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若松英輔「宗教」と「宗教学」の射程(『群像』)/ルドルフ・シュタイナー「宇宙論・宗教・哲学」(『霊界の境域』)

☆mediopos3481  2024.5.29

若松英輔と釈徹宗の往復書簡(『群像』)
「宗教の本質とは」の6回目は
若松英輔「「宗教」と「宗教学」の射程」

そこで問いかけられているのは
宗教とは
「「自然全体の偉大さ」あるいは
「宇宙の力」を経験する場ではないか」ということ

いうまでもなく
「その経験が組織としての宗教や神学を生むのであって、
逆ではない」のだが
ともすれば宗教と宗教組織の関係は逆転されがちである

宗教組織を宗教だとしたとき
○○教を信仰するのが宗教だということになり
ともすれば○○教と○○教が対立したりもする

宗教間の対話が真に成立するのは
宗教そのものの根源において
その本来的なものが共有されるときでしかないだろう

エリアーデは『聖と俗』において
「宗教的人間にとって〈世界〉は
すべて〈聖なる世界〉である」と述べているが

「「宗教的人間」と「非宗教的人間」がいる、
と考えている」のではなく
「人はすべて高次な意味で「宗教的人間」である。
そう在るほかない」という

「神などいないと断言し、
世の人が「聖なるもの」とするものを
まったく重んじ」ないとしても
それら「非宗教的人間」も
高次の意味においては「宗教的人間」であるしかない

ぼく自身にしても
特定の宗教(組織)を信仰していないという意味では
「非宗教的人間」なのだが
「「永遠」を探求している。希求している」という意味では
「宗教的人間」だといえる

宗教組織としての宗教ではなく
ほんらいの霊性の顕現としての宗教について理解するには
シュタイナーの「宇宙論・宗教・哲学」という講演録が
要を得ている

宗教とはなにかを理解するには
同時に哲学や宇宙論について
そのほんらいの姿を理解しておく必要があるからである

シュタイナーは人智学の課題として
エーテル的な認識を獲得するための哲学
アストラル体についての認識を再び獲得するための宇宙論
真の「自我」の観想的認識を獲得するための宗教
という三つを挙げているが

ここでいう「哲学」「宇宙論」「宗教」は
現代の私たちが理解しているそれではなく
ほんらいそうであるべきものである

まず哲学だが
現代の哲学は
「多かれ少なかれ抽象的な理念の総合」でしかないが
「「哲学という言葉が智への愛を表はしてゐるように、
哲学は単に悟性的な事柄ではなく、人間の魂全体の問題である」

「哲学は何よりもまづ、肉体によつては
体験することのできない魂の実質内容」であって
「エーテル的な認識」を獲得することで
「再び現実性を取り戻すことができる」というのである

次に宇宙論だが
現代の宇宙論は
「単に数学と観察と経験を通して
自然科学が承認したものの上に立脚する
一つの学問になつてしまつた」が
宇宙論はかつて「人間の体だけでなく、
魂も霊も宇宙の一員と見な」すことで
「人間が宇宙の一員たることを開示するもの」であった

「人間の肉体的存在の中にしか生きてゐない」
「思考、感情、意志の背後に隠され」ている
宇宙的存在としてのアストラル体についての認識を得ることで
「人間全体を包括する宇宙論を構築することができる」
というのである

そして宗教だが
現代の私たちは「「自我」の本質を見失」い
「「自我」の中に魂的体験の総括を見るだけ」になって
「宗教は科学的体験とは別のところで獲得すべき信仰内容」となり
ほんらい一つであるはずの
「智と信は二つの体験内容」となってしまっている

かつて「自我」は
「体的なものとアストラル的なものとから独立した何ものか」で
その体験によって人間は高次の世界を知覚していた
「この高次の世界の写し絵が、体と魂」にほかならない

「人間のエーテル体、アルトラル体、
そして「自我」あるいは霊人が認識」されることで
ほんらいの「宗教」が「人間生活の中で再び正しい位置を得る」

エリアーデが
「宗教的人間にとって〈世界〉はすべて〈聖なる世界〉である」
「人はすべて高次な意味で「宗教的人間」である」
と示唆していることは
こうした哲学・宇宙論・宗教の観点からすれば
「そう在るほかない」のだが

霊的認識には「論証的に、つまり証明により、
規則や概念に基づいて到達するのではない」ため
物的世界を探求するだけの科学信仰が生まれ
特定の宗教組織の教条が
科学と分かたれて「信仰」されることになる

やがてほんらいの「智と信」がむすばれ
ひとつの体験内容となることができますように

■釈徹宗×若松英輔 往復書簡「宗教の本質とは6」
 若松英輔「宗教」と「宗教学」の射程(『群像』2024年6月号)
■吉満義彦(若松英輔編)『文学者と哲学者と聖者 吉満義彦コレクション』
(文春学藝ライブラリー 2022/6/7)
■ミルチャ・エリアーデ(風間敏夫訳)『聖と俗―宗教的なるものの本質について』
 (叢書・ウニベルシタス 法政大学出版局 2014/1)
■ルドルフ・シュタイナー(西川隆範訳)『霊界の境域』(叢書風の薔薇 1985/11)

**(若松英輔「宗教」と「宗教学」の射程より)

*「「社会主義」や「アナーキズム」は、非宗教的思想の代名詞です。つまり、「神」は存在しないといわなかったとしても「神」を第一の関心としない人々であると理解してよいと思います。しかし、そうした人たちもどこかで「永遠」を探求している。希求している、というべきなのかもしれません。人は、問題としての「宗教」、あるいは「神」から離れることはできる。しかし、「永遠」を封印することはできないというのでしょう。」

**(若松英輔「宗教」と「宗教学」の射程〜「神自身の問題」より)

*「ドストエフスキーの登場によって、神学、哲学、文学をめぐる大きな変動が起こりました。」

「遠藤周作の師である哲学者の吉満義彦が、ドストエフスキーをめぐって次のように述べています。「ベルジアエフ」(ベルジャーエフ)とは『ドストエフスキーの世界観』の著者でもありました。ロシアに生まれ、共産主義下のロシアを追放され、フランスに亡命しや哲学者です。

  ベルジアエフも言うごとくドストエフスキーの問題の深さはダンテやシェークスピアの解しなかったような仕方をもって人間性自身の問題の中に神自身の問題を見いだし人間の問題は神の問題なしに理解し得ないことを指摘した点にある。(「ドストエフスキー『悪霊』について」 『文学者と哲学者と聖者 吉満義彦コレクション』)

 ここで吉満がいう「神自身の問題」とは「聖なるもの」であり、「愛」でもある。ドストエフスキー、あるいはベルジャーエフ、そして吉満によれば、人間とは何かを問うことは、聖性と愛の秘儀————秘められた意味————を解き明かそうとすることだというのでしょう。「愛」あるいは「慈悲」といってもよいかもしれません。」

**(若松英輔「宗教」と「宗教学」の射程〜「聖なるもの」より)

*「「聖なるもの」の根源性にもふれておきたいと思います。宗教学者のミルチャ・エリアーデが『聖と俗』で述べた史的は重要です。

  聖なる空間を祭儀によって建立する必然性をよりよく理解するためには、まず伝統的な〈世界〉の観念について検討しなければならない。そうすれば直ちに、宗教的人間にとって〈世界〉はすべて〈聖なる世界〉であることが明らかになるであろう(風間敏夫訳)

 聖と俗の境界は「聖なるもの」のなかに存在する出来事である。「聖なるもの」の発見という試みは、この世界そのものが「聖なるもの」であるという原点とともになくてはならない、というのです。
「宗教的人間」はエリアーデを読み解く最重要の鍵語に一つです。彼は「宗教的人間」と「非宗教的人間」がいる、と考えているのではありません。むしろ、人はすべて高次な意味で「宗教的人間」である。そう在るほかない、とエリアーデは考えています。神などいないと断言し、世の人が「聖なるもの」とするものをまったく重んじていない。そんな人がいてもエリアーデは考えを変えなかったのでしょう。その点では彼も『カラマーゾフの兄弟』のイワンと同意見なのです。」

**(若松英輔「宗教」と「宗教学」の射程〜「宗教学の射程」より)

*「ここでエリアーデの言葉を引いたのは、宗教学の射程と宗教の射程の差異を感じ直してみたかったからです。エリアーデはさまざまなところで、宗教学の使命を自らに問い直す言葉を書いています、さまざまな現象を宗教学的に解釈することが宗教学のなすべきことであれば、そこで私たちが目にするものは、やはり、知識の領域を出ないのかもしれません。

 先に見た『聖と俗』には「宗教的なるものの本質について」という副題が付されています。彼にとって「聖なるもの」を論じることはそのまま宗教とは何かを問うことだったのです。彼は宗教学者の「最高の目的」をめぐって次のように述べています。

  宗教的人間(homo religiosus)の振る舞いとその心的宇宙とを理解し、これを他の人びとに理解させることは、宗教学者の最高の目的である。(同前)

 問題はその人の内界、すなわち「心的宇宙」にかかわるものである。ユングの言葉を借りれば、「普遍的無意識」に関係することであり、特定の人の思想、信条のありかたとは必ずしも性質を同じくしない。それがエリアーデの認識だったと思います。

 宗教学が「心的宇宙」を見失ったのはいつなのか。エリアーデがこう書いているのは「心的宇宙」という実証が困難な領域を宗教学が見過ごすようになっていったからにほかなりません。」

「大学などで宗教学は「人文科学」の一分野であると考えられています。英語ではhumanitiesですから、科学を意味するscienceを含まないのですが、そのありよう————特にこの国では————が、実証を重んじた一つの「科学」であることは否定できない事実です。

 こういうことで「科学」を軽んじているのではありません。科学がなければ、私たちの生活はなりたちません。(・・・)

 科学は世界のある現象を微細に明らかにします。私たちが日常を送るなかでは感じたり、認識できない事象や構造、そしてはたらきを明らかにしてくれています。ですが、科学が存在世界の謎をすべて良き証したかといわれると大きな疑問が残ります。今、私たちが問い直している「聖なるもの」を科学は十分に対象にしてきませんでした。むしろ、できなかったというべきなのでしょう。

 もちろん、宗教学を軽んじているのでもありません。宗教学によってそれぞれの宗派にあった厚い壁に他の宗派へと通じる道が見いだされたのは大きな出来事でした。そうした認識の基盤を準備したことは革新的ですらありました。しかし、ここで考えようとする「聖なるもの」は、学問的な実証よりも人間の経験と深く通じるものなのではないかと思うのです。

 こういった方がよいかもしれません。数多くの宗教を研究し、そこに立ち現れた「聖なるもの」の現象をいくつ積み上げても、その本質は浮かびあがってくることはないのではないか。そこに残るのは抜け殻である「死せる概念」としての「聖なるもの」なのではないか。」

**(若松英輔「宗教」と「宗教学」の射程〜「シャガールの「人生の究極の目的」より)

*「生活することが「いのち」との関係を失うことになるような現代という時代にあって、「世界の鼓動やため息や夢を聞き出すこと」の意味を問う人は少なくなるかもしれない。人間の認識のちからがそうなっていっても「宇宙の力」が減じることはない。シャガールは、現代の可能性を信じるよりも、より深い「自然全体の偉大さを信じている」というのです。」

*「語り得ないがしかし、深く経験するのを求めてくる聖なるもののはたらきをエリアーデは忘れない。彼は、同質の問いを絵画の世界で試み、「宇宙の力」の表現者たろうとするシャガールに深い敬意を捧げているのです。

 宗教とはシャガールのいう「自然全体の偉大さ」あるいは「宇宙の力」を経験する場ではないか。その経験が組織としての宗教や神学を生むのであって、逆ではないのではないか。エリアーデも敬愛していたルードルフ・オットーが『聖なるもの』で次のような言葉を残しています。

  どのようにすれば私たちもキリストのもとで、「現れた聖なるもの」の体験に至ることができるのか。
  論証的に、つまり証明により、規則や概念に基づいて到達するのではないことはもちろんである。(華園聡麿訳)

 オットーとエリアーデまではありありと生きていた宗教をめぐるこうした認識が「論証的」なものになっていったことと、二十世紀、二十一世紀にわたってこの国に起こった宗教をめぐる悲劇は無縁ではない、と私は感じています。」

**(シュタイナー『霊界の境域』〜「宇宙論・宗教・哲学」〜「1 人智学の三つの課題」より)

*「哲学によつて人間のエーテル体が認識され、宇宙論によつてアストラル体が明瞭に把握され、宗教によつて「真の自我」の認識が生まれる。認識の基盤の上に立つた宗教生活を獲得し得る可能性があるのである。」

*「哲学はかつて総合的な認識の仲介者であつた。人間は哲学から現実世界の個々の領域の認識を得てゐたのである。個々の学問は哲学から生まれた。それでは、何が哲学に残つたのであらうか。多かれ少なかれ抽象的な理念の総合である。この抽象的理念によつて、哲学は他の学問に対して自己の存在の正当性を主張するのであるが、この正当性は感覚的な観察と経験の中に見出されるのである。」

「哲学という言葉が智への愛を表はしてゐるように、哲学は単に悟性的な事柄ではなく、人間の魂全体の問題である。人間が「愛する」ことができるのは、このやうな魂全体に関はる事柄である。智はかつては現実的なものと感じられてゐた。単に理性と悟性だけが関与するものは「理念」にはなり得なかつた。哲学は魂の熱の中で体験された人類的な事柄から、乾いた冷たい知識へと化してしまつた。哲学的思惟に没頭する時、もはや現実性を感じることはなくなつた。」

「哲学は何よりもまづ、肉体によつては体験することのできない魂の実質内容なのである。魂の内容は感覚によつては知覚することのできない組織体によつて体験される。この組織体は、肉体の土台となつてゐるエーテル体である。エーテル体は超感覚的な諸力を内包し、肉体に形態と生命を与へてゐる。エーテル体組織は、肉体を使用するのと同じやうに、使用することができる。ただ、肉体は感覚を通して感覚界から理念を形成するのに対し、エーテル体は超感覚界から理念を形成する。古代の哲学者はエーテル体を通して理念を発達させた。人類の精神生活からこの認識の器官としてのエーテル体が失われたことによつて、同時に、哲学から現実性といふ特徴が失はれた。哲学は単なる理念体系になつてしまつた。再び、エーテル的な認識が獲得されねばならない。さうすれば、哲学は再び現実性を取り戻すことができる。これが人智学の第一の課題である。」

*「宇宙論はかつて、人間が宇宙の一員たることを開示するものであつた。人間の体だけでなく、魂も霊も宇宙の一員と見なす必要があつた。そのことを通して、宇宙の中に魂的なものと霊的なものが見られるようになつた。近代に於いて、宇宙論は単に数学と観察と経験を通して自然科学が承認したものの上に立脚する一つの学問になつてしまつた。このやうは方法によつて探求されるのは宇宙生成の一つの光景である。この光景からは、おそらく人間の肉体が理解されるであらう。けれども、エーテル体は既に理解不可能なものとなり、まして、人間の魂と霊はこの光景から理解されることはない。」

「古代の宇宙論はこの宇宙の内面生活を観察してゐた。この宇宙の内面生活の観照を通して、エーテル的なものを越え出る人間の魂実体も宇宙の一員となる。現代の精神生活には、魂的内面生活の実際についての洞察が欠けてゐる。現代の精神生活の体験内容に、生と死の彼方に生命が存するといふことについての補償が何もない。」

「思考、感情、意志は人間の肉体的存在の中にしか生きてゐないのである。それに対して、アストラル実質は宇宙の一員と理解することができる。アストラル実質は誕生の時に肉体に入り、死と共に肉体から去る。誕生から死までの人生を通じて、思考、感情、意志の背後に隠されるもの————つまり、アストラル体————が宇宙的存在なのである。

 人間のアストラル実質についての認識が失われたことによつて、人間を包括することのできた宇宙論もまた失はれた。単なる物質的宇宙論となつてしまつたのである。現代の宇宙論は人間の肉体の原理しか包含してゐない。人間のアストラル体についての認識を再び獲得する必要がある。さうすれば、再び人間全体を包括する宇宙論を構築することができる。

 これが人智学の第二の課題である。」

*「宗教は元来、誕生から死までの人間存在を構成する肉体的、エーテル的実質、及び、人間の肉体的、エーテル的実質と共に働く宇宙とは独立したところで持たれた体験の上に構築されてゐた。この体験から本来の霊人が形成される。我々の有してゐる「自我」といふ言葉のみが霊人を暗示する。かつて、「自我」というふ言葉は、体的なものとアストラル的なものとから独立した何ものかを意味してゐた。この体験を通して、人間は高次の世界を知覚した。この高次の世界の写し絵が、体と魂なのである。人間は自分が神界とつながつてゐると感じてゐた。神界についての認識は、感覚的な観察によつて得ることはできない、人間のエーテル体とアストラル体についての認識が、次第に神界の認識へと上昇してゆくのである。感覚的観察によつて、人間は自らの最奥の存在が属する神界から断絶されてゐると感じる。超感覚的認識を通して、人間は再び神界と結びつく。超感覚的認識が宗教に合流するのである。

 かうして、「自我」の本質が看取される。近代人は「自我」の本質を見失つてしまつてゐる。哲学者は、「自我」の中に魂的体験の総括を見るだけになつた。「自我」、霊人についての認識を有してゐた理念は眠りの中で消散する。眠りの中で、この「自我」の内容は消え去るからである。このやうな自我についての知識しか有さぬ意識は。宗教の認識に合流することはできない。(・・・)真の自我についての認識は現代の精神生活からは失はれてしまつた。それと共に、智から宗教へと向かふ可能性も失はれたのである。(・・・)宗教は科学的体験とは別のところで獲得すべき信仰内容となつた。智と信は二つの体験内容となつた。かつては、智と信は一つのものだつたのである。

 宗教が人間生活の中で再び正しい位置を得るためには、まづ真の「自我」の観想的認識を獲得しなければならない。現代科学は人間の肉体しか現にあるものとして了解してゐない。人間のエーテル体、アルトラル体、そして「自我」あるいは霊人が認識されねばならない。それが可能になれば、科学は宗教生活の基盤となる。

 これが人智学の第三の課題である。」

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