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竹倉史人『土偶を読む/130年間解かれなかった縄文神話の謎』

☆mediopos-2383  2021.5.26

椎塚土偶(山形土偶)は
大量のハマグリが堆積する遺跡から発見されたが
その土偶がハマグリに似ているという学者は
これまでだれもいなかったという
しかしその頭部はたしかにハマグリに似ている

「職業としての学問」ゆえの
知性の矮小化・細分化
つまりは「ご専門」意識のために
見えているものが
見えなくなってしまっているのだろう

著者は土偶を
「植物の人体化(アンソロポモファイゼーション)」だとし
さまざまな土偶をその造形原理のもとに解読していく

ハート型土偶は「オニグルミ」を
中空土偶は「シバグリ」を
先の椎塚土偶(山形土偶)は「ハマグリ」を
みみずく土偶は「イタボガキ」を
星形土偶は「オオツタハ」を
縄文のビーナスは「トチノミ」を
結髪土偶は「イネ」を
刺突土偶は「ヒエ」を
そして有名な遮光器土偶は「サトイモ」を
かたどって人体化しているというのである
(写真で見てみるだけでそのイメージはよく伝わってくる)

そのヒントを著者は
フレイザーの『金枝篇』から得たという
『金枝篇』は「王殺し」の風習の謎に挑んだ
人類学的な著作である
その不可解な風習の謎を溶くために
フレイザーは「金枝」が象徴する
植物の死と再生の観念から「植物霊」に注目している

植物の種を植え実らせるためには
「植物霊」の守護が必要になる
土偶はそうした「植物霊」をめぐる祭祀のために
用いられたというわけである

これまでに土偶について説明されたものは
これほどたくさんのかたちをもった土偶を
一貫して説明できるものでは少なくともなかったのだが
この「植物の人体化」と「植物霊」という見方は
だれにでも直感的に理解でき説得力のある説だと思える

この『土偶を読む』という著作は
土偶研究についてはもちろんのこと
「学問」「専門家」のあり方に
一石を投じるものになっていきそうだ

おそらく白川静の文字学のように
いまだにアカデミズムからは受け入れられず
重箱の隅のような仕方で批判されているにもかかわらず
たしかにその視点がたしかに広がってきているように
この「縄文神話」の領域からも
新たな道が開けていくのではないだろうか

見ているのに見えていない
見ないようにしている
そんな馬鹿げた「ご専門」意識への囚われが
少しでも解かれてゆきますように

■竹倉史人
 『土偶を読む/130年間解かれなかった縄文神話の謎』
 (晶文社 2021.4)


「一三〇年間も研究されているのに、いまだに土偶についてほとんど何もわかっていないというのは一体どういうことだろうか。」

「土偶は縄文人の姿をかたどっているので、妊娠女性でも地母神でもない。<植物の姿>をかたどっているのである。それもただの植物ではない。縄文人の生命を育んでいた主要な食用植物たちが土偶のモチーフに選ばれている。ただしここで<植物>と表記しているのは、われわれ現代人が用いる「植物」という認知カテゴリーが、必ずしも縄文人のそれと一致しないからである。」
「私の土偶研究が明らかにした事実は、現在の通説とは正反対のものである。
 すなわち、土偶の造形はデフォルメでも抽象的なものでもなく、きわめて具体的かつ写実性に富むものだったのである。土偶の正体はまったく隠されておらず、津年日われわれの目の前にあったのだ。
 ではなぜわれわれは一世紀以上、土偶の正体がわからなかったのか。
 それは、ある一つの事実がわれわれを幻惑したからである。すなわち、それらの<植物>には手と足が付いていたのである。
 じつはこれは、「植物の人体化(アンソロポモファイゼーション/anthropomophization)」(ギリシア語で、“anthropo-”は〝人間〟を、“morpho-”は〝形態〟を意味する)と呼ばれるべき事象で、土偶に限らず、古代に製作されたフィギュアを理解するうえで極めて重要な概念である。これは人類学者の私が神話研究とアニミズム研究を行っているなかで発見した造形原理であるが、このことの重要性に気付いている研究者は世界中を見渡しても他には見当たらない。
 じつは、この「植物の人体化」という造形文法によって解読できるのは縄文土偶だけではない。今でも正体のわかっていない海外の先史時代のフィギュアの謎を解くこともできるのである。
 そのためにもまず、日本が保有している土偶を学術的な方法で解読する必要がある。たしかに土偶は文字ではない。しかしそれは無意味な粘土の人形でもない。造形文法さえわかれば、土偶は読むことができるのである。つまり土偶は一つの〝造形言語〟であり、文字のなかった縄文時代における神話表現の一様式なのである。
 そしてそこからひらかれる道は、はるか数万年前の人類の精神史へとつながっている。私の土偶の解読結果が広く知れ渡れば、日本だけでなく、世界中の人びとがJOMONの文化に興味を寄せ、そしてJOMONというユニークなフィギュアが体現する精神性の高さに刮目することだろう。
 本書を通読するのに専門知識は不要である。必要なのはただ、土偶を製作した縄文人たちの生活に思いを馳せ、先入観を捨て、目の前にある土偶をありのままに観察する〝素直な心〟だけである。」

「私は直感的なヴィジョンによって、遮光器土偶がある根茎類をかたどっているのではないかという着想を得た。----土偶が植物をかたどっている?もちろんそんな奇妙な説は聞いたこともない。しかし、私はある一冊の書物のことを思い出していた。一九世紀末にイギリスの人類学者ジェームズ・フレイザーが著した『金枝篇』である。」
「『金枝篇』は、イタリアのネミという村に古代から伝わる「王殺し」の風習の謎に挑むという内容で、直接的には土偶とは関係がない。しかし、この「金枝」というのがポイントなのである。金枝とはネミの湖のそばに生えるヤドリギのことを指している。ネミのしきたりによれば、この聖なる樹の枝(金枝)を手折ることを唯一許されているのが逃亡奴隷で、この奴隷が金枝を手に入れ、聖所にいる「森の王」を殺害すると、この奴隷が新たな森の王として祭司を継承するというのである。
 フレイザーはこの不可解な風習の謎を解くためには、金枝が象徴する植物の死と再生の観念に注目し、そこから古今東西の膨大な神話・儀礼・呪術。タブーを集成していく。このときフレイザーが特にページを割いて取り上げているのが、植物に宿る精霊たち、つまり「植物霊」という観念である。」
「「野生の思考」を生きる人びとにとって、植物を適当に植えるということはあり得ない。播種が行われるのは単なる畑ではなく、植物霊が集う聖地だからである。一粒の小さな種が発芽し、伸張し、何倍もの数の種を実らせるのはまさに奇跡であって、精霊(=生命力)の力と守護がなければ絶対に成就しない事業である。
 それゆえ播種にあたっては、植物の順調な活着と成長を精霊に祈願してさまざまな呪術的儀礼が行われる(これらは「予祝儀礼」と呼ばれる)。初根・発芽すれば今度は苗が順調に育つための呪術的儀礼が必要となる。また、実生のための儀礼や害虫を退散させるための儀礼、さらには収穫に際しての儀礼など、食用植物の資源利用には数多くの呪術とタブーが存在している。」

「「植物祭祀の痕跡が見つかっていない」のではなく、本当はすでに見つかっているのに、われわれがそれに気付いていないだけだとしたらどうだろうか。
 つまり。「縄文遺跡からはすでに大量の植物霊祭祀の痕跡が発見されており、それは土偶に他ならない」というのが私のシナリオである。このように考えれば、そしてこのように考えることによってのみ、縄文時代の遺跡から植物霊祭祀の痕跡が発見されないという矛盾が解消される。」

「私は土偶解読と並行して国立国会図書館に通い、これまでに自分と同じような説を唱えた人がいないか過去の文献をチェックするということをした。明治期以降に書かれたほぼすべての土偶関係の論考に目を通したが、そのような人は一人も見当たらなかった。
 しかし、これはよく考えてみると、とても奇妙なことであった。たとえば椎塚土偶。ハマグリの形にあれだけそっくりな頭部を持つ土偶が、大量のハマグリが堆積する遺跡から見つかっているのである。誰か一人くらい「あれ? これってハマグリに似てない?」という人がいてもよさそうなものではないか。(…)これはむしろ異常なことではないか?」
「私はここに近代社会を牽引してきたモダニティ精神の限界とその歪さを感じ取らざるを得ない。学問の縦割り化とタコツボ化、そして感性の抑圧、女性性の排除----。新しい時代へ向けて社会に変化が生まれつつある一方で、官僚化したアカデミズムによる「知性の矮小化」はいまだ進行中なのではないかと私は感じている。そして、その対極にあり続けたものの象徴が縄文土偶だったのではないかとも。
 これまで男性たちによって独占的に形成されてきた「職業としての学問」では土偶の謎は解けなかった。これは鋼鉄をも斬り裂く石川五ェ門(「ルパン三世」)の斬鉄剣が「こんにゃく」は切れなかったというエピソードを想起させる(ちなみに彼の苦手なものは「女性」である)。とまれ、職業として分業化された「細切れの知性」では、土偶が体現する〝全体性〟にはアクセスできなかったのである。
 この〝全体性〟は身体性と精神性を統合する生命の摂理そのものであり、この地球上でわれわれ人間が環境世界と調和して生きるために不可欠なものである。土偶を生み出した縄文人たちが数々の自然災害や気候変動を生き抜いてきたことを思えば、それは〝滅びの道〟を回避する実践的な知恵の象徴でもある。われわれがこの〝全体性〟にアクセスできないとすれば、それはわれわれの知性が劣化し、危機に瀕していることを意味する。
 その最大の原因は、近代になって、われわれが自らを「脱魔術化」した存在であると考えるようになった点にある。これはまったくの誤認である。われわれは気づいていないだけで、われわれは縄文人たちが呪術的であるのと同じくらい呪術的存在である。そして依然として、われわれは神話的世界を生きている。
 また、人間の知性の特性は演繹や帰納にあるのでもない。われわれの現実世界を構成し、意味世界を生成させ、あらゆる精神活動の基盤をなすものはアナロジーである。演繹や帰納は数学的理性や科学技術を起動させ、物質世界を制御する力を高めてくれるが、人間存在にとって最も重要な〝生命への共感力〟を高めるものではない。アナロジーを欠いた思考は全体を全体のままに捉えることができず、世界の細部に生命の本質たる〝神〟が宿っていることを理解できない。」

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