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『水原紫苑の世界』『百人一首』

☆mediopos-2326  2021.3.30

歌とは何か
それを問うために
秀歌撰は編纂される

歌を選ぶということは
短歌観を示すことによって
歌論の姿をとらない
歌とは何かを問う歌論ともなっているからだ

そのため『百人一首』の編纂者・藤原定家も
『八代集秀逸』『近代秀歌』『詠歌大概』『秀歌大体』と
数々の秀歌撰を編纂しているが
『百人一首』はそのなかでも
かなり特殊な編纂方針がとられている

百人一首はほぼ年代順に配列されているが
従来の秀歌撰はすべて歌合形式で
左右の組み合わせが重視されている
また「歌聖」とされていた人麿は
最初に据えられてはおらず三番目に据えられ
巻頭と巻末が親子天皇という形のシンメトリーに
また一歌人三首という原則を外れ
一人一首の百歌人で構成されている

従来のものと比べ特殊な編纂方針となっていることそのものが
定家の歌への問いを反映しているということができる
その意味で「百人一首とは定家との対話でもある」のだ

さて現代において
短歌とはいったい何なのだろう
歌とはいったい何なのだろう

塚本邦雄は「近代短歌が捨て去った王朝和歌の富」を
主に『新古今和歌集』を中心として短歌に取り戻そうとし
「象徴派的な前衛短歌」によって時代と切り結ぼうとした

塚本邦雄は定家の『百人一首』を「凡作百首」として批判し
みずから『塚本邦雄撰 小倉百人一首』を選び論じたのも
現代において短歌とは何かを論じる挑戦だったのだろう

かつての和歌は自己表現のための歌ではなく
王朝の貴族社会の共同体に奉仕するためのものであり
単純に個人の創作物という位置づけではなかったが
現代ではそれは「一般庶民の自己表現の詩」となり
さらに俵万智・穂村弘といった歌人たちのように
功罪はありながら口語短歌が主流となってきている

個人的にいえば塚本邦雄の短歌そして批評に啓発されて以来
あらためてそんな口語短歌にも目を向けるようにしているが
そんななかで日本(語)の伝統のなかでの
「和歌」や「俳句」とはいった何だったのか
そして現代においてそれがどのように継承され
これからどういう姿をとっていくのか
そうした問いなくして日本語を理解することはできない
そう考えるようになった

折良くほとんど同世代ともいえる
水原紫苑の短歌への「問い」にふれることができたところだ
水原紫苑の世界を一冊にまとめた本や
『百人一首』についての新書も刊行され
昨年には大岡信『折々のうた』選の短歌篇の解説も
水原紫苑が担当している

この機会にその問いをさまざまに深めてみたい
「和歌」という水脈の底に埋まっている
まだ見ぬ秘密の見つかることを祈りながら

■対談 馬場あき子+水原紫苑「伝統を継ぐ、歌とつながる/百人一首をいま読むということ」
 (「ユリイカ 総特集=百人一首」二〇一二年十二月)
 (『水原紫苑の世界』(深夜叢書 2021.3)所収)
■水原紫苑『百人一首 うたものがたり』(講談社現代新書 2021.3)
■塚本邦雄『塚本邦雄撰 小倉百人一首』(文藝春秋 1980.11)

(対談 馬場あき子+水原紫苑「伝統を継ぐ、歌とつながる」より)

「馬場/定家も秀歌撰というのをたくさん選んでいますよね。『八代集秀逸』『近代秀歌』『詠歌大概』『秀歌大体』それから『百人一首』。こういうように定家は歌論よりも秀歌を選ぶことで歌とは何かを問うた。そういう意味では現代のものを私は残してみたいと思います。
水原/それは残していただきたいとおもいます。馬場あき子の百人一首というかたちで選んでいただいて、馬場さんの短歌観を示してほしいです。
馬場/短歌観を示すということはありますよね。誰が撰者になるかで、まったく違うものができるということが面白いですよね。
 そういう意味では百人一首には『万葉集』にもないような万葉歌人の歌が出てきてますよね。ここには撰者である定家の和歌に対する考え方が如実にあらわれているように感じます。
 天智天皇から持統、人麻呂、赤人。阿倍仲麻呂まで七人、奈良時代の人の歌が入っている。定家には、歌の原点としての奈良時代までの『万葉集』の伝統を引かなければいけないという意識があったのでしょう。
水原/和歌宇宙を作りたかったということなのでしょうか。
馬場/天智から始まって、順徳院で終わる。天智と持統は親子、後鳥羽と順徳院も親子ですよね。こういう天皇を最初と最後に置くことによって安定感を保とうとしたかもしれませんが、しかし、私は天皇ということが重要なのではなくて、『万葉集』こそが大切だったと思うんです。定家は『万葉集』というものの心、本然の伝統をかなり尊重しようとした。源実朝に『万葉集』を贈っていることなどを見ても、そういう気持ちがあったように思いますね。勅撰集は、『万葉集』に言及している序を折々に持っていますしね。
水原/『古今集』の仮名序が感動的ですね。「人まろ亡くなりにたれど、歌の事とどまれるかな」。これですよね。
馬場/しかし『万葉集』の歌と百人一首の歌はやはり違いますよね。
水原/『万葉集』で一度切れていますね。『万葉集』は和歌という感じがしません。和歌というとやはり王朝の和歌というイメージがあります。
馬場/『万葉集』には短歌とあります。漢に対する和ですからね。『万葉集』はかなり漢文の世界、つまり外国を意識したものです。そうすると、日本の言葉のエッセンスをかなり意識して磨いていくと最後はどこに行きつくのかというと『新古今』なのでしょう。
水原/しかし、その百人一首を選んだ定家の日記は、時代として当然ながら漢文で書かれている。ですから逆説的に、定家には日本の言葉というものに意識が強くあったのでしょうね。外側の世界を識っているからこそ、日本という文学の空間を磨き上げることができたのだと思います。
馬場/伝統ということをどういう風に考えていくかということですね。『百人一首』や『新古今』の伝統というものを、近代短歌がどのように継いだのかという問題もありますし、近代短歌の伝統をどう現代短歌が継いだのかということもある。同じ様式によっている限り、この筋道というものは無視できないと思います。
水原/継ぐということですか?
馬場/いろんな継ぎ方がありますよ。近代歌人が歩んだ足跡を意識するということです。もちろん、継いでもいい。継いだら悪いということはないと思います。
水原/それはそう思います。しかし、継ぐにあたっては覚悟が必要ですよね。
馬場/たとえば中西進が『万葉集』は『古今集』や『新古今』を通りながら現代までつづく一本の大きな地下水だったという言い方をするのを私は肯定します。やはり『万葉集』というものは現代まで、斎藤茂吉などには顕著にあらわれていますが、大きな地下水だったと思います。歌の方法というものは切れているけれども、歌うということはやはりそういう伝統を持っていたということを言っていきたいのですよ。この様式による限りは、一句ではなくて、一首なのですから、一首の、「首」というのは申すという意味ですから、一つまとまったことを言うというのが『万葉集』の時代だった。それが、百人一首でも、いかに技巧をこらしても、下の句で言うところに残っていると私は思うんです。
 今回、百人一首を読み直してみて、百人一首の言葉をみがく志を復権しなくてはいけないと強く思いました。いまの時代に百人一首がもう一度かえりみられるということは古典がつくりあげてきた世界に日本語の一番いいエッセンスが盛り込まれているということではないでしょうか。
 それを水原さんがおっしゃったような「つながる」という感覚でとらえられるというのはとてもすばらしいことだと思います。
水原/私は心ある若者たちが私なんかの想像もつかないすぐれた歌で、和歌と私たちをつないでくれるのを期待しているんです。
 百人一首が受け入れられるというのは、私たちが史上空前の孤独の中にいるからだと思うんですね。コンビニに行けば何でも買えるけれども、いつでも自殺してしまいそうな感じがある。そういう時代のなかで歌を読むと「つながる」ことができる気持ちになる。作者ともつながるように感じるし、さらに読んだ人同士もつながるように感じる。
 そういうところに百人一首のすごさ、そして和歌のすばらしさがあるのではないかと思います。」

(水原紫苑『百人一首 うたものがたり』より)

「百人一首とは定家との対話でもあるのですね。」
 定家のことを本文でも芸術家とよびましたが(・・・)、たとえばボードレールやマラルメのはるか前に生まれた象徴派詩人であり、芸術家そのものなのですが、他の歌人たちは少し違います。西行は芸術家などという括り方のできない行動する人間でしたし、業平、家持、人麻呂と歴史を溯って行くと、もっと言葉が神々に近いもので、個人の創作物ではないような印象がありますね。
 定家と同じような意味で芸術家であろうとしたのが、たとえば現代短歌の塚本邦雄です。」
「王朝の貴族社会の共同体に奉仕するための古典和歌と、一般庶民の自己表現の詩である近代現代短歌とは、再三述べたように成り立ちが全く異なります。
 塚本邦雄は、歌の形は大胆に三十一音の黄金律の詩として旧来の調べに反逆し、内実では、近代短歌が捨て去った王朝和歌の富を、主に『新古今和歌集』を中心として短歌に取り戻そうとしました。
 ちょうど定家が、源平の戦乱の世を生きながら、言葉の美の極北を求めることで時代と拮抗したように、戦後日本の社会を撃つものとして、象徴派的な前衛短歌を求めて行ったのです。
 塚本に同行したのが、本文でも取り上げた岡井隆であり、寺山修司そして春日井建でした。
 また(・・・)葛原妙子、斎藤史、そのあとの山中智恵子、馬場章子といった女性歌人たちの歩みも大きなものだったのです。
 ここから現代短歌は始まりました。
 そしてさらに俵万智、加藤治郎、穂村弘、東直子といった歌人たちが口語短歌の道を開きました。
 今世紀に入ってからは、ほとんど口語短歌が主流ですが、それでいながらどこか王朝和歌の匂いがする、危険で優雅な作品が登場するようになっています。本文に引いた笹井宏之や大森静佳や新しい文語派の川野芽生の歌がその一例です。また、本文では、大西民子、井辻朱美、本田一弘というそれぞれ独自の個性をもつ歌人もご紹介しています。」

(塚本邦雄『塚本邦雄撰 小倉百人一首』〜「序」より)

「伝・定家撰「小倉百人一首」が凡作百首であることは、最早定説になりつつあると言つてもよからう。」
「ともあれ、百首、撰の不当と欠陥を論じてゐるだけでは不毛であらう。そしてまた仮に百首が必ずしも凡作ではないとしたところで、その一人一人に、他に、これこそ代表作、一代の絶唱と目すべき歌が、現に殆どある。例外は「沖の石の讃岐」一人くらゐだらう。また、百人一首以外のその作の伝がらぬ阿倍仲麻呂と陽成院は、選択の余地がない。それを考慮に入れ、その制限にやむなく従つて、この度私は、九十八人の、これこそかけがへのない一首を選び上げた。一番天智天皇から百番順徳院まで、その印象派当然のことながら一変する。九十番以降あたりに入つて来ると、秀作、傑作十指に満ち、二十指に余って剰つて、ために煩悶するほどであつた。」

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