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四方田犬彦「零落の賦 第一回 天上人間」(文學界 2023年10月号)

☆mediopos3224  2023.9.15

四方田犬彦には
『愚行の賦』(2020/8)という著書があり
今回の『零落の賦』と同様文學界に連載されていて
連載中にこのmedioposでもとりあげたことがある
(おそらくもう五年近く前になるだろうか)

「愚行」することはだれにでもできるが
(自覚できるかどうかにもよるが
「愚行」と無縁の人はいないだろう)
「零落」するためには
いちどは「高みに立」つことが条件となるので
「零落」できる人は限られている
いうまでもなくぼくにしても
「高み」とは無縁なので「零落」できない

今回の連載第一回目の最初に
とりあげられているのは
中原中也と小林秀雄と深く関わった
長谷川泰子の話である

「一瞬であったとはいえ、
長谷川泰子をその人と知らず見てしまったという体験は、
後々までわたしに奇妙な残滓として残った」そうだ

その他にも
「今から半世紀前に国民的人気を博していた女性アイドル」
「ノーベル文学賞候補になった小説家が自作自演した
短編映画で、割腹自殺する夫を見取り、
みずからも時自身して死ぬという大役を演じた女優」
「かつては横綱にまで上り詰めた力士」
ヴィスコンティ監督の『ヴェニスに死す』で
美少年タッジオを演じたアンドレセン
四方田氏が評伝を書いた
内田吐夢・大泉黒石・由良君美といった人物が
とりあげられているが

この連載で四方田氏は
「どこまでも文学的想像力の内側で
この現象を理解しておきたい」のだという

零落とは
道徳的な堕落でも
政治的な転向でも
棄教や隠遁でも
蓄財の喪失でも
致命的な病に罹ることでもなく
「社交界から排除され、
忘れられた存在になることだけ」でもない

「零落とはそうした個々の否定性の
すべてを超えた厄難の事態であり、
他人の目によって容易に識別されはするものの、
けっして他人に理解されることのない実存的状況である」
と四方田氏はとらえ

仮説として次の四通りの場合を立てている
・政治的変動
・病気と老い
・社会的制裁
・セレブリティからの転落
である

とりわけ四つ目のセレブリティからの転落は
「現在の大衆消費社会における零落の本質に
深く関わってい」て
まずは「著名」であり
「何よりも大衆の期待を体現する存在である」
ということがありそのうえで
「大衆を失望させると同時に忘れられ見放される」
ということである

そしてやがて「あの人はいま」
といったことで忘れられた頃にとりあげられたりする

「凋落」について考えるとき
どうしてひとは
世に認められ知られる存在になりたい
そう思うのだろうかという問いがある

有名なマズローの「自己実現理論」では
「生理的欲求」「安全の欲求」「社会的欲求」
「承認の欲求」そして「自己実現の欲求」と
段階的に発展していくとされているが

「凋落」の有無というのは
基本的に極めて強い「承認」欲求に関わるもので
たとえある種の「転落」があったとしても
必ずしもそれは「凋落」ではなく
むしろ「自己実現」あるいは
「自己」を超えたところの「欲求」へと向かう
ステップとなることもあるのではないか

しかしひとはなかなか
「承認欲求」から自由になるための扉を
みずから開けようとはしない
必ずしも「転落」が必要だというわけではないが
それはそのための契機でもあるのかもしれない
一種の特殊なイニシエーションとして

■四方田犬彦「零落の賦 第一回 天上人間」
 (文學界 2023年10月号)

(「2」より)

「零落とは何か。人はいかにして零落し、その零落を生きるのだろうか。

 高みにあって衆人の注目を浴びているとき、人の姿は容易に確かめることができる。誰もが彼について、彼女について、語っている。どこで何をしたか、誰と会ったか。何を書き、どのような行動をとったか。その一挙一動が伝えられ、噂され、毀誉褒貶の話題となる。

 とはいうものの、ひとたび栄光の座から失墜してしまったとき、その姿はたちまち見えなくなってしまう。どこで何をしているのか、誰も知らない。いや、知っていても知らないふりをしたり、曖昧に口を濁らせたりする。

 その人物が高みにあったとき、人々はその姿を正確に見ていたのだろうか。実はそのときでもよく目を凝らしてみると、微かにではあるがすでに失墜の予兆が認められていたのではなかったか。だが誰もそれに気が付かなかった。いや、より正確にいうならば、認めようとはしなかった。本人もまた例外ではない。いつまでもこうして絶頂を極めていることはできまい。破局が接近して来る気配は確かにあったのだ。ただそれを正面から認識することに、なぜか心が向かなかっただけなのだ。とはいえ不吉な予兆はやがて無視しがたいばかりに巨大となり、脅威の存在と化して行く。どうすればいいのか。

 零落が開始される。零落は恐るべき速度で彼を、また彼女を蝕み・・・・・・。誰もが去っていく。つい今しがたまで、あれほど親しげに付き合い、心を許し合ったはずの者たちが、示し合わせたかのように姿を見せなくなってしまう。いったい何が起こったのか、誰も何も説明してくれない。彼は、そして彼女はこうして置き去りにされていく。忘れられていく。」

「何年か前に、わたしは愚行について一冊の書物を書いた。それは自分の愚行に気付いたことが原因だった。「愚行というのはどうも苦手だ」(ポール・ヴァレリー)。わたしはこれまで自分がいつか愚行を犯してしまうのではないかという恐怖の念に取り憑かれて生きてきたのだが、そうした観念がそもそも愚行に他ならないという事実に思い当たったのである。だが愚行と零落とはまったく違う。人はまだ充分に失墜していないときにかぎって、自分がいつ失墜しるのだろうかという不安に襲われるものだからだ。

 わたしはまだ零落を体験したことがない。破産して露頭に迷うこともなかったし、政治的受難によって、「査証なき惑星」として亡命の途に就いたこともない。凶悪な冤罪事件に巻き込まれ、知人友人のいっさいに見捨てられるという体験もないし、アルコールや薬物、新宗教に耽溺して家庭を崩壊させたこともない。息子に同性愛者だと告白されて、思わず手を上げてしまったということもない。わたしほど旧約の呼ぶから遠いところにいる人間もないのかもしれない。そう、わたしとは冒険も勇気も欠いた、人生の凡庸さそのものである。

 思うに零落をするために人が必要としているのは、ひとたび栄光の頂点に立ち、栄華の巷を睥睨するといった体験ではないだろうか。高みに立たないかぎり、人は低所に赴くことはできない。とはいわわたしのこれまでの道のりはひどく平板であり、道筋が微かに歪んでいたり、わずかばかり坂の傾きがあったとしても、全体としてはきわめて凡庸なものだ。わたいは若くして突然の脚光を浴びるといった幸運とは無縁であったし、思いがけない恩寵に恵まれて名声の頂点に立ったという思い出もない。わが身の低落を嘆くにはすべてにおいて卑小で退屈な人生を生きてきた。いったそのような人間に、零落を語る資格があるのだろうか。

(「3」より)

「だが、それにしても・・・・・・と、わたしはふたたび留保の口調に戻る。それならばわたしはどうしてこれまで零落してきた人々に心惹かれてきたのだろうか。どうして失意と窮乏の果てに世を身罷った者たちのことが気になってしかたがなく、何年もかけれ資料を蒐集し、彼らの評伝を執筆してきたのだろうか。

 この二十年の間にわたしは三人の人物について、作品論を含んだ評伝を書いている。内田吐夢と大泉黒石、それに由良君美である。わたしは若い自分からずっと彼らの晩年が気になって仕方がなかった。」

「内田吐夢、大泉黒石、由良君美。彼らはいずれも晩年に到って深い零落に陥った芸術家である。三人の生と作品について論じながら、わたしは老いたる彼らに襲いかかった不運と絶望の深さに同情せざるをえなかった。映画界にあって、また文学界に、アカデミズムにあって、彼らはいずれも若き日に栄光を享受した。斬新な手法と主題で注目され、衆人の期待を集めた俊英であった。

(・・・)

 溢れんばかりの才能をもちながらも、こうして不運な晩年を強いられた者たちは、最後にどのような言葉を遺したのか。彼らははたして自分の人生を悔いていたのか。自分をきれいに忘れさっら世界を憎んでいたのか。それともすべては時間の虚しい過ぎ行きにすぎないという境地に達し、わが身の凋落を達観して眺めるまでに到っていたのか。わたしに書くことを促したのは、こうした問いであった。」

(「5」より)

「わたしはここでこの現象を、距離を取って眺めてみなければならない。といっても、別に社会心理学の論文を目指しているわけではないどこまでも文学的想像力の内側でこの現象を理解しておきたいのだ。

 零落とは単に道徳的に堕落することとは異なっている。政治的イデオロギー的に転向することでもない。棄教して隠遁することでもない。単に蓄財を喪失して絶望に打ちひしがれることでもなければ、回復困難な病気に罹って生を呪うことでもない。社交界から排除され、忘れられた存在になることだけでは。まだ零落とはいえない。零落とはそうした個々の否定性のすべてを超えた厄難の事態であり、他人の目によって容易に識別されはするものの、けっして他人に理解されることのない実存的状況である。」

「堕落でも転向でもなく、衰退でも没落でもない零落を、どのように考えるべきか。

(・・・)

 わたしが仮説として立ててみらたのは、四通りの場合である。

 まず政治的変動による財産と名誉、権力の剥奪。流刑。配所。収容所への監禁。さらに亡命。

 二番目に病気と老い。これは年齢を重ねるにつれ身体が衰弱し、厭世的な人生観に侵されたり、迫りくる死への恐怖から精神に変調を来す場合である。その結果、これまで獲得してきた名誉や人間関係を一挙に喪失し、孤独地獄に陥ってしまう。

 三番目に社会的制裁。これは犯罪を犯したり、大掛かりなスキャンダルを引き起こして入獄したり。社交界から排除されてしまう場合である。

 最後にスキャンダルとも密接な関連があるものとして、セレブリティからの転落について触れておきたい。これは正確には零落の要因というより、むしろこの現象が見せる様相のひとつというべきであるが、現在の大衆消費社会における零落の本質に深く関わっているので、無下に扱うわけにはいかない。近代このかた。零落がまず何よりも著名人(セレブ)であることからの転落であるとすれば、その著名性という問題を抜きにして問題を解明するわけにはいかないからだ。著名であるためには富裕であったり、高貴な血筋のもとに生まれている必要はない。何よりも大衆の期待を体現する存在であるだけで充分なのだ。彼らは大衆を失望させると同時に忘れられ見放される。つまり簡単にいって、零落するのだ。

 零落は愚行と同様、世界のいたるところで日々生じている出来ごとである。とても網羅的に論じるわけにはいかない。思いつくままに、そう、まったく思いつくままに指を折って例を数え出し検討してみるしかない。」

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