見出し画像

山口尚『人間の自由と物語の哲学/私たちは何者か』/夏目漱石『門』/吉本隆明『夏目漱石を読む』

☆mediopos2925  2022.11.20

哲学と小説を往還しながら
論じられる「人間の自由と物語の哲学」

現代では多くの場合
自由が科学的に論じられもするが
おそらくそれはほとんど
袋小路のようにしか見えない

そんななか本書では
坪内逍遥・二葉亭四迷・森鷗外・幸田露伴・泉鏡花
島崎藤村・田山花袋そして夏目漱石へと続く
明治の日本近代文学の小説における言語実践のなかで
《自由とは何か、主体とは何か》が問われてゆく

小説を哲学的に読むというのは
場合によっては錯誤になりもするのだろうが
本書は明治期における人間の「自我」の変化を
「自由」において見ている試みとして興味深い
そしてそれはまさに現代における
切実な問いにもつながっている

その問いは
夏目漱石の『門』における
「アイロニー」へと向かい論じられる

ちなみに『門』は
吉本隆明が夏目漱石の作品のなかで最も好きな作品とし
ドナルド・キーンが傑作として位置づけている作品である

では「アイロニー」とは何か

アイロニーとは
「いかなる個別の原理からも距離をとる態度」としての
「〈隔たり〉を伴う態度であり、狂信の反対物」である

「アイロニカルな主体」は
「《自分は世界をどうにかしていけるのだ》という素朴な信念を脱し」
「いかなる原理にも狂信しない、あるいはむしろ狂信できない。
自分のやっていることへつねに伴う〈疑い〉の距離」を持っている
その主体が『門』では描き出されているというのである

「アイロニカルな主体」は
「問題の原理を狂信」することなく
「非原理の原理」を事とすることによって
「実験的」かつ「慎重な」仕方で世界に対してゆく

自由であるということはたとえば
《決まりには従わねばならない》という原理には縛られない
《場合によっては勇気をもって決まりを破る必要がある》
という態度を取ることができるというように
「原理」そのものを問い直すことができるということである

しかしながら現代の管理社会的状況に順応した人たちは
漱石の『門』の宗助のような態度をとることができない
さまざまな「大本営発表」を疑うこともなく
「アイロニカルな主体」ではありえなくなっているのである

漱石の『門』が発表されたのは一〇〇年以上前の一九一〇年
現代はその時代から退歩してさえいるのだろうか

ある意味で現代においても私たちは
「アイロニカルな主体」となるところから
その歩みをはじめる必要がありそうだ

■山口 尚『人間の自由と物語の哲学/私たちは何者か』
 (トランスビュー 2022/8)
■夏目漱石『門』(新潮文庫 昭和五八年三月)
■吉本隆明『夏目漱石を読む』(ちくま文庫 2009.9)

(山口 尚『人間の自由と物語の哲学/私たちは何者か』〜「はじめに」より)

「近代に興った「小説」なる言語実践は、個性をもった人格の生き方を叙述することによって、《人間とはどのような存在か》あるいは《私たちは何者なのか》の理解を更新してきました。こうなると〈自由と主体の哲学〉に取り組む際に小説へ目を向けないわけにはいきません。そしてさらに言えば、たんに作家の文章を表面的になぞるだけでは、決して十分ではありません。むしろ、小説とがっぷり四つに組んで、まさに作品をして《自由とは何か、主体とは何か》を語らしめねばなりません。かくして本書で行われることは次のように表現することもできます。すなわち、小説が哲学する現場に立ち会う、と。こうした仕方で、長らく科学に定位してきた〈人間の自由〉論の語り方を変えていきたいのです。」

(山口 尚『人間の自由と物語の哲学/私たちは何者か』〜「第14章 漱石の『非原理の原理』————「門」」より)

「この作品(夏目漱石『門』)は重要な意味で〈私たち〉を描いており、《私たちは何者なのか》へ核心的な答えを与えるポテンシャルを有しています。ちなみに評論家・吉本隆明はある本(『夏目漱石を読む』)で「漱石の作品のなかで、この『門』が前からいちばん好きな作品です」と述べましたが、私もそうです。」

「(ドナルド)キーンは何を理由に「『門』は傑作である」と述べたのか(・・・)。」

(・・・)

「キーンは、宗助を通じて「尋常な人間」の生き方が描かれている、という点を理由に『門』を傑作と認めます。とはいえ、なぜ「尋常な人間」が登場することが傑作という評価の理由になりうるのでしょうか。それは、究極的には、「尋常な人間」が私たち自身を指すからです。そして私たちにとって《私たちのあり方が描かれること》は特別の重要性を具えるからです。こうした点を踏まえれば次のように言えるでしょう。すなわち、『門』は《私たちは何者なのか》へ何かしらの答えを与える作品だ、と。それを読み解くことで私たち自身の自己理解を深めることができる作品だ、ということです。」

「宗助は今後も繰り返し生じるだろう心配や苦悩を「天の事」としていますが、これはこの人物が《世界が自己を抑圧するという関係は根本的には変えられない》と認めていることを意味します。そして、この認識のもとで自分に降りかかる問題へ対処するがゆえに、苦難への宗助の向き合い方はアイロニーを含むことになります。なぜなら彼は、眼前の問題を表面上「解決」したとしても、自己と世界の根本的な関係が変わらないために、いずれ別の問題が生じてくることを知っているからです。
 このように「解決」という語は宗助にとって真の解決を意味することはなく、それゆえ彼はこの語をアイロニーなしに用いることができません。
(・・・)
 「アイロニー」という語が使われましたが、じつにアイロニーとは〈隔たり〉を伴う態度であり、狂信の反対物です。例えば(泉鏡花の)「夜行巡査」の八田は《決まりには従わねばならない》という原理にいわばベッタリであり、自分の奉じる立場からまったく距離をとれません。言い換えれば、問題の原理へ疑いをはさむ余地(これが「隔たり」と呼ばれる)がない。この距離の無さが狂信の特徴です。
 逆に、もしあなたが《決まりには従わねばならない》という原理の一般的な正しさを認めつつも《場合によっては勇気をもって決まりを破る必要がある》とも考えるならば、あなたは問題の原理を狂信していません。(・・・)このように〈隔たり〉を伴う態度が「アイロニー」と呼ばれるものであり、この意味で、降りかかる問題へ何かしらの解決を試みつつも、同時に「解決」というものを心から信じることのできない宗助の生き方はアイロニーを含むと言われるのです。
 宗助のアイロニーは、すなわち《人生には真の意味で「解決」と呼ばれるようなものはない》と自覚しながら降りかかる問題に向き合う態度は、『門』の重要な場面で開陳されます。」

「なぜ漱石はこうしたアイロニカルな人格を描いたのか————については、踏み込んだ説明が可能です。じっさい、《自己と世界との衝突の問題に根本的な解決はない》と気づいてしまえば、ひとは自分に降りかかる問題へ、もはやアイロニーをもって向き合うしかなくなります。すなわち一方で、眼前の問題に対しては、それが問題である以上、何かしらの対処を講じざるをえません。他方で世界の抑圧の不可避性に気づく者は同時に《一切の「解決」は表面上のものに過ぎず、いずれにせよ別の次元で問題はふたたび生じる》という事実にも気づいています。それゆえ、そうしたひとは自分の講じる対処に「解決」の意味を文字通りには付すことができません。その結果、自分自身の行為に対しても、皮肉な眼差しが向けられることになります。かくして次のように言えるでしょう。『それから』の到達した境地(・・・)を通過した人格はもはや隘路に買うであらざるをえない、と。
 私たちもすでに現にアイロニカルではないですか、と私はあなたに呼びかけたい。というのも、私たちは明治文学史における世界と自己の理解が徐々に深められていく過程を通り抜けたのであり、独歩や漱石によって確かめられた《世界と自己は避けがたく反目する》という事実を直視する境地に辿り着いているからです。」

「アイロニカルな主体はどのようなものでしょうか。彼女あるいは彼は、自分に降りかかる問題へ対処を講じるのだけれども、それが根本的には〈解決〉たりえないことに気づいています。それゆえ彼あるいは彼女は《自分は世界をどうにかしていけるのだ》という素朴な信念を脱しています。いかなる原理にも狂信しない、あるいはむしろ狂信できない。自分のやっていることへつねに伴う〈疑い〉の距離、これが〈アイロニカルな主体〉の本質であって、こうした主体こそが『門』で描き出されるものです。」

「アイロニーは本書において〈いかなる個別の原理からも距離をとる態度〉を意味しますが、こうした態度を生きる主体は第一に苦難へ「実験的な」仕方で向き合います。すなわち、特定の原理(例えばこれまでうまくいっていた原理など)に執着せず、むしそ差し迫る困難をできるだけ巧みに切り抜けられるようにいろいろな手立てを試します。くわえてアイロニカルな主体は第二に苦難へ「慎重な」仕方で向き合います。すなわち、手っ取り早く安心を得るために自己欺瞞へ走ることなく、むしろ考えに考えを尽くして、最後は覚悟をもって決断します。」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?