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松田行正「素(しろ)」(『和力(わぢから) 日本を象る』)

☆mediopos3601(2024.9.28)

松田行正『和力(わぢから)』(2008)は
日本文化を象徴する以下の24のテーマ(かたち)を
漢字一文字に集約させ象徴的に読み解く
発想の缶詰のような一冊

 籠(ろっかく)・×(バツ)・似(にている)・方(ほう)
 律(リズム)・字(かな)・蔓(からくさ)・紙(かみ)
 余(よはく)・包(つつむ)・月(つき)・波(なみ)
 旋(らせん)・結(むすぶ)・丸(まる)・格(こうし)
 起(てりむくり)・朱(あか)・軸(アシンメトリー)
 鱗(さんかく)・象(ミニチュア)・素(しろ)
 比(ひ)・縞(ストライプ)

今回はそのなかから「素(しろ)」をとりあげる

白川静によれば「素」とは
「しろぎぬ、しろ、もと、もとより」を意味し
「本来の性質、もとの状態、何も加えない」といった
意味としても使われる漢字

さらに「白」は
白骨化した頭蓋骨の形(しゃれこうべ)から
「しろ、しろい」の意味をもち
優れた首長の頭骨には優れた呪霊(霊の力)がある
そう信じられていた

「素」を本書で「しろ」と読ませているのは
おそらく「白」がほんらいもっている
霊的ともいえる力としてその色をとらえているからだろう

さて
日本では葬式に黒服を着るが
明治時代以前では白装束だった

黒服に変わっていったのは
伊藤博文が朝鮮で暗殺されたときの国葬で
欧化政策を推し進める明治政府が
欧米風に黒にするようにしたときからで
それ以降徐々に黒服が中心になっていった

ほんらい日本では「白」は禁忌の色で
鎮魂の儀式としておこなわれる
婚姻や葬式のような
ハレ(晴れ=行事)において使われる色

葬式のときは白装束が基本であり
葬式後にじぶんに振りかける塩も白
相撲で土俵に撒く塩も白
花嫁が婚礼に着る衣裳も「白装束(死装束)」

その白は
日常と非日常の区切りをつけるための白であり
またハレにおいては
祖霊がそこで悪さをすることをやりすごすために
ふだんとは違う白い服に変装する
という祖霊信仰も背景にあった

白という色は
光の三原色が重なった色だが
絵具などの物質的な色の三原色を重ねると黒になる

明治時代以降において葬式が白装束から黒服に変わり
それがいまではすっかり浸透しているのは
「欧化政策」がきっかけではあるだろうが
それは霊的な感受が失われ
物質的なそれに変わってきたということを
象徴的にあらわしているといえるのかもしれない

「白」という漢字は
「ドクロのなかがからっぽであることを
横棒(もとは点)で表している」というが
ほんらいそのからっぽな空間は
「神威が籠もるべき空間」だったようだ

古代のシャーマン(巫者・呪者)は腰に
「鐸」といわれるなかが空洞の風鈴を提げていて
〈なにものか(神)〉がきたことを聴いていたのだが
その力が衰えてしまって風鈴のなかにベラ(舌)を入れ
その音を増幅させようとした

また日本において「しろ」という言葉が
白色の意味で使われるようになったのは
十世紀中ごろ以降のことらしく
「それまでの「しろ」には、「くろ」に付随した色、
黒の領域からはずれた色というニュアンスがあり、
「あお」までもが含まれ」

「恐怖や寂しさをもたらす薄暗さ」として
「神との関係、信仰の対象として見」ていたようだ

(「白鷺、白鹿、白鳥、白蛇、白馬など、
白い動物はみな神の使いとみなされた。
蚕はシロコ、シラコなどと呼ばれて、
養蚕の神オシラサマ(お白様)になった。)

これは「「白」「余白」を、
「地」ではなく「図」と見る見方」で
「何もないデッドスペースではなく
意味ありげで存在感のある空間」として
そこに「〈なにものか〉の存在」を
感じ取っていたことからきていると考えられる

日本の書画においては
地としての白は何も塗っていない空白ではなく
そこから「〈なにものか〉の存在」が
立ち上がって来る空間であるといえ
「間」とも通じている

英語では「間」はimaginary spaceだが
そういえば虚数はimaginary numberである
実数ではなく複素数

虚数は現実には存在しない
想像されるだけの抽象概念とされているようだが
そのimaginaryな世界はむしろ
実際に見えている世界の地となっている
そうとらえる必要があるのではないだろうか

■松田行正「素(しろ)」
 (松田行正『和力(わぢから) 日本を象る』NTT出版 2008/3)

*「「白」という色には、三つの性質がある。三原色の光線が重なると白くなるように、あらゆる色を包み込んだ豊穣な色としての「白」、「白(white)」という属性をもった色相としての「白」、色発生以前の「素」としての「白」である。豊穣な色とこれから色付けがはじまる「素」とは、おそらく表裏一体をなしている。」

・死と聖の色「白」

*「柳田国男によると、白は禁忌の色で、ハレのときにしか使わなかったという。婚姻や葬式のときなどだ。こうしたハレ(晴れ=行事)は、かつてはすべてが鎮魂の儀式だったといえる。鎮められる魂は生者だったり、死者だったり、折口信夫のいうマレビト=神だったりする。「祭り」も、もともとは、自らを奉りながら神の来訪を待つ鎮魂の儀式である。

 したがって、葬式のときは白装束が基本である。切腹など死地に赴くときも全身を白装束で覆う。つまり、「白」という色は、「死」がほかの人に伝染しないように、「死」の指標としての忌み籠もりであり、相撲のときに土俵に撒く塩や、葬式後に自分にふりかける塩などと同じく、清めのための色である。婚礼のときに花嫁が着る白い衣裳ももちろん死装束。生家から旅立つことを死になぞらえているからだ。

 明治になって、朝鮮で暗殺された伊藤博文の国葬では、欧化政策を推し進める明治政府は、日本の伝統的観念を無視して、葬式のときの衣裳を欧米風に黒にするようにとのお達しをだした。それから葬式は徐々に黒服が中心となり、それまでの白の意味合いも薄れていく。第二次大戦後には、旧弊を改めようとするGHQの政策もあって、「清めの色としての白」という意味は完全に失われ、「白無垢」というように汚れてしないことの象徴として、婚礼の色となっていった。

 現代、通夜ぶるまいでは、供養のために大いに食べることを勧められる。もともと死者をだした家の食物は食べられなかったはずだが、喪服が白から黒になったことによって、死にたいする恐怖や嫌悪が薄まったからではないかと思える。

・内と外の中間にある「白」

*「青木保は、「〈白〉はニュートラルなもの、中間のもの、つまり〈境界〉、内と外を分けるちょうどその中間にある」安全と危険を区切る記号だ、と語る。そのために、結婚式や葬式には白の衣服を着た。日常と非日常の区切りをつけるための白だ。

 葬式や結婚式に白い衣裳をまとうことにはもうひとつの意味もあった。祖霊信仰では、こうした行事には祖霊が必ず出張してきて悪さをすると信じられていた。そこで、ふだんとは違う自分に変装して祖霊をだましてやりすごそうと考えたからだ。そして、変装法として、白い服、つまり晴れ着を着るようになった。正月の晴れ着はこんなとこに由来しれいるらしい。

 お歯ぐろも同じ発想である。以前は、変装するために抜歯をしていたが、何度もできるものではないので、抜歯の気分で歯を染めたのがはじまり。一種のおしゃれだ。江戸時代に、結婚したら歯を染めたのも、結婚式のときに白い衣裳を着て、生家との訣別の意思表示をしたのと同じく、もはや前の自分ではない、ということを示すための一種の変装である(金関丈夫『発掘から推理する』岩波書店)。

・空虚と充満

*「漢字の「日」は、太陽である円のなかに点を打った形が変化したもので、この点はなかが詰まっていることを表している。一方「白」は、ドクロのなかがからっぽであることを横棒(もとは点)で表している。そうすると、中身が詰まっているかからっぽかは、点をみただけではわからないことになる。この点は、空虚か充満かはともかく、ここに注目せよ、という記号なのだろう。

 また、空間が充満しているはずなのに、それを感じ取れなくなったために、かわりに点のようなものを補って顕在化させようとした例がある。

 それは、人々が神と密接に暮らしていた古代での話だ。古代では、神との応答は日常的なものである。シャーマン(巫者・呪者)は腰に、なかが空洞の風鈴を提げていた。当時は風鈴ではなく、「鐸」と呼んでいた。

 この風鈴は、〈なにものか(神)〉がきたことを知らせてくれる検知装置だったが、時代が下って、神の声・音を聴く能力が衰え、その音を増幅させるスピーカーが必要になったことや、儀式化したことにより、風鈴や鈴のなかにベラ(舌)を入れるようになった。これが現在にもある風鈴・鈴のルーツだ。

 つまり、もともとの風鈴のなかは、何もない空間ではなく、音で満たされなければならない空間であり、神威が籠もるべき空間だったのである。鈴とは神意を聴く集音装置だったのである。」

・素と〈間〉

*「音が鳴り出す前の風鈴の空間は、なにものかを生み出す「素」の空間でもある。漢字の「白」や「日」のなかの点の意味するところでもある。それは「間」といってもよいかもしれない。

 〈間〉を英語ではimaginary spaceというらしいが、それでは内実がうまく表されていない気がする。おそらく、象徴性に欠ける感じがするからなのだろう。〈間〉とは何もないスカスカのがらんどうに「図」を見つける、きわめてシンボリックな概念だからだ。

 書道に〈空画〉というものがある。〈空画〉とは、書きはじめる前に、白い和紙を前にして、空中で予行練習のように書くしぐさであり、たちまち想念のなかに立ち消えてしまう書である。」

・図としての余白

*「日本で「しろ」が白色の意味で使われるようになったのは平安時代中期、十世紀中ごろ以降だ。前田雨城『色』(法政大学出版)によると、それまでの「しろ」には、「くろ」に付随した色、黒の領域からはずれた色というニュアンスがあり、「あお」までもが含まれていたという。恐怖や寂しさをもたらす薄暗さなどである。「白」を神との関係、信仰の対象として見る見方のはじまりともいえそうだ。

 たとえば、白鷺、白鹿、白鳥、白蛇、白馬など、白い動物はみな神の使いとみなされた。蚕はシロコ、シラコなどと呼ばれて、養蚕の神オシラサマ(お白様)になった。「白」そのものが信仰の対象のようである。

 これは、「白」「余白」を、「地」ではなく「図」と見る見方である。こうした何もないデッドスペースではなく意味ありげで存在感のある空間、と見る見方が、薄暗さ、仄暗さに〈なにものか〉の存在を感知し続けていた結果なのだろう。

 江戸時代の土佐光起は、『本朝画法大全』(一六九〇年)で「白紙も模様のうちなれば 心にてふさぐべし」と語る。白紙も想像すれば模様が見えてくる、という意で、何もないところに何かを感知する想像力は豊かな彩りを発生させるのだ。」

・皮膚としての白い和紙

*「平安時代末に登場した明(あかり)障子は、鎌倉時代に和紙の生産が向上したことで、発展していった。障子に張る白い和紙は時の変化を伝えるリトマス試験紙でもあり、人々は白さの加減から替え時を知った。

 鶴岡真弓は、障子の和紙は「日本人の皮膚感覚の延長にある、もう一枚の皮膚膜」だと語る。一年を経て、疲労が目立つ白い皮膚は、新しい皮膚に生まれ変わらなければならない。」

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