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池田剛介+林道郎 「unlearn のためのレッスン----手探りするアンリ・マティス」

☆mediopos-2380  2021.5.23

「マティス 自由なフォルム」展が
この九月から開催されるそうだ
あの装飾的な切り紙を中心とした
ニースのマティス美術館の作品が主とのこと

マティスに興味をもてるようになったのは
比較的最近のことなのだが
その作品を見ることそのものが
即興的な制作プロセスであるように
感じられるようになってからのこと

マティスのことは
いまだよく知らないままでいるが
ここで引用した対談で示唆されているうように
そこには unlearn ということが
つねに原理として働いているがゆえに
あの「ヤバ」いようなシンプルなわからなさを
感じることができるのだろう

unlearnということは
learnつまりは学ぶということの否定形だが
学ぶということが成り立つためには
未知がそこになければならない

すでに知っている(と思っているもの)を
あらたに知ることはできないからだ
知らないからこそ学ぶことができる

そして学ぶというプロセスは
完成形にはなりえない
つねに未完成であるがゆえに
学ぶことが可能になる

じぶんは知っている
という完成形においては
すでに学びは死んでいるからだ

芸術家に限らず
あらゆる人の生において
そのスタイルが変わることがある

その変わり方はひとそれぞれだが
それがただのパフォーマンスでないかぎり
それまでのアイデンティティとでもいえるものが
どこかでいちど解体しなければならない

もちろん解体するといっても
それまでのアイデンティティの底にあるものは
むしろ見えないところで働いているのだろうが

以前と以降ではかたちをつくる精神のOSが
まったく別の仕方で働きはじめるように
かつての「名前」で見えていたものを
その「名前」でとらえることはできなくなる

なにかを学ぶとき
その学ぶものを完成形の知識だととらえ
それを答えとして受容するとき
それを学びであるとはいえない
ただの死んだ記憶にすぎない

もちろんある種のものを習得する際には
ます「権威」と「模倣」も必要になるが
それはそれらから去るためのものであって
その場所に固着してしまえば学びは成立しない

仏陀に逢ったら仏陀を殺せ
というのもそういうことを極論したものだ

だからマティスもそうだが
作品を見るときには
それを完成形として見るのではなく
プロセスそのものとして見ることで
その見ているけれど見えないものの
「ヤバ」さを感じることができる

人の生はほんらい決まったかたちなどなく
しかもずいぶんと「ヤバ」いものだらけだ
その「ヤバ」さを見ないために
いろんなものが固定的に生み出されるが
そうして生み出されたものは
すでにゾンビのようなものだ

どんな表現もゾンビになってしまったとき
そこに「自由なフォルム」は存在しない
制作というプロセスがそこでは死んでいるからだ
そのゾンビを避けることこそが
自由への衝動であるということもできる

■池田剛介+林道郎
 「unlearn のためのレッスン----手探りするアンリ・マティス」
 (『ユリイカ 令和3年5月号/特集 アンリ・マティス』青土社 所収)

「池田/いまマティスを見るというのはどう考えたらいいでしょうか。
林/先ほどちょっと話題になった政治的な問題に引きつけて考えるとすると、美術の世界でも当然といえば当然の成り行きで、アイデンティティ・ポリティクスやポリティカル・コレクトネス、ポストコロニアル、ジェンダーといったいろいろな政治的イシューとかかわらざるをえないような時代に生きているわけです。それは大事なことであることを前提でさらにいえば、そのような文脈のなかにいる主体は、よくも悪しきも「名前」を引き受けるという問題があります。マティスという名前、あるいは林道郎という名前、池田剛介という名前。名前を引き受けるということは、名前を構成している属性の束、日本人であるとか男性であるとか、世代であるとか、そういったさまざまな属性を引き受けて、それをどうやって表現のなかに生かし、あるいは抵抗体として取り込んでいくかという問題だと思うんだけど、いずれにしても、「名前」を引き受けて、その責任を果たすということがすごく大きな条件としてある(しばしば、この条件は、自己選択の問題というよりは、他者の眼差しからやってくる逃れようのない選択肢であるのですが)。しかし、もう一方で、とりわけモダニズム以降の芸術は、僕の感覚では、いかにして匿名の経験を共有可能なものにするか、あるいは、いかにして複数の異なる出自をもつ主体が出会える匿名の場を作り出すか、という問題に向き合ってもきたと思うんです。普遍性ということでもなく、余白で起こる事件のようなものなのだろうけど、そういう空間をどうやって広げていくかということに深くかかわっていた。「私」という問題がモダニズム以降の芸術において総じて問題的なものとして現れざるを得ないのも、そのこととかかわるはずです。装飾というのは、まさにほとんど「無名」のものだけれど、その無名的な感性の領域が逆に新しい主体を作り上げる媒体になりえるという感覚は失っちゃいけないと思います。名前を引き受けるという問題と、名前から溢れるものとその領域のあいだをどうやって行き来するか、積極的にも消極的にも、これだけ名前を引き受けることが、時代の倫理的な要請として大きくなってくると、いっそう両方の空間を行き来する技術の重要性が問われているのではないかと思います。マティスの絵のような例は、そういう意味での技術のありかを指し示してくれているのではないかと思います。
池田/名前に基づくアイデンティティの引き受け、ということですよね。社会のなかで傷ついている、この私の痛みを見よ、というのはアイデンティティ・ポリティクスにおいて否定し難く「正しい」主張になると同時に、特定のアイデンティティを固定化させることにもなりかねないし、その固有の文脈や立場を離れて問題を共有することを難しくする面がある。さらに最近では、アートが社会的マイノリティへの寄り添い合戦のようになっていく傾向がありますからね。そうした他者の名前が傷の我有化が、ほとんど批判的意識もなく素朴に「いいこと」として行われてしまうふしがある。その時に林さんがいわれたような、匿名的であるがゆえに横断的、特に身体的な黄疸の経験としてマティスを捉えなおすことは重要だと思います。もうひとつ、アイデンティティの問題とも関連すると思うのですが、マティスには「学ぶこと」へのヒントがあると思うんです。最近何かを学ぶ、勉強するというときに、何かにつけてアクティブラーニング的なものが推奨されて、とにかく能動的に活き活きと学びましょうということになる。能動的であることを強制させられるという謎のダブルバインド(笑)。しかし学ぶというのは、実際には自分の外部にあるものを受け容れる、未知のものに巻きこまれるただなかで自分が変容していくというプロセスだと思うんです。先ほど話したような、マティスが作品を展開していく上でのある種受動的なスタンスは、学ぶことのプロセスと通じるものがあるんじゃないかと思います。
林/それは重要な問題ですね。英語に“unlearn”という言葉があるんだけれど、いま池田さんがおっしゃった学びのプロセスというのは、必ずしも知識の蓄積とか積算だけにかかわることではなく、いままで自分が学んできたことをもう一度解体して、組み直すということでもありそうですね。その意味で、unlearnを含み込んだ「学ぶ」のプロセスでもあるのかなと。
池田/そうですね。マティスの作品が平明な仕上がりになっていくのは、描くことのなかにunlearnが同時にあって、すでにある色や形を消し去って、忘却しながら次の段階を手探りしていくことと関わっている。学ぶことが一方ではアクティブラーニング的に能動性のシミュレーションとなる反面で、ジャンクフードを摂取するように口当たりのいいものにだけ触れていたい、そこから外れるものを見せられるのはハラスメントだ、ということにもなりかねない。マティスがそういう安全に趣味的なものと見なされて、インスタ映えのコンテンツとして消費されかねないところもある。でも綺麗な包み紙だと思って開いてみたら実はとんでもなくヤバいものだった、マティスはそういう可能性をもっていると思います。
林/マティスが人体、あるいはダンスというものにずっと興味をもちつづけてきたことの意味も、その話につながりますね。つまり、アイデンティティ(名)を剥ぎ取られた身体の現れがそこにはある。最後のほうの切り絵のヌードなど、ジェンダーも曖昧になってしまって、こんな動きが人間に可能なのかと思うくらいのわからない曲線になって、ある意味怪物的でさえある。まさに私たちが慣れ親しんできた「人体」というものをもう一回unlearnし、断片化して変形させ、今度はどうやって新しい人体を作っていくかという実験のように見えてくる。ある意味で、人体を媒介項にした装飾的運動とその拡張の力の顕現ともいっていいような変形が起こっていて、怪物的といったけれど、寄生獣的といったほうが正確かもしれませんね。その無名の力が、池田さんのいう「ヤバい」という感覚に通じると思うし、最終的にここまできたんだなと思いますね。」

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