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米山優『つながりの哲学的思考――自分の頭で考えるためのレッスン』

☆mediopos2948  2022.12.13

本書にはでてこないけれど
読みながらショーペンハウアーの
「自分の頭で考える」「著述と文体について」
「読書について」を思い出していた
これは「考えること」「読書」の基本といえる

「本を読むとは、自分の頭ではなく、
他人の頭で考えることだ。
たえず本を読んでいると、
他人の考えがどんどん流れ込んでくる。」

読書は「自分に頭で考える人にとって、
マイナスにしかならない」

「学者、物知りとは書物を読破した人のことだ。
だが、思想家、天才、世界に光をもたらし、
人類の進歩をうながす人とは、
世界という書物を直接読破した人のことだ」

本書も「考えさせられる」のではなく「考える」
つまり「思考という働きそのものに
受動的に関わる」のではなく
「能動的に関わる」ことを哲学の基本だとしている

モーセの十戒といういわば与えられる「戒」から
イエスの能動的な「愛」との違いでもあり
「知恵を愛する」という「哲学」の「愛する」も
思考における「受動性から能動性への転換」だという

そしてその「能動性」を
「つながり」という視点でとらえようとしている

つまり
「書物のつながり」
「学問どうしのつながり」
「言葉とのつながり」
「過去とのつながり、未来とのつながり」
「学問どうしのつながり」
「人と人とのつながり」
「文化間のつながり」

そしてそれらの「つながり」が
地球規模で成立させることができたとき
「社会全体が私たちにおいて思考」する
「集合的知性」が可能となる

・・・というわけだが
現状ではほとんどの「思考」が
与えられた知識を信じみ覚えるだけの
受動性のままの状態であるといえる

そんななかで本書で重要な役割を演じる
ピエール・レヴィという哲学者は
「現実的なもの」から「ヴァーチャルなもの」へ
という方向を強調する

ここでいう「ヴァーチャルなもの」というのは
〈いまだ可能性としても拓かれていないけれども、
いまの現実から発想されるもの〉であり
「いまだどこにもないものを新たに創り出す」
ということだという

本書でいう「つながり」は
思考の能動性を基本としているが
現状ではその基本がまったく創りだされないまま
受動における「つながり」
つまりは超管理社会への道が進んでいるようにみえる

自分で歩く/考えることを学べば
そこからすべては「善く生きる」につながるだろうが
その最初の一歩への転換をどうするか
やはりそれが最重要のもっとも困難な課題である

■米山 優
 『つながりの哲学的思考――自分の頭で考えるためのレッスン』
  (ちくま新書 筑摩書房 2022/12)

(「序章 哲学的に考えるとはどういうことか」より)

「考えさせられるのではなく考えるにはどうしたらいいのかということを、最初に示しておきます。それは、思考という働きそのものに受動的に関わるのか、それとも能動的に関わるのかという話だと言い換えられそうです。この能動と受動とを浮き彫りにするには、自分が考えるという働きによって初めて知を手に入れることとそういう自分の働きろは別にすでに成立しているかに見える知を覚え込むこととが同じなのかどうかをまず吟味してみるとわかりやすいでしょう。」

「哲学は知恵を愛するということと、知ることを愛するということだと私は書きました。では、〈愛する〉ことと、〈好きである〉こととは同じでしょうか。
 〈愛する〉とはあえて意志してそれを大事にすることだと私は思っています。ですから、苦しいけど進んでそれを大事にするということも、愛のあり方としてはありえます。さらに言えば、つらいけれどもなんとか続けているうちにそれに関わるいろいろな物事が見えてきて喜びが生まれてくることだってあるかもしれまsねん。〈自分が好きなことをする〉と〈自分がやっていることを喜ぶ〉との違いにこそ子どもと大人との違いがあるとまで言った人もいます。」

「イエスの話を思い出してください。ユダヤの律法に則って生きている人々はモーセの契約に基づいた天国行きという将来の自分に焦点を合わせることに躍起になっていました。そこに成立しているつながりに取り込まれ、閉じた社会に生きていたわけです。そういう将来の自分がイエスの言葉によって現在の自分の生き方へと引き戻されます。それによって、今どっぷりと浸かっている〈現在と未来の「目的」とのつながりそのもの〉が現在のなかで問いなおされるのでした。手段から目的へのつながりに振り回されるのではなく、手段を自分の意志で統御できるようになり、目的そのものを問い直すこともできるようになるわけです。受動性から能動性への転換です。
 それも、自分がやっていることに何らかのきっかけで疑問を抱いてしまうのではなく、自分のほうから意志的に問い直すことができるようになる場合もあります。(・・・)
 そうなると、「閉じた社会」のなかでこうしなければならないというつながりに縛りつけられていた人物が、「何のためにそうするのか」と問い始めるかもしれません。こういう類の問いまでが、他からの圧迫とか、降りかかってきた疑問とか、疲れたときに生じるバカバカしい問いとかではなく、デカルトのように自分があえて設定する問いとして立ち上がってきます。つながりのなかにいる自分に気づいてそれを問い直すということです。」そしてそれはもう優れて哲学的な問いかけであり、哲学的な思考の始まりとも言えるのです。」

「本書のなかで重要な役割を果たす人物に「情報の哲学」を展開しているピエール・レヴィという哲学者がいます。」
「レヴィがわざわざ「現実的なもの」から「ヴァーチャルなもの」へという方向を強調するのは、「潜在的なもの」を〈すでに可能性としては存在しているもの〉と考えてしまうと。「潜在的なもの」と「可能的なもの」ろが同一視されてしまうからです。だからこそ彼は「潜在的なもの」とも和訳されてきた「ヴァーチャルなもの」の意味をしっかり問い直そうとしました。
 言い換えれば、〈すでに可能としては存在するけれどもまだ実在的ではない〉という意味での「潜在的なもの」を相手にするのではなくて、〈いまだ可能性としても拓かれていないけれども、いまの現実から発想されるもの〉として「ヴァーチャルなもの」を捉えようとしたのです。それは人間の主体的な営みが関わることによってのみ生まれるものなのです。いまだどこにもないものを新たに創り出すという意味で人間の行う発想(ヴァーチャル化)と、その発想に基づく創造の働き(アクチュアル化)に焦点を合わせようとしたとも言えます。いわば〈人間による創造行為〉に哲学的な意味でアプローチしてみようというわけです。」

「〈哲学とは何か〉という問いへの答えはさまざまあるでしょう。これに対して私は、哲学とは〈善く生きることに深く関わる知恵〉であると答えたいと思います。」
「決断の問題です。「善く」とはどんな意味なのかということも含めて、生きることそのものを自分自身が建てるある種の問題として引き受けるのです。そういう問題を相手にして、それこそきちんと能動的に考えてみようということが哲学的思考の基本なのです。」

「具体的には、一冊の本を読むという営みに際して、その書物のなかに見えてくる〈つながり〉を、単語のレベルの考察から始めて、文のレベルでの〈つながり〉、思考内容のレベルでの〈つながり〉へと階層を上昇するようにして拡げていきます。(・・・)それは〈つながり〉という営みの哲学的な基礎を探ることだと言ってもいいでしょう。読解に関わる種々のつながりから始めて、そもそもつながりというものは一般にどのようにして立ち上がってくるのかについて考察を始めるわけです。
 その際、とくに〈古典的な作品の内部構造〉と〈作品を執筆しあるいは読解する人間のつながり〉に注目していきます。(・・・)
 それは、書物という一見閉じていそうな世界の内部における種々のつながりを考察するなかで、そのつながりが実は読者による読解の営みとつながっているという事態を浮かび上がらせ、それを乗り物にするかのようにして別の本との関連をたどり始めることを意味します。(・・・)
 次に、そこであらわになるテクスト間のリンク構造を、自分の施策にあからさまにつなげる方策としての〈パーソナルなデータベース〉に触れます。そしてその延長線上で、過去から伝わる古典的な書物とのつながりや、これからあなたが書くかもしれない未来の書物へのつながりにまで議論を拡げます。(・・・)
 さらに学問の間の〈つながり〉について考察し、それを機縁に「百科全書的教養」というものについて考えていきます。学問が〈人間や社会の形成〉に真に関わるのはどのようにしてかという問いに迫るのです。(・・・)
 ここまでくれば、個人の形成といった教養の話を超えてさらには種々の社会という人々の間の〈つながり〉、そして結局は諸文化間の〈つながり〉にまでも突き進む準備ができています。「人類」という「大いなる存在」を強調しつつも、どちらかといえばヨーロッパ諸国という範囲に考察を留めていたコントを超えて、世界全体が視野に入ってくるのです。そういう地球規模のつながりを見事に成立させる方策としての「集合的知性」についての考察をもって本書を締めくくることにします。」

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