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三輪眞弘(監修)・岡田暁生(編)『配信芸術論』

☆mediopos3541(2024.7.28)

これから音楽はどうなっていくのだろう

コロナ禍の影響下において
「ライブ演奏」は激減し
ネットで聴く機会が飛躍的に増えることになった

ライブで演奏できない音楽家は
ネット空間にその活動を移しはじめ
ライブにでかけられない聴衆は
積極的にネット空間を活用するようになった

そして大量の音楽と聴衆が
ネット空間にあふれはじめ
ライブ演奏が再開されるようになった現在も
そうしたネット空間が日常化している

『配信芸術論』の監修者・三輪眞弘は
2020年9月19日深夜において
無観客・アーカイヴなしのオンライン配信で開催された
音楽的事件ともいえる「三輪眞弘祭」において
これからの音楽実践のありかたを
ラディカルに問いなおし定義する試みをおこなった

岡田暁生はその2020年を
「音楽聴のシンギュラリティ」として
その基本的な視点を『配信芸術論』の「はじめに」で論じている

「かつて三輪眞弘は「生で聴く音楽」と「録音された音楽」は
演劇と映画くらい違うものであるとして、
前者を「音楽」、後者を「録楽」とよんで区別することを提唱した」

「身体の現前vs不在」「運搬可能性vs可能性」
「時間の不可逆性vs可逆性」「出来事性vsモノ性」
「複製不能性vs可能性」といったように
両者の音コミュニケーションモードは全く異なっている

しかし現在のような「ネットで聴く音楽」は
すでに「録楽」とは異なっている

ネットで聴く音楽はレコードやCDにあった物質性がなく
「データだけが巨大情報ネットワークを半永久的に漂いつつ、
まるで聖霊が降るようにして、
ときおりPCやスマホのモニターに現象する」

「しかも当該デートはいつのまにか
ネットワークから消えていたりもする。
〝ありか〟がいっこうに特定できない」

「どこにもありかがなく、どこかを漂っている」のである

『配信芸術論』は「「音楽」でも「録楽」でもないものとして、
「ネットで体験する音楽」を考えようとする試み」
として編まれている

「わたしたちは音楽史の
シンギュラリティを踏み越えようとしている」が
その「音楽⇨録楽⇨ネット配信楽」という流れは
音楽の歴史の必然でもあるという

作曲家・三輪眞弘は京都大学人文科学研究所において
共同研究班「「システム内存在としての世界」についての
アートを媒介とする文理融合的研究」(二〇一九——二一)を
班長として行ってきたが

そこでキーワードとなったのは「システム」だという

わたしたちはいまや
世界を覆う情報ネットワークのシステムの内にある
「情報システム内存在」となっていて
「わたしたちが昔と変わらぬ「音楽」だと思っているものの大半が、
いまやテクノロジーによって再構成された
「情報システム内現実」になりつつあるのかもしれない」
というのである

「情報システム内現実」としての「音楽」を
たんなるヴァーチャルなシミュレーションとしてではなく
「ネットワーク空間をともなう奉納」のかたち」として
「配信芸術」というコンセプトにおいて
「情報とそれらを可能にしている技術的なシステム全体」を
「作品」としてとらえている

そしてそれは物質性を脱しているがゆえに
ほんらいの音楽の属性である
スピリチュアルな「超越的体験としての音楽」ともなり

その超越性と深くむすびついた
根源的な意味での「超越者への奉納」ともなり得る・・・

現在そうした「配信芸術」から逆に
アナログな「録楽」の象徴でもあるレコードが
クローズアップされてきたりもしているのだが

わたしたちはネット空間を活用しながらも
そうした「情報システム内存在」から脱することでも
ほんらいの音体験を求めようとしているのだろう

「情報システム内」において
「超越」を図ろうとするか
あるいは「情報システム」の外において
「超越」を図ろうとするか

おそらくその両者は
矛盾しているようで両輪のように働きながら
音体験を深め得るものなのではないだろうか

なにより重要なのは
豊かに耳を開くということなのだろうから

■三輪眞弘(監修)・岡田暁生(編)『配信芸術論』
 (アルテスパブリッシング 2023/10)

**(「はじめに」〜「岡田暁生|音楽聴のシンギュラリティ2020?」より)

*「かつて三輪眞弘は「生で聴く音楽」と「録音された音楽」は演劇と映画くらい違うものであるとして、前者を「音楽」、後者を「録楽」とよんで区別することを提唱した。「身体の現前vs不在」「運搬可能性vs可能性」「時間の不可逆性vs可逆性」「出来事性vsモノ性」「複製不能性vs可能性」など、たしかに両者はまったく異なった音コミュニケーションのモードだ。とりわけ、「音楽」が人間の自然的身体で奏でられることを基本とするのに対して、「録楽」には電気の介在が不可欠だという違いは大きい。しかしながら、CDやラジオと同じく電気メディアを介するからといって、「ネットで聴く音楽」も単純に「録楽」にカテゴライズしてよいものだろうか? 従来型の録楽とネット音楽とでは、なにかが決定的に違ってはいないか?」

*「ネットで聴く音楽の最大の特徴は、その究極の非物質性にある。レコードやCDにはそれなりの物質性があった。」

「PCやスマホで聴く音楽にはほぼ重さがない。データだけが巨大情報ネットワークを半永久的に漂いつつ、まるで聖霊が降るようにして、ときおりPCやスマホのモニターに現象するといったふうである。しかも当該デートはいつのまにかネットワークから消えていたりもする。〝ありか〟がいっこうに特定できない。」

*「こうした浮遊感との関係で注意をうながしたいのが、「現場(オリジン=起源)から届けられるか否か」という問題である。伝統的なライブはもちろんのこと、従来の録楽にもそれなりの「現場」はあった。」

「しかしながらネット音楽はいったいどこから〝ここ〟に届けられるのだろう? 複雑なデータ記号に変換され、コピーを繰り返し、勝手な編集をされたかもしれず、かつ迷宮のように世界じゅうのサーバを経由しているものについて、いまだに「現場(=オリジン)から届けられる」を云々できるだろうか。」

**(「はじめに」〜「岡田暁生|音楽聴のシンギュラリティ2020?」
   〜「1 通称「三輪班」と配信音楽イヴェント「浄められた夜」」より)

*「端的にいって本書は、「音楽」でも「録楽」でもないものとして、「ネットで体験する音楽」を考えようとする試みである。こういうテーマで本を作るにいたった経緯には長い前史があって、それは作曲家である三輪眞弘の創作活動と不即不離に結びついてきた(・・・)。」

「従来「芸術」と呼ばれてきたものこそ人文工学の端的な実践例なのではないか、という主張におおいに影響を受け、なにか人文学の「研究」と芸術作品の「創造」が一体になったようなプロジェクトができないかと思いはじめた。こうやって生まれたのが、京都大学人文科学研究所における、三輪氏を班長とする共同研究班「「システム内存在としての世界」についてのアートを媒介とする文理融合的研究」である(二〇一九——二一)。」

「この研究班=三輪班のキーワードとなったのは「システム」である。わたしたちはどうやったって世界を覆う情報ネットワークのシステムの外には出られないし、ネットを介してその端末につながれることによって以外、生存すらおぼつかなくなっている。ハイデガーの「世界内存在」の概念をもじるなた、わたしたちは「情報システム内存在」であり、音楽もまた人間のいとなみである以上、例外ではありえまい。わたしたちが昔と変わらぬ「音楽」だと思っているものの大半が、いまやテクノロジーによって再構成された「情報システム内現実」になりつつあるのかもしれない————この感覚はメンバー全員に共有されていたはずである。」

*「「ぎふ未来音楽展2020 三輪眞弘祭 ——浄められた夜——と題されたライブ配信イベントが無人のサラマンカホールからライブ配信されたのは9月一九日、二三時から二六時のことである。」

「このイベントが深夜というきわめて変則的な時間帯に、しかもリアルタイムのみの配信とされたのは、ライブほんらいの「時間と空間の共有」のうち、せめて時間の共有と一回性(あのときあそこで)だけは絶対に守るという三輪氏の意図である。」

**(「はじめに」〜「岡田暁生|音楽聴のシンギュラリティ2020?」
   〜「2 四つのモティーフ」より)

*「「三輪班」発足からイベントを経て本書にいたるまで、このプロジェクトには一貫したいくつかのモティーフがあったと思う。」

「(1)まず「超越的体験としての音楽」ということ。これは「ネットで聴く音楽を人類史的なスパンのなかで考える」とも言い換えられる。というのも、音楽のそもそもの起源には宗教があるわけで、近代においてどれだけ世俗化されようともその根っこは残っており、配信音楽とて例外ではないだろうからだ。それどころかネットで聴く音楽は、完全に脱物質化されて「ありか」が揺らいでいるがゆえに、昔から音楽の属性とされてきたスピリチュアル性のようなものに最接近すらしているのかもしれない。」

「(2)超越性と深く結びついているのは「倫理」の問題である。儀礼と結びついていた時代の音楽は、「そこに物理的には存在していないなにか(誰か)」(それを「神」といった言葉で人は表現してきたのだろう)の臨在を強く意識しながらいとなまれていたはずである。しかし近代は音楽を儀礼から切り離してホールという世俗空間に移動させた。(・・・)もちろん放っておけばネットは、こうした結衣画的唯我的で受動的な消費をさらに加速させるだろう。それに対して本書では、最低限の受け手の倫理————三輪氏がよく使う言葉を借りれば「超越者への奉納」という音楽の根源————を、ネットで聴く音楽にあってどう担保できるかが、暗黙の焦点のひとつとなっている。」

「(3)本書のいわば仮想敵は「道具&内容の二分法」である。ややもすると人は遠隔通信技術を、「内容=コンテンツ」を伝えるニュートラルな「道具」だと考えがちである。(・・・)「この〝音楽〟は、そしてそれを聴いているわたしたちの聴回路は、ほんとうにかつてと同じなのか?」という自問はつねに強く意識しておきたい。」

「(4)このことは「生命メタファーに疑問を呈する」ということともつながるであろう。生命メタファーとは「ほんもの感」とか「臨場感」といったものだ。(・・・)しかしイヤホンから聞こえてくる奇妙な音響を、いまだに素朴な生命メタファーで考えていいものだろうか。情報ネットワークを漂う音楽データは、たとえば人工生命とかバクテリアのモデルで考えるべきなにかではないか。生きているはずのないものが生きているように聞こえはじめるという逆説こそ、PCで聴く音楽のおもしろさではないか。」

**(「はじめに」〜「岡田暁生|音楽聴のシンギュラリティ2020?」
   〜「3 魔法のガラガラ————音楽の究極型としての配信音楽」より)

*「どこにもありかがなく、どこかを漂っているという点で、ネットで聴く音楽は従来的な録楽=旧録楽とまったく異なっている。その意味でわたしたちは音楽史のシンギュラリティを踏み越えようとしているといえるだろう。しかし他方、「音楽⇨録楽⇨ネット配信楽」という流れは音楽の歴史の必然でもあるということを見逃してはならない。」

*「哲学者のエルンスト・ブロッホに「魔法のガラガラと人間竪琴」というおもしろいエッセイがある。それによると、太古において音楽とはここにあるガラガラが突如として音を立てはじめることだった。音はモノと結びついていた。太古は魔術的なモノであって、だからこそ呪術的な装飾をほどこされもした。しかしピッチが確定されメロディい形姿を整えられるとともに、「音」は魔法のガラガラから解放されて「音楽」になった。ブロッホはその象徴的始原を牧神の葦笛にもとめる。いまや音楽はあまねく存在するもの、「自由に漂うもの」となる。このガラガラが鳴るのではない。音楽はいわばモノから幽体離脱して、ここでもあそこでも鳴る。遍在する・かくして「天体の音楽」の比喩が生まれ、音楽とはどこにもあると同時にどこにもないもの、宇宙を浮遊するものになったとブロッホはいう。情報ネットワークを半永久的に漂っている音楽データは、音楽のこうした脱物質化の最果てである。」

*「しかしながら、こうして音楽の脱物質化と亡霊化がどれだけ進もうとも、「音が鳴るモノ」という具体的な魔術が完全に消えることもまたあるまい。さきに引用にしたブロッホの論考には次のようにある。「〈どこにも=ある〉と〈どこにも=ない〉とが最終的な正当性をもつにいたる」近代になってもなお、響きが生まれるさいの「最初の〈どこで〉が失われてしまったわけではない」。かつての物魔術(あるいは素材魔術ともブロッホはいう)の残滓を今日なお強く残した例として、ブロッホが挙げるのは歌手である。「歌手は今なおみずから鳴る太鼓である」。歌手にあっては、いまここにある肉体が音の発生現場になる。肉体はモノから切り離されて宇宙に遍在する音楽を響かせるためのたんなる媒体ではない。いまなおそれじたいが振動するモノでありつづけているのだと彼はいう。

 ブロッホが歌手を物魔術の残滓の典型として挙げるのは、それが個別のモノ(歌手個人の身体)ともっとも密接にへばりついていて、抽象化が不可能な音響発生体だったからであろう。しかし今日ではいうまでもなく人の声もデジタル構成されてしまう。(・・・)であってみれば、今日における物魔術の残滓の典型は、歌手ではなくPCではなかろうか? (・・・)それは音楽の長い脱物質化の歴史の果てであると同時に、世界じゅうのどんな音楽も聴かせてくれる二一世紀の魔法のガラガラだ。「ネットで聴く音楽」はこれまでの音楽の歴史の必然であり。同時になんらかの一線をどこかで踏み越えようとしており、しかしまた、デジタル・テクノロジーによる原点=物魔術への回帰という面ももっているように思われる。」

**(「おわりに」〜「三輪眞弘|配信芸術、あるいは「録楽」の未来」より)

*「いつもぼくは「テクノロジー」について、「それは人間にとって有用だが使い方によっては危険なものになる」などという説明は詭弁だと思ってきた。それはテクノロジーの「使い方」を、あたかもぼくらが自由に決定できるかのように語っているからだ。そんな自由などあったためしはなく、まさに人類の歴史とは、テクノロジーという「毒」をもって、テクノロジーという「毒」を制すいとなみだったとぼくは考えている。そして近代以降の「先進国」が「永遠に続く技術革新とエネルギー供給」をすべての前提として人類の未来を思考するようになったという驚くべき現実を理解してから、ぼくは(現実をヴァーチャル空間に再現してみる「シミュレーション」ではなく)コンピュータ空間のなかで検証されたできごとを現実空間のなかで「奉納」として実施する、すなわち人力で再現/体験する「逆シミュレーション音楽」という音楽の方法論を考えた。そして、さらに近年のコロナ禍のなかで、この現実空間に加えてネットワーク空間内でも日常生活をいとなみはじめたぼくらにとっての「ネットワーク空間をともなう奉納」のかたち、すなわち表現の可能性を考えた。

 ぼくにとっての「配信芸術」というコンセプトは、ほんらい「実空間、実時間」において体験されるはずのできごと(表現)を映像や音声データとして伝達する「実体験の代替」としての配信ではなく、情報とそれらを可能にしている技術的なシステム全体を表現、すなわち「作品」としてとらえるものである。」

*「アナログの写真や映画やレコードや放送が、現実世界で起きたできごとの痕跡を定着し、それらを送受信して再現するものだったのに対して、現在のぼくらのデジタルなメディア体験は、現実世界のできごと(現象)を測定し、数値化されたそれらの情報を保存し。情報を「複写」「転送」し、転送された情報をもとに、再現ではなく「合成」する技術によって成立している。そうであるからこそ、その下腿はたとえ現実世界に起源をもたない情報によってではあっても、同様に実現可能なのである。その場合、それをもはやデータの「改竄」とはよばない。なぜならその「オリジナル」そのものが存在しないのだから。」

□CONTENTS

はじめに
岡田暁生|音楽聴のシンギュラリティ2020?
伊東信宏|すべてはここからはじまった 19 September 2020 (Sat), 22:00 open, 23:00 start, 26:00 end ── 一聴取者によるイベント・レポート
I ライブと「そこにいない誰( 何)か」
山﨑与次兵衛|二分心崩壊以後/シンギュラリティ以前の展望からみたライブの可能性
 編集会議バックヤードより
岩崎秀雄|音楽はどこまで「生きている」のか──「音楽≒生命」メタファーから「音楽≒ウイルス」メタファーへ
 編者独白
II 配信芸術の考古学
 編者口上
瀬戸口明久|機械化時代における音楽・科学・人間──兼常清佐のピアノの実験
 編者口上
松井 茂|中継芸術の系譜──テレビジョンをめぐる配信芸術前史
III 「立ち会うこと」と配信芸術──映像作家 前田真二郎氏を囲んで
IV 〈いま-ここ〉の存在論と亡霊
 編者口上
佐近田展康|「亡霊機械」と〈いま-ここ〉の生成
 編集会議バックヤードより
 編者独白
佐藤淳二|〈仮死〉と〈亡霊〉の配信──三つの神学の彼方へ
 編者独白
おわりに
三輪眞弘|配信芸術、あるいは「録楽」の未来
付録|サラマンカ宣言──ぎふ未来音楽展2020 三輪眞弘祭 ─清められた夜─
   MUSICA CRAS GIFU 2020 Masahiro Miwa Festival ― Purified Night ―

○三輪眞弘(みわ・まさひろ)
1958年東京生まれ。ベルリン芸術大学、ロベルト・シューマン音楽大学で作曲を学ぶ。1989年入野賞、2004年芥川作曲賞、2007年プリ・アルスエレクトロニカでグランプリ(ゴールデン・ニカ)、2010年芸術選奨文部科学大臣賞、モノローグ・オペラ《新しい時代》の再演(2017)および「三輪眞弘祭 ─清められた夜─」無観客ライブ公演(2020)で2020年佐治敬三賞、サントリー音楽賞などを受賞。『三輪眞弘音楽藝術 全思考1998-2010』(アルテスパブリッシング、2010)をはじめ、CD『村松ギヤ(春の祭典)』(フォンテック、2012)や楽譜出版など多数。「フォルマント兄弟」の兄。情報科学芸術大学院大学[IAMAS]教授。

○岡田暁生(おかだ・あけお)
1960年京都生まれ。京都大学人文科学研究所教授。専門は近代西洋音楽史。著書に『リヒャルト・シュトラウス 人と作品』(音楽之友社、2014)、『音楽の危機』(中公新書、2020、小林秀雄賞受賞)、『音楽の聴き方』(中公新書、2009、吉田秀和賞受賞)、『西洋音楽史』(中公新書、2005)、『オペラの運命』(中公新書、2001、サントリー学芸賞受賞)、共著に『すごいジャズには理由がある』(アルテスパブリッシング、2014)など。

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