに任命される人は組織が持っている恥を一身に体現する人物こそがふさわしいのです。」」

「私は佐川理財局長の名前を書いて以来、こうしてマトゥラーナのオートポイエーシスだのAVだのと書きながらもずうっと佐川局長の答弁だったか証人喚問だったかの様子が思い浮かんでいる、
「おまえは子どものときからそういう大人になりたったのかよ。」
 と言ってやりたくなるヤツを私はどうしても許す気持ちになれない。だからそれに引きずられてつまらないことを書いてしまう、自分の生きてる時間をそんなことに使うのは不毛だ、ああいう人間は何からも罰せられることはないんだろうか、少なくとも本人はそう思っているだろう。

「少なくとも本人はそう思っているだろう」
 と書いた途端にわかった、自分は何からも罰せられることはないと思って生きているとしたらまさにそれが罰なのだ、カフカならそこで済ます、わかりやすすぎる云い換えはキケンだがそれは正義がないとか信念がないとか云い換えられる、
「私の正義は政治的に最も力を持つ人に従うことだ」とか、
「社会のためでなく偉い政治家のために働くのが信念だ」
 というような言い方は文の形として間違ってはいないが中身はありえない。文というのは中身を伝えるためにあるもので形だけ文になっていればいいというものではない、
「神の子が死んだということはありえないがゆえに真実である」
 というテルトゥリアスの論法は矛盾を思考のエネルギーにするから力を持つが正義とか信念とかの子どもじみた歪曲はバカのひと言で済む、佐川局長はたぶんこんなことも言わないだろうが。
 私はもしかしてあの人の芝居っ気のなさに腹を立てているのかもしれないが、それは同じことだ。何からも罰せられることがないと思うから芝居っぽく振る舞う必要もない。芝居っぽい振る舞いはある感情を増幅させることだったり見る人の関心をある方向に持って行くことだ、それをまったくしない佐川はつまりやっぱり自分を見る目に関心を持ってない、自分を評価するのはその人たちではないと思っている、そのように思えるということが彼の中には何もないということでそれは存在としてすでにじゅうぶん罰せられているわけだふぁ、カフカはそういう人物に注目したわけだ、佐川局長は彼ひとりだけそうなわけでなく役所がその人をつくる、つくりつづけている、カフカはそこに着目した、すごいことだ。
 文学の解説で言われる官僚機構うんうんかんぬんということでなく、佐川局長はひとりの人間であるが役所がこの世界になかったらこの人はこうはならなかったかほとんど存在しなかったと考えさせるようなことをカフカは書いた。
 役人であることは社会のふつうの人とまったく違う時間を生きることだ、人はみんなそれぞれに違う時間を生きている、ひとりの人の中でも時間はまったく等速度では進まない、あの国会の証人喚問のあいだ、佐川局長は森友学園の売ったとか買ったとかの以前の時間に戻っていたのかもしれない、そういうことはありえない話ではない、それどころか彼は小学生で成績優秀で担任の先生からいつも褒められていた時間に戻っていて、彼の視界にいる人たちもみんな小学生で彼はどういうわけか生徒会でみんなから身に覚えのないことで責任追求されるハメになっていて、自分よりバカな生徒たちからそんなことされていて話がまったく見えないから内心はとても不機嫌だった。
 なんで小学生のオレをこんなところに連れてきたんだ、彼は小学生だから考えることや語彙にはかぎりはあったが、オレは組織人でかつ官僚だとどこかで考えてもいた、組織人でしかも官僚なんだから責任能力なんか持ってるわけがない、みんなそうやって組織の中で偉くなっていくものだ、早くこんなところから帰って塾いかなくちゃ、東大に入れなくなる、……
 しかし彼はやっぱり極度の緊張もしていたから膀胱の括約筋が緩んで立ったりすわったりするたびに少しオシッコが漏れてもいた、彼が名前を呼ばれて立つとプンと鼻をつくニオイがしたが国会で証人喚問される人たちは多かれ少なかれ失禁はするものだから近くにすわっていた職員は慣れていた、本人たちは緊張が心を占めているから自分の失禁に気がつかず、国会の時間が終わると、
「オレのズボンに誰かがションベンひっかけた。」
 と思うのが常だった。
 それももう六年だか七年だか前のことだが本人の時間ではどれくらい前のことになっているのか……本人に訊いてもそういうことはわからないが、ニオイの記憶にかぎって言えば嗅覚の記憶はつねにそこにある。」 

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