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逆卷しとね「自由と不自由のあいだ/拘束をめぐる身体論」 第3回「個人認証と不審な《この生》」

☆mediopos2629  2022.1.27

自己紹介や
プロフィールの掲示は
社会的承認のための
一種の儀式だが

そのために使われる各種項目は
じぶんの社会的「属性」で成り立っていて

じぶんをそれらと同一視して
疑わないでいるひとたちもいるが
「属性」をじぶんだと思いこむと
それらに拘束され自縄自縛になり
それらから自由であることができなくなる

とはいうものの
「自我同一性」や「自己同一性」
といった意味で用いられることの多い
「アイデンティティ」なるものは

文化的・民族的アイデンティティや
ジェンダー・アイデンティティといった使われ方をするように
「個人の自己感覚・意識をなんらかの理想・イメージ・「属性」を
表す名詞に「一致させるアイデンティファイ」傾向」があり
「アイデンティティ」といわれるものそのものが
矛盾と限界のもとにあるともいえる

「アイデンティティ」の根底にあるのは
他者とは異なったものとして
「わたしはわたしとして存在すること」を確かなものとすることであり
それは「わたしという存在のかけがえのなさ」と
「時間の経過を経てもなおわたしとして認めうる一貫性」が求められるが

それを突き詰めて
とくに社会的な承認や権利の問題としてとらえるとき
「属性」にみずからをアイデンティファイしてしまうことになるのだ

今回引用している逆卷しとね氏のテキストで
紹介されている鷲田清一の論では
アイデンティティの問題系が
「固有性」と「人格の同一性」のふたつに分けられている

「固有性」の問題系は
「自分探し」のように
「他の誰とも違う唯一の自分」を求める「フィクション」にかかわり

「人格の同一性」の問題系は
「時間的変化を経てもなお維持される自己の同一性の問題」
に関わっているが

鷲田清一はこの二つの問題を
「所有が串刺しにしていると考え」ているという

そしてこの二つの根底にあるのが「自己の所有」
「<存在>を<所有>に定位して理解しようとする思考」である
というのである

そして鷲田清一は他者論へと向かう
「モノの同一性が崩れたり、自己を所有することへの強迫観念が
自己同一性アイデンティティを揺らがせたりするときに、
他者へと開かれていく」というのである

さてここでの「他者」への「開かれ」だが
おそらく重要なのは「プレ」と「ポスト」なのだろう

みずからのアイデンティティなるものを
社会的諸属性に無前提無自覚のままに同一化させ
みずからの「プロフィール」を疑わないまま
むしろそれを強化させるかたちで社会的承認を求めるあり方か

むしろみずからを社会的諸属性に同一化させ得ないがゆえに
「プロフィール」なるものからいかに自由になるかを求め
「わたし」という存在を「他者」へと開いていくかである
もちろんそのとき「社会的承認」が求められているのではない

■逆卷しとね「自由と不自由のあいだ/拘束をめぐる身体論」
 連載 第3回「個人認証と不審な《この生》」2021.8.26
 (Webサイト「生きのびるブックス」より)
https://ikinobirubooks.jp/series/sakamaki-shitone/345/

「僕は自己紹介が苦手だ。所属や職業、趣味をスマートに紹介できない。自己紹介の定型で用いられる項目のすべてが僕の場合は空欄であり、他人が常識として共有している「自己」の指標にいささかも関心がないのだから無理もない。体裁だけ整えるなら、「野良研究者/学術運動家」という肩書を挙げることになる。ところが、僕にはその肩書らしきものの意味がよくわからない。「地球防衛隊です」と言っている感覚に近い。聞いている側もさっぱりわからないだろう。そこで手心を加え「HAGAZINE九州支部」や「在野研究者」という比較的穏当に聞こえる余地のある自己紹介をすることもある。」

「「アイデンティティ」(“identity”)は、14世紀フランス語に由来する、「同一であること、ひとつであること、同一である状態」を指す言葉だ。この用語は通常、発達心理学者エリク・エリクソンの「自我同一性」(ego identity)や社会学における「自己同一性」(self-identity)の意味で使われることが多い。その延長線上に、ある集団に対する同一化を表す文化的・民族的アイデンティティ(アフリカ系アメリカ人、「アイヌ」、縄文文化圏)や、個人の自己認識と規範との関係性を示す「ジェンダー・アイデンティティ」(シスジェンダー、トランスジェンダー、ノン・バイナリー)のような用法がある。いずれにしてもアイデンティティの問題系が焦点とするのは、個人の自己感覚・意識をなんらかの理想・イメージ・「属性」を表す名詞に「一致させるアイデンティファイ」傾向である。」

「《個人》のホラーという言葉で僕が想定しているのは、たとえば、「女性」や「公務員」、「ニカラグア人」といった名詞に自己同一化アイデンティファイしている個人が、その同一性アイデンティティを喪失するような事態だ。結論を先どりしてしまえば、失職して「無職」に転落する、性の揺らぎを経験する、祖国を失い難民になることへの恐れは、自己同一性を保証する国家的・社会的な《個人》の制度に由来している。実際、社会保障番号、マイナンバー、戸籍、免許証、保険証、パスポート、果てはウイルスソフトのアクティベーション・キーからTカード、レンタルDVDの会員証に至るまで、個人の正体を保証するドキュメントや数字には事欠かない。これらの存在は、「お前は何者でもない」という権利はく奪の宣告と紙一重だ。ひとたび証明書を紛失してしまえば、さまざまなサービスを受けることができなくなる。警察が職務質問の際に、身元を示す証明を求めてくるのも同じ理由による。この社会は得体の知れない不審者を恐れる。その裏返しとして、個人は固有名や職業、住所などの複数の名詞を所有することに固執し、不審者に転落することを恐れる。
 名詞を失うことへの恐れは、ある名詞に対する自己同一性アイデンティティを社会的に承認してもらえないことへの怒りと同根である。」

「自己同一化には限界がある。しかしそれでもなお、わたしはわたしとして存在することが確証されなければならない。自己同一化の社会では、わたしという存在のかけがえのなさと、時間の経過を経てもなおわたしとして認めうる一貫性が要請される。《個人》のフィクションを生きるためには、わたしは他とは異なる個人としていつも「決定」されていなければならない。」

「社会的承認のはく奪や権利の喪失に対する怯えは、他の誰とも異なる個人を際立たせ「ひとつの全体」として維持する、自己同一化のシステムと背腹の関係にある。とりわけ本連載初回の《個人》と所有の問題を念頭に置くなら、所有とアイデンティティを同系の問いとして並べる鷲田清一の論は示唆的だ。

 鷲田はアイデンティティの問題系を「固有性」と「人格の同一性」のふたつに分ける。固有性は、自分探しやわたしがわたしとして定まらないという危機アイデンティティ・クライシスの渦中にある(長い)思春期のように、他の誰とも違う唯一の自分を画定させなければならない、というフィクションにかかわる。他方、人格の同一性に託されているのは、「時間のなかでの身体の不断の様態変化をつらぬいてわたしが<わたし>として同一の持続的存在であるのはどうしてか」という主題である。つまり、ものごころつく前の幼児の僕と今ここで蕎麦を啜っている僕が連続した存在であるという、時間的変化を経てもなお維持される自己の同一性の問題である。
 鷲田は、固有性と人格の同一性というアイデンティティの二大テーマを所有が串刺しにしていると考える。」
「 自己同一化は、他者とは異なる「わたし」のなかに「わたし」の基礎となるもの(固有性)を探し求める運動と過去の「わたし」と今の「わたし」の一致(自己の同一性)を追求する運動のふたつからなる。このふたつの運動の原動力となるのが「自己の所有」、すなわち「<存在>を<所有>に定位して理解しようとする思考」である、と鷲田は考える。鷲田はこの後、モノの同一性が崩れたり、自己を所有することへの強迫観念が自己同一性アイデンティティを揺らがせたりするときに、他者へと開かれていく契機について論を展開している。鷲田のように、自己の所有を挫く契機に自らの存在を認めてくれる他者の次元へと「わたし」が開かれる、というのは他者論の典型でもある。」

「自分の存在を「名詞」に同一化して行われる自己紹介は、あくまでも個人の単位での正体や立場、身元を明かすことを常識とする慣習に従っているにすぎず、実はその胡乱うろんな内情をなにも語っていない。「学術運動家」という肩書は怪しい。「野良研究者」という肩書も明らかに怪しい。これらの肩書が怪しく響くのは、それらが職業として確立していないと同時に、その背後にある動詞の群れが見えない、つまり「なにをやっているのかわからない」からである。不審者である。不審者は「名詞」に頼ることができない。喪失するかもしれないなにかをそもそも所有していないからだ。だからなにをやるか、どうやるか、なぜやるか、なにと、誰とやるか、という動詞をめぐる関係性だけが問われる。

 アイデンティティに関する《個人》の喪失感や恐れは、このような「動詞」的な関係がその名詞に表象されているという信仰にあるのかもしれない。つまり、多彩に蠢く動詞の群れからなる「わたし」を単一の名詞に同一化する習慣とその同一化の不完全さが、失職やはく奪などの《個人》の恐怖の根源にあるのかもしれない。だが《この生》を生きているのは、名詞ががらんどうの、動詞に巻き込まれた不審な生である。それは僕だけではない。《この生》から眺めれば、IT企業の社長だろうが、路上生活者だろうが、マッサージ師だろうが、殺し屋だろうが、アーティストだろうが、その不審さは変わらない。あらゆる名詞は空っぽで、動詞の蠢きとその意想外のもつれに蹂躙されている。みんな不審者である。不審者に転落するかどうかは問題ではない。なにをやらかしてしまっているか、どのアクションに応えているのか。不審者として生きてしまっているという現実のなかに《この生》のホラーはある。
 
 「わたしたちの具体化」とは名詞の列挙ではない。それは「わたしたち」という人称をいつも不審なものにしてしまう、野良犬のごとき動詞たちが切り拓くけもの道の軌跡である。」

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