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東畑開人「贅沢な悩み 連載第4回」(文學界)/鶴田想人「「人生の意味」は誰のものか」(現代思想)/岩内章太郎『〈私〉を取りもどす哲学』

☆mediopos3409  2024.3.18

東畑開人が「文學界」で連載している
「贅沢な悩み」の第4回目

今回はクライエントが「自己診断」で
「贅沢な悩み」であることを語り
カウンセラーにその診断を問う事例
星くん/アラタ/鞠/小牧の4例が紹介されている
(その内容は引用で)

第1回から第3回までは
第1回:mediopos3310(2023.12.10)
第2回:mediopos3343(2024.1.12)
第3回:mediopos3376(2024.2.14)
でとりあげている

今回問題とされているのは「客観主義」である

つまり「「本物」の贅沢な悩みと「偽物」の贅沢な悩み
というものが存在していて、
それらは客観的に分別できるという前提」である

いうまでもなく「贅沢な悩みです」
というのはクライエントの主観的な診断なのだが
クライエントからそう言われると
どうしても診断の是非を確定したくなり
「「それは贅沢じゃないよ」と診断し直しても、通用しない」

そして「クライエントは「そんなこと言われても」と困惑し、
「そりゃカウンセラーだったら当然そう言うよね」
と内心思って、白けた雰囲気が漂うだけだ。
それはかえって、クライエントの孤独を強化してしまう。」

クライエントの自己診断という「客観」と
心理士の「診断」という「客観」が対立し
「お互いに自分の「客観」に心を奪われ、
その結果として対話は閉ざされてしまう。」

その先は次号ということだが
「対話」が成立しない事態について
角度を変えて考えてみたい

現代思想2024年3月号の特集「人生の意味の哲学」所収の
鶴田想人「「人生の意味」は誰のものか」では
「客観主義」的なアプローチではなく
コミュニケーション的なアプローチが示唆されている

「人生の意味を三人称的に語るとき、
語る人と語られる人の人生のあいだには
コミュニケーションは生じていない。」

「人生の意味の哲学」においては
「真理条件的アプローチ」がとられることが多いというが
ここではそれに対して「語用論的アプローチ」として
「コミュニケーション的アプローチ」が必要だという

「それを問うことで私たちが求めているのは、
その意味を満たしうるような条件ではなく、
意味の生成それ自体なのだとは言えないだろうか。」
というのである

つまり「贅沢な悩み」であるかどうか
その診断の是非を問うことでは対話は成立しない

「どのような時にその言明を発するのか、
そしてその言明を発することで」
「何を聞き手に伝え、何を達成しているのか」
そのことについてこそ読み取ることで
対話を行わなければならない・・・

岩内章太郎『〈私〉を取りもどす哲学』では

「サイバースペースで情報や他者と
広くつながることができるようになった現代社会と、
そこで失われつつある〈私〉の存在」が
「〈私〉を取りもど」し
そうすることで「世界を取りもどす」ことが提案されている

現代は「客観主義」的な視点で
「自分は○○である」というように
みずからを表現する傾向がよく見られるが

みずからを見据えたうえで
世界のなかに位置づけて
「自分は○○である」と言っているのではなく
世の中の評価やそれを規定している表現(レッテル)に
じぶんをあてはめているだけなのだ

そのことでむしろ〈私〉をそのなかに閉じ込めてしまい
〈私〉がますますわからなくなくなってしまっている

それを克服するために
「〈私〉の自由にならない〈私〉や、
〈私〉の思いどおりにならない関係性は、
それなりにネガティブな要素を含んでいるが、
そこに抵抗と摩擦が認められるからこそ、
〈私〉とつながりは存在している」ということから
新デカルト主義なるものが提案されている

それは
「〈私〉の内側に視線を移すこと」で
「まずは、〈私〉を取り戻」すこと
「〈私〉の内面をよく見」て
「そこに与えられている世界をよく見ること」で
「世界を取りもどす」という哲学である

「贅沢な悩みです」という自己診断も
どこか外から持ってこられた三人称的な要請にすぎない

まず必要なのはそうした言葉を発してしまうような
「〈私〉の自由にならない〈私〉や、
〈私〉の思いどおりにならない関係性」について
目線を移せるようにすることなのだ

問われているのは
「贅沢な悩みです」という言葉の裏で
現在陥っている状態が発しているシグナルと
それが意味しているものが何なのかに気づくために
何が必要なのかということにほかならない

■東畑開人「贅沢な悩み 連載第4回
      2章 星くんとパリピ王子様————病と疾患について」
 (文學界 2024年4月号)
■鶴田想人「「人生の意味」は誰のものか/
      人生の意味へのコミュニケーション的アプローチ」
 (現代思想 2024年3月号)
■岩内章太郎『〈私〉を取りもどす哲学』(講談社現代新書 2023/12)

**(東畑開人「贅沢な悩み 連載第4回」より)

*「星くんが不登校になったのは、高校に入った年の6月、
 きっかけは授業中に気分が悪くなり、嘔吐してしまったことだた。それ以来、星くんは朝になると胸焼けを感じるようになり、また吐いてしまうのではないかと不安になって、学校に行けなくなった。
 彼は中学生のときまではクラス委員を務めるなどした優等生だったから、家族もまさかこんなことになるとは夢にも思っていなかった。困りはてた父親に連れられて、星くんは私のオフィスにやってきた。」

「 「贅沢な悩みなんだと思います」
  「贅沢・・・・・・なのかな?」
  「多分」彼は続けた。「もっとひどい家はあるし」
  「そうなのか」
  「こうやってカウンセリングにくるお金も出してもらっているし、結局、僕は家族の足を引っ張ってる」」

*「贅沢な悩みという自己診断が現れたとき、私たちは決断を迫られる。
 それが本当に贅沢な悩みなのか、あるいは切実な悩みなのかを判断したくなるのである。
 ①クライエントの自己診断であること②心をかき消すこと③診断の是非を確定したくなること。
 この3つが「贅沢な悩み」が出現するときの基本的な特徴である。」

*「 既婚者なのに複数の不倫相手と交際を続けるアラタは、誰と一緒にいてもさみしさが消えないことについて「贅沢な悩みです」と言う。

  誰もが羨むキャリアを歩む鞠が、自分の仕事を虚しいものだと思い、憎みすらしていることについて、「贅沢な悩みです」と言う。

  自分の能力が低いと思い込んでいる小牧は、上司から心無い言葉を浴びせられ、不当な扱いを受けて苦しんでいることについて、「贅沢な悩みです」と言う。「みんな、それでも頑張っているんですから」

 あなたは彼らの「贅沢な悩み」をどう思われるだろうか?
 もしかしたら、アラタと鞠の悩みは本物の「贅沢な悩み」に見え、星くんと小牧の悩みは「切実な悩み」に見えるかもしれない。いや、星くんと鞠と小牧は切実で、アラタはやはり贅沢に思われるかもしれない。あるいは、全員が切実な悩みに見えるかもしれない。
 厄介なのだ。ここに混乱がある。
 実際のところ、何が贅沢な悩みで、何が切実な悩みなのだろうか? 何がその診断基準になるのだろうか? どういうときに「贅沢な悩み」は正しい自己診断と言えて、どういうときには誤診なのだろうか?
 自然とこのような問いやちが涌き出てくる。
 しかし、これらはすべて罠だ。
 というのも、このように問うているとき、私たちは③診断の是非を確定したくなることにずっぽりと巻き込まれているからだ。そして、そのことによって、「贅沢な悩み」に備わる②心をかき消す力と共謀することになるからだ。」

*「ここでも問題になっているのは、客観主義である。つまり、「本物」の贅沢な悩みと「偽物」の贅沢な悩みというものが存在していて、それらは客観的に分別できるという前提である。
「贅沢な悩みです」とクライエントが語ったとき、私たちは即座にこの客観主義に心を奪われる。その「贅沢な悩み」が本物か否かを診断し、本人に「正しい診断」を伝えたくなるような誘惑に駆られる。
 客観主義は通常の医学であれば正しい態度である。(・・・)
 だけど、贅沢な悩みの場合、客観種皮は有効ではない。いや、有害ですらある。
 (・・・)
 贅沢な悩みが本質的に主観的なものであることは誰もが十分に分かっているはずなのに、それでも私たちはなぜか客観的な診断を下したくなる。
「贅沢な悩み」と言われると、どうしても③が起きる。聴き手は診断の是非を確定したくなる。しかし、そのようにして伝えられた「客観」的な意見は、本人に対して説得力をまるで持たない。
「それは贅沢じゃないよ」と診断し直しても、通用しないのだ。クライエントは「そんなこと言われても」と困惑し、「そりゃカウンセラーだったら当然そう言うよね」と内心思って、白けた雰囲気が漂うだけだ。それはかえって、クライエントの孤独を強化してしまう。」

*「星くんはすでに十分に「客観」的なのだ。自分の悩みから距離を置き、ほかの人たちと自分の境遇を比べている。そうやって、自分の中ですでに客観主義的な議論を存分に行った上で、その結論として「贅沢な悩みです」と言っているのである。
 だから、私の言葉は届かない。
 私からすると、星くんの自己診断は偏った「主観」に見えていて、「客観」的にはそれは切実な悩みに見える。しかし星くんからすると私の診断はステークホルダー的な「主観」にしか見えない。カウンセラーだから、お金をもらっている人だから、自分に同情的なことを言っているとしか思えない。
 複数の客観が対立してしまう。クライエントも、心理士も、お互いに自分の「客観」に心を奪われ、その結果として対話は閉ざされてしまう。これが贅沢な悩みが語られたときに、引き起こされることである。「客観」の声が過剰なまでにあふれ出ることで、結局孤独が深まってしまうのだ。

 したがって、問われねばならないのは、贅沢な悩みにおける「客観」の正体である。
 贅沢な悩みが出現すると、なぜ「客観」のつむじ風が吹き荒れてしまうのか。このとき、「客観」と言われているものは、本当は何か。
 これらを解き明かすやめに、ここで「診断とは何か」を問う必要がある。つまり、身心の不調に名前を付けるとかそもそもどういうことなのか、そこまでさかのぼって考えてみたい。」

**(鶴田想人「「人生の意味」は誰のものか」〜
 「人生の意味へのコミュニケーション的アプローチ」より)

*「久木田水生は、人生の意味の哲学において広くとられている「真理条件的アプローチ」に対して、彼が「語用論的アプローチ」と呼ぶものを提案している。「人生の意味とは何か?」という問いは、例えば「一九〇〇年は閏年か?」といった問いとは質的に異なるものである。にもかかわらず、人生の意味の哲学では往々にして、ある年が閏年であるための必要十分条件を考えるのと同じように、ある人生に意味があるための必要十分条件を考えようとしていると彼は指摘する。では、それに代わるべき語用論的アプローチとは何か。それは「私たちはどのような時にその言明を発するのか、そしてその言明を発することで私たちは何を聞き手に伝え、何を達成しているのかを考えるアプローチ」であるとされる。」

*「語用論的アプローチは、「「人生の意味への問い」とは何か?」といった問いを問うているのではないか。私たちが人生の意味を問うとき、問題となるのは人生の意味そのものであり、人生の意味について言明することの意味ではないだろう。そこで、私は人生の意味そのものについて考えるために、「コミュニケーション的アプローチ」とでも呼べるものを提案したい。私たちが発する人生の意味への問いは、本質的にコミュニケーションとして、あるいはコミュニケーションと類比的なものとして、捉えられるべきではないか。そしてそれを問うことで私たちは求めているのは、その意味を満たしうるような条件ではなく、意味の生成それ自体なのだとは言えないだろうか。」

*「人生の意味を三人称的に語るとき、語る人と語られる人の人生のあいだにはコミュニケーションは生じていない。
(・・・)
 「自分には理解できない何かを相手は意味しているかもしてないという可能性を認めることでしか、コミュニケーションは少なくとも対等なそれは、始まらないのだろう」と三木那由他は考察(している)。この言葉は、哲学者シモーヌ・ヴェイユの次の一説を想起させる。

  正義。他人とは、(・・・)自分が〈読み〉とっているものとは別なものだということを、つねに認める心がまえでいること。でなければ、むしろ、その人は自分が〈読み〉とっているものとは、確かに別なもの、おそらくは全然別なものであることを、その人において〈読み〉とること。
  人おのおのは、別なふうに〈読み〉とってほしいと、沈黙のうちに叫んでいる。(『重力と恩寵』)」

**(岩内章太郎『〈私〉を取りもどす哲学』〜「まえがき」より)

*「本書のテーマは〈私〉である。私(岩内章太郎)と区別するために、それぞれにとっての自分自身を
〈私〉と表記することにしよう。これは、哲学的に言えば、近代哲学の父と呼ばれるルネ・デカルト以来の古典的なテーマである。「我思う、ゆえに我在り」というデカルトの格言を聞いたことのある人もいるだろう。
 だが、本書はデカルト論というより、現代社会論に近い性格を持っている。というのも、私が分析するのは、サイバースペースで情報や他者と広くつながることができるようになった現代社会と、そこで失われつつある〈私〉の存在だからである。二つのテーゼがある。

(一)〈私〉の認識は一面的であり、完全なものではありえない。また、〈私〉の存在は「弱さ」や「脆さ」を抱えている。それゆえ、〈私〉は、認識においても存在においても、有限であらざるをえない。
(二)〈私〉の自己イメージを自由に操作することで、〈私〉の存在感は薄れていく。〈私〉の実在の本質条件は、〈私〉の自由にはならないものから受ける「抵抗」と、それとの接触が引き起こす「摩擦」である。」

**岩内章太郎『〈私〉を取りもどす哲学』〜「第四章 ネガティブなものを引き受ける」より)

*「構築主義が助長するポスト・トゥルースの世界像は、〈私〉の意識の絶対性と有限性から出発して、複数の〈私〉が普遍性をつくろうとするとき、終わりを迎える。善の定型として、多様性を一つ覚えに語るだけでは、本来、普遍的理念であるはずの多様性までもが相対化されてしまう。多様性は普遍性に基礎づけられている。このことを一人ひとりの〈私〉が意識体験において確証するとき、ポスト・トゥルースこそが、文字通り、真実からかけ離れていたとういう時代認識が、普遍的確信としてつくられていくだろう。今、哲学の潮目が変わろうとしているのだ。

 とはいえ、この活動は簡単に進んでいかない。私たちは、共通了解を合意として創出するために、一見すると、どうにもならなさそうな状況に対して、答えを出すことも、答えを諦めることも、ともに差し控える能力を身につけなければならない(ネガティブ・ケイパビリティ)。そうして、言論を成熟させるための「時間」を生み出すのである。何かと決着をつけたがる人間にとって。それは存外難しいことだ。

 うまく合意が取れず、先行きが不透明になったとき、善への意志を満足させるパッケージに〈私〉の有限性を引き渡せば。心は楽になるかもしれない。が、その分だけ、〈私〉とつながるの確からしさは、フェイクとデザインの波にさらわれていく。さまざまな角度から、ネガティブなものの意味を再考し、それが人間の生に果たす役割を言語化する必要があるのだ。

 ワクワクすること(動物化)やよいこと(善への意志)を渇望すると、〈私〉の自然は外側の世界に向けられがちである。何か楽しいことはないだろうか、よい社会の基礎になる思想はないだろうか・・・・・・。こんな具合である。ところが、世界への依存が高まっていくと、今度は、自己デザインと自己消費の円環から出てこられなくなる。それはつまり、退屈の永遠回帰の完成でもある。

 こうして〈私〉の輪郭は失われていく。〈私〉の欲望や倫理の形がますます分からなくなり、自分が何を求めているのかを世界の側から教えられる、という逆接に直面することになるのだ。〈私〉と世界は自由に操作できる、とする哲学や世界観を打ち破らない限り、二つの実在は失われるほかないのである。

 新デカルト主義の提案はシンプルである。それは、〈私〉の内側に視線を移すことだ。まずは、〈私〉を取り戻す。ところでしかし、〈私〉の回復は、世界の回復でもある。意識作用と意識対象は相関していて、〈私〉の内面をよく見ることは、そこに与えられている世界をよく見ることを意味するからである。したがって、〈私〉を取りもどす哲学は、世界を取りもどす哲学でもある。

 〈私〉の意識体験に与えられている情動や欲望の状況、対象確信の条件や構造、〈私〉の思考の一見主観的な妥当性を反省して確かめてみる。そして、他の〈私〉も、絶対性と有限性という点では、同じ条件に置かれていることを洞察し、そこにすべての〈私〉への尊重を育む。おそらくこのことが、人間と社会の最も根底に敷かれるべき「よさ」なのである。(・・・)

 そう考えてみるなら、「よさ」の根拠は、〈私〉の意識体験の中にあることが分かる。私たちは、それをよく見ることから始めよう。そして、他の〈私〉が世界をどう見ているのかを聴こう。〈私〉の自由にならない〈私〉や、〈私〉の思いどおりにならない関係性は、それなりにネガティブな要素を含んでいるが、そこに抵抗と摩擦が認められるからこそ、〈私〉とつながりは存在しているのだから。」

*「結局、〈私〉は〈私〉でしかありえない。そして、すべての人が、一人の例外もなく、この同じ条件を共有している。」

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