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伊藤亜紗「一番身近な物体 第七回 希望と分断のお薬」(「あさひてらす」 )

☆mediopos3526  2024.7.13

「あさひてらす」で連載中の
伊藤亜紗「一番身近な物体」
第七回は「希望と分断のお薬」(2024.07.10掲載)

今回紹介されているのは
「ナルコレプシー」という
「時と場所を選ばず強烈な眠気に襲われ、
1日に何回も眠り込んでしまう」という
睡眠障害の一種に40年以上つきあっている
「駒沢典子さん」という方のこと

当初は眠気が病気だとは思っていなかったが
(「居眠り」「怠けている」と言われるような葛藤のなかで)
高校生になったとき病院に行き
「ナルコレプシー」という診断がおり
大学生になってようやく現在の主治医にたどり着く

ナルコレプシーが起こるのは
「睡眠と覚醒のスイッチを固定化する物質」である
オレキシンの働きによるものだという

ナルコレプシーの患者は
その「オレキシンを作り出すことができないので、
「ちょっとした刺激で睡眠に行ったり、
覚醒に行ったり、ということを常に繰り返している」ように
「スイッチがゆるゆるしてる」」のだという

「オレキシンが関わるスイッチ」は
「覚醒をON、睡眠をOFFと捉え」ず
「覚醒と睡眠を、等価な二つの選択肢ととらえる」

つまりナルコレプシーの人は
「覚醒すべきときにスイッチを切っている」のではなく
「覚醒と睡眠のあいだを行ったり来たりしている」
「境界線の上で彷徨っている」というのである

駒沢さんはナルコレプシーだけではなく
「情動脱力発作(カタプレキシー)」の症状ももっていて
「動かそうとしても体に命令が出せない状態」の発作が起こり
「喜怒哀楽どの感情でも、高ぶると、
体の力が抜けて動けなくなってしまう」のだという

とはいえ「薬を飲んでいれば、日常生活の中で急に眠くなったり、
情動脱力発作が起こることは基本的に」はなく
症状を緩和することはできる

しかし「薬」には「社会的な副作用」も存在する

「薬は、社会参加を可能にすることによって
患者さんを結びつけると同時に、
分断を生み出すこともある」というのである

駒沢さんはナルコレプシーの患者会に参加したとき
「薬を飲んでも日常生活が送れない患者さんに対して、
同じ病気の仲間が責めるような場面」にでくわす

そこには「患者さんたちのあいだに
「薬さえ飲めば、自分たちは普通の人と変わらない」
と信じたい気持ちが強くあった」からではないかという

「普通の人でありたい」
「普通の人にならなければならない」
という強い思い込みがそこにはあるのだろう

「薬」は「「普通の人になれる」可能性を与え」るが
「他方で、症状を消すべきネガティブなものとだけ
捉えること」にもつながってしまう

それは「自分で自分を差別しているような状態」にほかならず
「症状=ネガティブなものという見方が固定してしまうと、
身体に起こっている現象を観察し、
それが持つかもしれない意味や価値を
創造的に問い直す機会を奪うことにつながり」かねないと
伊藤亜紗は示唆している

さて伊藤氏が「駒沢さんにインタビューをしている間、
彼女が何度も口にしたのは、
「人の体ってほんとうによくできてる」
という感嘆の言葉」だったという

駒沢さんは30代で受洗し
「体は多くの部分から成り立っていて、
そのすべての部分が調和がとれていて、どの部分も尊い」という
「新約聖書「コリント信徒への手紙一」のなかの、
体について書かれた箇所に救われた」と言う

そして「「自分は今のままでいいんだな、
周囲よりできなくても何かしら役にたっているんだ、
ということを実感」する

伊藤氏は「「体ってよくできている」という感嘆の背後には、
社会、薬、仲間、さまざまなものが絡まり合った、
駒沢さん自身の歴史」があり
「薬というテクノロジーと、症状の意味を問う
文化の両立」があると示唆している

病気とされていることそのものが
投げかけてくるさまざまな問いがあり
病気になる苦しみ
そしてそれが癒やされる「希望」があり
またそこで生まれる「分断」といった苦しみもある

しかしそれは
「ふつう」であろうとすることで見失われがちなものから
あらたな気づきを与えてくれる創造的な経験ともなり得る

■伊藤亜紗「一番身近な物体 第七回 希望と分断のお薬」
 (「あさひてらす」 2024.07.10)

*「駒沢典子さんとナルコレプシーとのつきあいは、もう40年以上になります。ナルコレプシーとは睡眠障害の一種で、時と場所を選ばず強烈な眠気に襲われ、1日に何回も眠り込んでしまう病気のこと。駒沢さんは小学校高学年ころに発症しましたが、なかなか病気だとは理解されず、高校生になってようやく診断がおりました。

 しかし、「眠くなること」は、駒沢さんが抱えているさまざまな症状のうちのひとつでしかありません。感情が揺れ動くと筋力が脱力してしまう「情動脱力発作」や、夜中に目が覚めて食欲を抑えられなくなる「過食」、さらに代謝の低下からくる「肥満」や「糖尿病」、「体温調節の不具合」など、現在進行形でいくつもの症状を抱えています。

 興味深いのは、ひとくちに症状といっても、それによってもたらされる苦労は一様ではない、ということです。身体的には苦しくないのに社会の無理解が原因で苦労が生じている症状もあれば、直接的な苦痛を感じていてその結果社会生活に支障をきたすような症状もあります。この苦労をめぐる「身体」と「社会」の絡み合いを、「薬」の存在がさらに複雑化します。駒沢さんの語りを手がかりに、その複雑な網目を紐解いていきたいと思います。」

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・金にならないもの

*「まず、ナルコレプシーの主症状である「眠くなること」「眠ってしまう」について。言うまでもなく、眠ることそのものは、本質的には誰もが日常的にやっていることです。「めまい」や「頭痛」とは異なり、それ自体が直接的な身体的苦痛をもたらすわけではありません。

 けれども、ナルコレプシーにおいては、その頻度やタイミングが一般の人とは異なっています。日中、退屈なわけではないのに急に眠気がやってきて、抵抗することができなくなる。しかし通常であれば、10-30分眠ると目が覚め、しばらくはすっきりと過ごせるそうです。こういうことが1日に何度も起こる。

 程度の問題は、症状の有無に比べるとどうしても理解がされにくいものです。ある認知症の方が、自分の症状を話すと「物忘れなら私もしょっちゅうよ」などと返されることが多い、と話していましたが、ナルコレプシーにも同じことが起こりがちです。「昼間に眠くなることなんて私もあるよ」。誤解も同調ベースならまだよいのですが、ナルコレプシーの症状はどうしても「居眠り」「怠けている」といった規律に反する行為だと見られてしまう。日中の睡眠に対するこのスティグマ(ネガティブなレッテル)が、本人にも恥の感情をもたらします。」

「当時は駒沢さん自身も、この眠気が「症状」であるとは思っていませんでした。」

「駒沢さんの苦労が、学校生活において顕在化したというのは象徴的です。なぜなら、明治以降、「時間を無駄にしない」「時間を守る」といった時間規律を身につけさせることが、学校の重要な役割のひとつだったからです。

 ヨーロッパでは14世紀に機械時計が登場し、15世紀に定時法が普及、その後産業革命による大型機械の登場と鉄道の普及によって、現代の私たちにつながるような時間感覚が作り出されました。それは単に「時間を守る」だけでなく、「みんなが同期している」という時間感覚のことです。標準時の誕生によって、離れた土地の人々も同じ時間を共有しているという感覚が生まれました。

 明治になり開国すると、こうした時間感覚が一気に日本にも入ってきます。幕末に来日した外国人の記録によると、江戸時代の日本人の時間感覚はかなりルーズだったようですが、明治に入って近代化されると、一気に更新されていくのです。そこで大きな役割を果たしたのが学校でした。(橋本毅彦、栗山茂久編著『遅刻の誕生』)」

 たとえば、当時の尋常小学校で使われていた教科書では、「時は金なり」というベンジャミン・フランクリンのものとされる格言が紹介されています。教科書の説明によれば、この格言は、「時間は金のように尊いものなのだから、無駄にするべきではない」という意味です。(西本郁子「子供に時間厳守を教える――小学校の内と外」)」

「このような思想のもと、明治の学校では、それまでの寺子屋とは異なる、厳密な時間区分にもとづく教育が実践されていきました。授業開始十分前の登校、時間割の制定、授業開始や終了の時刻を知らせる鐘の普及、遅刻の禁止。駒沢さんが苦労した学校生活は、そもそも子供たちの活動をひとつの時間のもとに同期させ、かつ一分たりとも時間を無駄にしないという勤勉の思想を教え込む場として誕生したものです。そこにおいて「眠ること」は、規律によって維持された同期から外れることであり、勤勉さの喪失、すなわち怠惰を意味するものとされてしまうのです。

 こうした教育の効果に加え、近年では、情報テクノロジーの登場が、私たちの時間感覚に大きな影響を与えています。睡眠が、文字通り「金にならならいもの」とみなされるようになっているのです。人々の関心や注意それ自体が経済的価値を持つというアテンション・エコノミーの考え方にとって、睡眠は、昼の眠りであれ夜の眠りであれ、経済的価値を持ちません。」

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・『家庭の医学』と新聞記事

*「「寝てしまうのは怠惰だからだ」と人から思われ、自分もそれを恥じ、人に相談もできない状況のなか、駒沢さんが「これは病気なのではないか」と自覚する出来事がありました。中学生の頃のことです。」

「駒沢さんは、自分の眠気が他の人の居眠りとは違う異常なものであることを確信します。」

「駒沢さんは高校生になるのを待ってから、ひとりで病院にかかります。電話帳でようやく見つけた、精神科があるとなりの市の総合病院でした。そこで検査をして、最初の病院でナルコレプシーという診断がおります。病気だと分かり、これで親にも言える。ホッとしたと駒沢さんは言います。

 ここから、駒沢さんと病院との関わりが始まります。」

「最終的に今の主治医に辿り着いたのは、大学生のときでした。」

・スイッチがゆるゆるしてる

*「自分で必死に情報を集め、眠気が怠惰ではなく病気のせいであることを証明できた駒沢さん。このことに加え、ちょうど90年代に、筑波大学の柳沢正史氏と櫻井武氏によって、「オレキシン」という物質の働きが解明されたことも大きかった、と語ります。

 駒沢さんの説明によれば、それまで、オレキシンは「眠気のもとをつくる物質」だと考えられていました。けれどもそうではなくて「睡眠と覚醒のスイッチを固定化する物質」だということが分かった。駒沢さんのようなナルコレプシーの患者さんは、オレキシンを作り出すことができないので、「スイッチがゆるゆるしてる」。「それなんで、ちょっとした刺激で睡眠に行ったり、覚醒に行ったり、ということを常に繰り返している」。それまでは「レム睡眠とか言ってもよく理解されなかった」のに対し、オレキシンのおかげで「普通の居眠りとの違いが分かりやすくなった」と駒沢さんは言います。

 興味深いのは、オレキシンに関する科学的発見によってナルコレプシーの説明がしやすくなった、という点です。(・・・)謎だとされていた現象が解明されて理解できるようになったのではなく、別の説明原理が登場したことによって理解可能性が上昇した。ここにあるのは、「誤謬の修正」ではなく、「新しいナラティブの登場」です。

* 「オレキシンがないからスイッチがゆるゆるしてる」という駒沢さんの説明を聞いて私がイメージしたのは、シーソーのようなメカニズムでした。板の右が下がれば〈覚醒〉、左が下がれば〈睡眠〉。オレキシンがあれば、中心の支点部分をロックすることができるけれど、オレキシンがない駒沢さんのような人の場合には、ロックすることができない。だから、板の右が下がって〈覚醒〉になったり、かと思ったら左が下がって〈睡眠〉になったり、ふらふらして固定されることがない。この不安定さがナルコレプシーである。そんなふうに理解しました。

「スイッチ」は、以前のくり茶さんの語りにおいてもキーワードになっていました。どちらも、「自分ではコントロールできない自発的なもの」という点では共通しており、それ自体、当事者の「意志の弱さ」を糾弾するスティグマ的言説を相対化する力を持っています。「スイッチ」は、自分ではどうにもならない、自動的なものだからです。」

*「一方で、二つのスイッチには根本的な違いもあります。くり茶さんのスイッチが「一度入ったら止められない」という絶対的なものであったのに対し、駒沢さんのスイッチはむしろ「行ったり来たりしてしまう」という不安定なものだからです。

「ナルコレプシーの説明原理としてゆるいスイッチが革新的なのは、覚醒をON、睡眠をOFFと捉えていないことです。」

「一方、オレキシンが関わるスイッチは、覚醒と睡眠を、等価な二つの選択肢ととらえる見方を私たちに提示します。覚醒=ON、睡眠=OFFではなく、覚醒=右、睡眠=左。二つが等価になることによって、ナルコレプシーの人は「覚醒すべきときにスイッチを切っている」のではなく「覚醒と睡眠のあいだを行ったり来たりしている」というイメージが生まれます。「さぼっている」のではなく「境界線の上で彷徨っている」。これが、ナルコレプシーのスイッチが「新しいナラティブ」たるゆえんです。」

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・情動脱力発作

*「冒頭に書いたように、駒沢さんにはさまざまな症状があります。ここからは、それ自体が直接的な苦痛をもたらす症状について考えていきます。」

*「駒沢さんが「非常につらい」と訴えるのは、「情動脱力発作(カタプレキシー)」の症状です。情動脱力発作とは、感情が揺れ動くと筋力が脱力する、という症状のこと。喜怒哀楽どの感情でも、高ぶると、体の力が抜けて動けなくなってしまうのだそうです。ナルコレプシー=眠くなるというイメージが強かったので、最初にこの話を聞いたとき、私はずいぶん意外な印象を受けました。しかし、ナルコレプシーⅠ型の人には典型的に見られる症状なのだそうです。

 力が抜けるというとリラックスして楽になるような印象がありますが、情動脱力発作は、動かそうとしても体に命令が出せない状態です。要するに、「金縛り」と同じ状態。意識は明瞭なのに、体に閉じ込められて身動きが取れなくなっているので、強い苦痛を伴います。」

「症状の出方には程度があり、軽い場合には、症状があらわれるのは体の一部分のみで済む、と駒沢さんは言います。友達と話をしていて面白くなり、舌の力が抜けて舌がもつれ、言葉になりにくくなる、というような場合です。軽ければ、他の人が気づかないこともある。「聞いている方は、なんか喋り方がおかしいなって思うかもしれないですけど、そういうときはすぐ戻るので、あまり気づかれないかもしれないですね」。

「一方、重い場合には、全身の力が抜けてしまいます。」

「「喜怒哀楽」のような明確な輪郭がないように見える感情でも、情動脱力発作は起きるそうです。たとえば、宅急便が来ることがわかっていて、ピンポンが鳴った瞬間。「「あ、来たな」と思って立ち上がろうとすると、ぐにゃっとなります」。」

「駒沢さんは、情動脱力発作の症状が非常に強い方です。なので、その症状をかかえたままでは外出できず、人にも会えなくなってしまう。そこでふだんは薬を飲み、症状を抑えています。駒沢さんの場合、薬を飲んでいれば、日常生活の中で急に眠くなったり、情動脱力発作が起こることは基本的にありません。」

・薬の社会的副作用

*「直接的な苦痛のある症状に対しては、薬を使って緩和することが有効です」

「しかしながら、薬は単純によいものとも言い切れません。患者さんの体への副作用が問題になることもありますが、ここで注目したいのは、薬の社会的な副作用です。薬は、社会参加を可能にすることによって患者さんを結びつけると同時に、分断を生み出すこともあるからです。」

「それは駒沢さんがナルコレプシーの患者会に参加したときのことでした。薬を飲んでも日常生活が送れない患者さんに対して、同じ病気の仲間が責めるような場面があったと言います。」

「なぜ薬によってそのような分断が生まれてしまうのか。駒沢さんは、患者さんたちのあいだに「薬さえ飲めば、自分たちは普通の人と変わらない」と信じたい気持ちが強くあったのではないか、と分析します。薬は、自分たちの症状をなかったことにしてくれる。症状がなかったことになれば、自分たちは「普通の人」でいられる。そう思うことが気持ちの支えになる。患者さんたちのあいだにそのような強い信念があったがために、「薬を飲んでもうまく病気と折り合いがつかない人」は、自分たちがすがりたい信念をゆさぶるような「反例」に思えてしまった。あるいは自分たちの希望を打ち砕く「異端」のように見えたかもしれない。だからこそ、「真面目にやれ」という、おそらく彼ら自身が一番言われたくない言葉を、「反例」「異端」に対してぶつけたのではないか。駒沢さんはそう分析します。」

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・体ってほんとうによくできてる

*「このように薬は、患者さんに「普通の人になれる」可能性を与えるものです。苦痛がなくなるという意味ではそれはすばらしいことですが、他方で、症状を消すべきネガティブなものとだけ捉えることにつながります。これは、自分で自分を差別しているような状態です。症状=ネガティブなものという見方が固定してしまうと、身体に起こっている現象を観察し、それが持つかもしれない意味や価値を創造的に問い直す機会を奪うことにつながりかねません。」

*「駒沢さんにインタビューをしている間、彼女が何度も口にしたのは、「人の体ってほんとうによくできてる」という感嘆の言葉でした。これだけままならない体を生きているにもかかわらず、なぜ「よくできている」と思えるのか。なぜ薬を使いながらも、決して症状のことをネガティブに語らず、その意味や価値を探究する姿勢を保ち続けられるのか。そのことが不思議でたまりませんでした。

 理由を聞くと、彼女は30代で受洗した経験について話してくれました。25歳でお母さんを亡くし、その喪失感が癒えないなか、駒沢さんはある神父の本に出会います。「今のわたしの大きなターニングポイントになったのは、わたしの中では信仰の部分がとても大きくて」。

 駒沢さんは特に、新約聖書「コリント信徒への手紙一」のなかの、体について書かれた箇所に救われた、と言います。それによれば、「体は多くの部分から成り立っていて、そのすべての部分が調和がとれていて、どの部分も尊い」。この一節は、体について書かれていると同時に、人間ひとりひとりを「器官」とみなす見方を提示しています。駒沢さんは言います。「自分は今のままでいいんだな、周囲よりできなくても何かしら役にたっているんだ、ということを実感した瞬間でした」。

 この気づきは、その裏側に、ある「とらわれ」があったことの発見でもありました。当事者でありながら、自分は病気を否定していたのではないか。自分の中にもまた、あの上の世代の患者たちと同じような、「普通の人にならなければならない」というプレッシャーがあって自分をしばっていたのではないか。」

「なぜ一般の人に合わせなければいけないのかな。「差別反対」と口で言うことはできても、心の底から自分の中にある差別意識を手放し、自分の体に目を向けていくことは容易ではありません。駒沢さんは、受洗をきっかけにして、その別の道にすすむ可能性を手にした。「体ってよくできている」という感嘆の背後には、社会、薬、仲間、さまざまなものが絡まり合った、駒沢さん自身の歴史があります。ここには、薬というテクノロジーと、症状の意味を問う文化の両立があります。」

*伊藤亜紗「一番身近な物体 第七回 希望と分断のお薬」

* 駒沢典子さんへのインタビューの全文


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