見出し画像

吉田 健一『昔話』

☆mediopos2721 2022.4.29

吉田健一の語りは
繰り返され繰り返され
何度繰り返されても
飽きることなく読み続けられる

(読み続けながら
吉田健一翁という語り部が
読むほどに深く
その存在感を増していく)

吉田健一が亡くなったのが昭和五二年で
この『昔話』が連載されていたのが
昭和五一年八月までだから最晩年の作品であり
解説の島内裕子の言葉を借りるなら
「吉田文学の入門書であると同時に、
総合的な意味での到達点として、位置づけられる」
ということがたしかに言えるだろう

『昔話』はこう始まっている
「過去にあったことは現在では完了しているから
明確な形をしているというのは
疑って見れば幾らでも疑えることである」

昔話の「昔」とは決して過去ではない
完了している過去ではなく
新たな形で今に生き直されている「昔」である
そこでは死者と生者との差異も超えられている

さらにいえばどんな「今」も
そんな「昔」でてきているといえる
「未来」でさえ同様である

吉田健一は「持続」という言葉も使っているが
おそらくベルクソンの影響もあるのだろう
その「持続」はある意味で
時間の過去現在未来の水平を超えた
垂直にひろがる奥行きのようなもの
それを「昔」として
そして言葉・語りとしてとらえたときに
「昔話」と表現することもできる

「古典」もまた「昔話」である
現在に生きていなければ「古典」ではない
現在紡ぎだされている言葉にも「古典」はあり
それはまさに時間の垂直軸における「持続」によって
広がりを得ていくものだといえる

みずからの内に「持続」する
「古典」であり「昔話」であるものを
どれほど持ち得ているかが
人間の豊かさでもあるだろう

逆にいえば
みずからの内に「持続」のないとき
人はただ水平を直線的に動くだけの
悲しい機械のようになってしまうことにもなる

■吉田 健一『昔話』
  (講談社文芸文庫 講談社 2017/2)

(「Ⅰ」より)

「過去にあったことは現在では完了しているから明確な形をしているというのは疑って見れば幾らでも疑えることである。」

(「Ⅱ」より)

「死んだ人間とまだ死なない人間の違いはそれ程大きなものではない。少なくともこういう意味ではでもし我々が聞かされる話に出て来る人間、或は我々が読む本や愛好する音楽の作者も我々の世界をなすものの中に入れるならばその世界は多分に死んだ人間で出来ていてそのわずかな一部が我々とともに現に生きている人間である。」

(「Ⅻ」より)

「考えて見れば話という言葉に昔を冠するだけ余計であってどういう話でもそれが話になる類のものであるならば昔話であるこよを免れない。今をなしているものは昔である。又我々は未来小説と言った形でこれから先のことを語ったものがどれだけ退屈であるか皆知っている。その例外にヨハネの黙示録とオォウェルの「一九八四」があるが退屈でない理由をこの二つに就て求めるならば何れもこれから先のことと断って置きながらそこにあるものは今とその今をなしている昔、及びこれに対する語り手の情熱であってまだありもしないことに情熱を覚えるのは難しい。いつも今があると逆に言うことも出来る。その今というのが何であるかを思うならば話という程の話が凡て昔話であることは更に明かになる筈であって我々がこの今というものに浸っている時に懐古の情も澆季の世の嘆きもあったものでない。併しこれはもう少し説明する必要があることかも知れなくて今が昔だというのは今の状態にあって今と昔が区別出来るものでないということなのである。」

「昔のことだけとか今のことだけとかいうのが昔と今という寧ろ実在しない区別によることであるから昔とも言えることが必ず出て来る点で我々に話と思える程の話は凡て昔話なのである。これは怪談にも見られることで誰かが窓から飛び降りて自殺したと伝えられているどこかの家の部屋に始終何か妖しいことがあり、それを或る日その窓から床までの距離に気付いたものがあって窓が低すぎる為にその死んだ人間がそこから自分で飛び降りたのではなくて足を滑らせて落ちたのだと指摘するとそれまで自殺したと思われていた怨みが消えてその後はその部屋で何も起こらなくなるというようなのはそこから落ちて死んだというのは昔のことでもそのこととそれに就いての誤解があって怨みが漂い、その怨みが現にあるからそれが消えもするのでそのどこまでが昔のことでどこからが今なのかは実は誰も詮索することも考えない。それが無駄なことであるのが初めから明かである為である。
 その怨みが消え去った後はその全部が昔話であるということでこの今と昔ということが一層あやふやなものに感じられて来る。」

「何よりも我々に必要なのは人間の世界を貫く持続とその認識である。アメリカ軍が我が国を占領してそこにいる人間が一変したという説がなされたことが既に荒唐無稽を通り越してそれをなした人間の正気を疑わせるに足る。併しそれがもし狂気だったならばその狂気に従って我が国の歴史は暗闇に包まれてそれは何も見えなくなる暗闇でもあった。これもそう決める方の勝手であって我が国の人間が昭和二十年を境に一様に頭が変になったとも思えない。その時も我が国の持続は世界の持続の一部をなしていたのでその認識が風潮というようなもので乱されるのでは人を攫って行くという意味での風潮という言葉に力を貸すことになる。その持続の認識は風潮とは別な系統のことに属するものでもし地道な暮らし方をしているならばその認識も自然に身に付けるに至る。それは地道に暮らすことも持続である他なくてそれは何であるかを知らずに暮らして行くことは出来ない為である。

 別に平穏無事に暮らすのを人間が太古から今日まで世界のどこかで続けて来てそれ故にこれが一番貴いことなのだというのではない。併しこれが人間が地上で生きて行くことの尺度になることは動かせなくてこの尺度があってそうして生きて行く人間の世界に対する視点が人間に与えられて戦乱に会ってもその像は崩れない。又この尺度が人間にその形を取らせて我々がどういうことにでも人間とその世界を認める時にその周囲に騒音は止んでただ平穏に時がたって行く。

(…)

 それが昔と言える程の昔でなくて今のことであっても少しも構わない。(…)我々も友達と話していて、或はただ新聞を読んでいてさえも世界が現に取りつつある形を感じることがある。併しこれは説明が必要になることのようで我々が知っている人間の世界がいつも同じであるのは絶えずその形を取っているからであり、その動きのうちでどれがその形であるかを必ずしも目前の動きから見分けることは出来ない。どれがそれであるかを言葉でも何でもが我々に教えるのは結局はその言葉その他が呼び覚ます我々が曾て知って来た人間の世界というものの記憶、或は目前のことで一次的に忘却したその印象であってここでも今は昔に繋がってその区別が余計なものになる。我々が一行の詩に動かされてその詩が作られたのが昔のことでそれに自分が動かされるのが今である時にこの昔と今に何の違いがあるのか。その詩は何れは又誰かを動かすかも知れなくてそうするとそれが未来のことになるというのではそうした過去と現在と未来の区別は無意味なものになるばかりである。併し一度あったことが過去ならば我々の現在は過去に、今は昔に満たされていると見ることも許される。そうすると我々が過去に生きていることになるのだろうか。そうした妄想を妄想とも思わないのは過去を既に終わったものとすることから来ている。」

(解説 島内裕子「統合集約の達成域」より)

「『昔話』は、『ユリイカ』に、昭和五十年九月号から翌年の八月号まで、十二回にわたって連載された。」

「『ヨオロッパの世紀末』は、吉田健一の著作の中でも名著の誉れが高いが、『ヨオロッパの世紀末』は、いわば吉田文学の達成域を把握するための序説・序章に当たる著作であり、そこで書いたことをさらに展開し、深化させることが、その後の吉田健一の文学的な営為となった。文学論から始まって、時間論まで辿り着いた思考の曲折を経て、さらにどのような展開が、可能であるか。吉田健一はみずからの思索の深まりを確かめるかのように『昔話』を書き進めたのではないだろうか。『昔話』こそは、吉田文学の入門書であると同時に、総合的な意味での到達点として、位置づけられる本であると、わたしは思う。」

「昔話とは、ある話が遠い過去の出来事であることよりも、それが幾度となく普段の生活の中で蘇り、繰り返し話題にされる点にこそ意味があるのだろう。たとえ、その話の内容を皆がすでに知っているとしても、何度聞いても飽きることがない。だから、古典とはすべて昔話であり、そこに親しみも湧く。

 吉田健一の文学世界に繰り返し出て来る話は、吉田健一にとって、幾度話しても飽きない懐かしい話であり、その懐かしい世界の現前を保証するものが文学である。言葉によって描き出すことができないものは、人間界に無いはずである。なぜなら言葉とは人間の異名であり、昔話をすることほど、そしてその話に耳を傾けることほど、人間的な行為はないからである。」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?