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『無意識のバイアス/人はなぜ人種差別をするのか』

☆mediopos-2296  2021.2.28

差別は否応なく存在している
社会のなかでの差別だけではなく
私たちの内にも
意識するしないに関わらず
差別はたしかに存在している
そしてその両者は深く関係しあっている

差別が行われているという事実は
絶対的なかたちで認められるわけではなく
時代や社会によってその位置づけは
大きく変わってくる

ある時代のある地域では
社会的には差別とはみなされず
まただれもそれを差別とは思ってはいなくても
同様な事実が別の時代や別の地域では
差別として問題化されることもあるだろう

アメリカにおける黒人と白人に関係した
黒人への差別というのは根強くあるようだ
本書はそこで生まれている人種差別の背後にある
「無意識のバイアス」について
さまざまな視点から実際に検証し問いが深められている

黒人と白人よりも
さらにグローバルに問題化されるのは
男性と女性のあいだの性差に関わる差別だろう

その他にも人権に関わる差別の問題は
さまざまなところで存在しているが
それらの差別がなぜ生まれているのかは
その社会が成立してきた背景や
それにともなったひとの意識に深く関わっている

つまり差別はいけないからといって
その差別をなくするルールをつくったところで
その差別がなくなるという単純なことではない

一人ひとりの生きてきた地域での生の在り方と
そこで育ってきた意識の在り方が
根底から変わらなければ差別はなくならない
それは「差別」と呼ぶよりも
「生活様式」「意識形態」と呼んだ方が適切だ

そして差別する側だけが差別の原因ではなく
差別される側もまたその差別の函数に深く関わっていて
両者を切り離すこともむずかしい
両者を包み込んだ「生活様式」「意識形態」そのものが
その「差別」という現象を生んでいる

かつての時代は
そうした差別という問題が
クローズアップされることは少なかったが
現代ではさまざまな地域でさまざまな問いとして
「差別をなくさなければならない」ということが
言挙げされるようになっている

それは現代という時代は
無意識に働いている「バイアス」を
意識化していく働きを顕在化しようとする時代だからだ
「意識魂」の時代だということができる
つまり自我がみずからを鏡に映して
見つめていこうという時代である

問題は差別だけではない
すべての人がみずからの内で
無意識に働かせているバイアスを
さまざまな側面で問い直していくことが求められている

20世紀が精神分析の時代だった側面があるのも
そして意識の影の側面が巨大化して
殺戮の時代となってしまったのも
そうしたことと深く関わっていると思われる

私たちはもう
みずからを問わずに生きていくことが
できない時代へと向かっている
差別も暴力もそして愛も
みずからの内で問い直すことで
社会全体に反映させていかなければならないのだ

■ジェニファー・エバーハート(山岡希美=訳 解説=高史明)
 『無意識のバイアス/人はなぜ人種差別をするのか』
 (明石書店 2020.12)

(ジェニファー・エバーハート(『無意識のバイアス』本文より)

「バイアスは人生の一つの領域に限定されるものではない。一つの職業、人種、国に限定されるものでもない。また、一つのステレオタイプ的な関連づけに限定されるものでもないのだ。本書は、黒人と犯罪の関連づけに関する私の研究から発展したものであるが、その関連づけだけが重要であるという訳でも、黒人というグループだけが影響を受けている訳でもない。刑事司法の場において潜在的なバイアスがいかに機能してきたかを探ることで、自分が所属している社会的集団やどの集団に対しバイアスを持つかに関係なく、自分が誰であり、どんな道を歩いてきたのか、そして何になれるのかについてのより広い教訓を得ることができる。
 人は肌の色、年齢、人種、訛り、障害、性別など、あらゆる特徴に基づいてバイアスを持つことがありうる。私が人種、特に黒人と白人について多く挙げているのは、この二つのグループがバイアス研究において、最も多く研究されているからである。そして、黒人と白人の間における人種のダイナミクスは、劇的で、必然的で、永続的なものだからである。アメリカでは、何世紀にもわたってこのような緊張関係が、他の社会集団に対する見方にも影響を与えてきた。
 潜在的なバイアスに立ち向かうには、客観的に自分自身を振り返る必要がある。潜在的な人種バイアスの影響を理解するためには。自身を尾行していたことに気づいた潜入捜査官のように、自分自身の目を見つめて、ステレオタイプや無意識的な関連づけがいかに容易に私達の現実を形作ってしまうかについて向き合う必要があるのだ。恐怖とバイアスによって歪められたレンズの存在を認めることで、私たちはお互いをはっきりと認識することに一歩近づくのである。
 私達の進化の過程も、現代文化も、私たちがバイアスに囚われるような運命を定めている訳ではない。変化に必要なのは、手の届く範囲で、心を開いて注意を払うことである。自分自身を変えようとしているのか、自らの生活、職、学習の環境を変えようとしているのかにかかわらず、私たちが教訓にできる成功済みのアプローチや、さらに発展させることができる新しい考え方が存在するのだ。」

「私たちは自らの無神経さや不公平さをどのように自覚できるのだろうか? 自分自身がどんな人で、どのように感じるかは、意識できないものやコントロールできないものにどれほど左右されているのだろうか? 私たちはどのぐらいの頻度で、目指すべき寛容で公正な心の持ち主になれているのか? そして、どのようにして、自らを振り返り、ネガティブな影響のあるバイアスを遮断することができるのだろうか?」

(高史明「解説」より)

「偏見やステレオタイプはしばしばそれを抱く人の脆弱な心理を反映したもの、ないし病的なものとみなされることがある。実際、心理学においてもかつては、特に精神分析理論に基づいて、そのような解釈がなされることが多かった。しかし偏見やステレオタイプがそうした病理の現れである場合もあるにせよ、本書の中心的なテーマであったように、バイアスはそれ自体は正常で適応的な、基本的な心理的メカニズムによっても生じるのである。
 この認識は、非常に重要である。確かに差別は、悪意や利己的な動機によってなされることもある。しかし、差別は許せないという価値観を深く内面化している人々でさえ、潜在的なバイアスによりしばしば不公正な振る舞いをしてしまうのである。差別しようとする意図がなくとも、差別しているという意識も伴わないうちに、我々の認知や行動はバイアスの影響を受けてしまう。本書ーーーー人権問題について多数の良書を出版してきた版元による、「人権差別」の語を冠した翻訳書ーーーーを手にとる読者の多くは、差別問題に関心があり、平等を志向する人々ではないかと想像するが、そうした人々であっても(そしてもちろん、本稿を執筆している私にとっても)、例外ではないということである。バイアスにより不利益を受けるマイノリティ集団の人々自身もまた、例外ではない。「この世界は、とても深く、とても陰湿に、そして無意識のうちに」、自分自身が属する集団に対する認知を変容させ、健全な自己認識を揺るがすのである。」
「我々が世界を見るとき、そのごく根本的な位相においてすら、バイアスかた自由ではない。公正・公平であるためには、我々は自分たちの認知や行動を労力をかけて監査し、自らの持つ「自然な」傾向に抗わなければならないのである。」

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