見出し画像

マルクス・ガブリエル『「私」は脳ではない』

☆mediopos-2260  2021.1.23

人間はかつて
霊魂体という三分節だったが
そこから霊が消され
続いて魂と体から魂が消され
いまでは体という物質体だけが
人間になってしまった

つい20年ほど前までは
「霊」という表現はもちろんのこと
「魂」という言葉さえ使いづらかったほど

池田晶子『魂を考える』がでたのが1999年
その頃はまだ「魂」さえテーマになり難かった
いまはもう信じられないことなのかもしれないが
シュタイナーの人智学でさえ
その頃はまだ霊という言葉が避けられ
「精神」という訳語が多く使われていたくらいだ

「私は脳である」というのは
そのことを象徴している
「唯脳論」さえあるように

人間のさまざまの行動や感覚や感情を
いわゆる科学的に説明しようとするとき
それが脳の働きに還元されることがよくある
そしてもっとも説明しがたいところになると
よく「海馬」が持ち出されたりもする

脳のなかで「海馬」は霊的な働きと
密接につながっている部位ではあるけれど
ほかの部位と同じく「海馬」にしても
霊的な位相への変換器であるといえる

脳の機能をいくら詳細に解明したとしても
それによって人間の精神を説明することはできないし
それを精神における自由の根拠とすることはできない

人間にとって最も重要なのは
その精神における自由であるといえる
その基礎の上に立ってはじめて
法における平等と
経済における友愛が可能となる
そのことはシュタイナーが
有機体三分節として論じたところだ
(ちなみに決して三層という階層ではなく三分節である)

「私は脳である」ということからは
脳における自由は成立しえない
脳はハードウェアであって
そこにソフトウェアがインストールされてはじめて機能する
ハードウェアとソフトウェアを
それぞれ霊魂体の体と魂とすれば
そこにはさらに霊(精神)が必要になる
そしてそれこそが自由を可能にする

昨今人気のマルクス・ガブリエルの
「新しい実在論」についての議論は
あえて言及する必要のないほどの内容だけれど
極めてベタなタイトルである
本書の「「私」は脳ではない」ところからしか
いかなる精神生活も成立し得ないことだけは
共通認識とされる必要がある

かつて松本零士作の漫画「銀河鉄道999」で
主人公の星野鉄郎は永遠の命に憧れ
機械の体を無料で貰えるという終着駅の星を目指す旅をするが
機械は決して永遠ではなくそこに自由の可能性もない
AIがどんなに発達したとしても
そこに精神は存在し得ないのだから

■マルクス・ガブリエル(姫田多佳子 訳)
 『「私」は脳ではない/21世紀のための精神の哲学』
 (講談社選書メチエ 2019.9)

「私が自著の数々で展開している新しい実在論は、二一世紀の哲学として構想されたものです。本書のテーマになっているのは、人間を一つの総体として、すなわち自らの自己決定において自由な、精神をもつ生き物として認識することです。人間とは自己決定において失敗することがある生き物です。ですから、私たちは精神を病み、病的になることがあります。本書で名を明示し、その克服に努めることになる病とは、神経(ニューロ)中心主義です。神経中心主義とは、私たちの精神生活は脳と同一視することができ、したがって人間を神経ネットワークに置き換えることができる、という考え方のことです。これは根本的に誤った考え方です。神経中心主義は人間をおかしくします。なぜなら、神経中心主義に侵されると、もはや私たちは自分自身を認識できなくなるからです。
 本書のクライマックスは、自己決定という精神の自由を擁護することです。これはフランス革命に始まった近代民主主義の基本であり、これからもそうあり続けます。」
「私たちは皆、徹底的に自由です。でも、それは自己決定が勝手に機能するということではありません。自由を活かすこともできれば、うまく活かせないこともあるのです。人間にとって最も危険な敵は、自分自身や他者について誤ったイメージを作り上げる人間であることを、私たちは認識しなければなりません。今日広まっている危険なイデオロギーは、実は私たちとは同一視できないものを私たちと同一視することで、人間を自己決定のレベルで台無しにしています。実は私たちと同一視できないものとは、脳あるいは脳の何らかの下位システムなのです。それに代わるとともに、自由に根ざしたグローバルな秩序の土台となるイメージが、ぜひとも必要です。私たちが自分の決断を自己決定という行為として認識できてこそ、私たちはよりよい政治状況を追求できます。コスモポリティックなビジョンをもたない政治は、結局のところ近代的(モダン)ではなく、前近代的(プレモダン)なのです。」
「人間を機械とみなすようなイメージから私たちを解き放ち、啓蒙の精神を再び鼓舞するため、私たち皆が−−−−生まれた土地や文化に関係なく−−−−分かち合い、共同で活用できるような、人間の精神の自由の防衛策が今必要です。」
「文化という意味での他者の中に自分と同じ人間を認めるとき、私たちはその人の脳ではなく、文化という意味で自分自身を決定する能力としての精神を認識しているのです。ここで大切なのは、この能力があるか否かであり、したがって友愛の情を示すことができるか否かです。」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?