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鎌田東二『ケアの時代 「負の感情」とのつき合い方』

☆mediopos-2286  2021.2.18

「負の感情」はだれにでもある
「負の出来事」も数えあげればきりがない
避けられないならばどうするか

負の数と負の数をかけると正の数になるように
負があるときは避けて見ないようにするよりも
負を直視して逆手にとったほうが正に転ぶ

むしろ負のときに
どれだけ気づけるかというのが鍵だ

しかし逆境に対するときに
ひとはその真価がわかるともよくいわれるが
意外なことに逆境は否応ないがゆえに乗り切れるものだ

「「負の感情」とのつき合い方』」については
本書でずいぶん語られているので
ここでは本書に書かれていないところを少し

逆境よりもむずかしいのは順境のときなのではないか
そこでは「正の感情」しか働かないから
そこで「気づき」を得るのはむずかしくなる

正の数と正の数は
なんどかけても正の数だから
そこで負の数は決して生まれない

正の感情だけでうまくやっていけると
負の感情ゆえに見えるものは目に入らなくてすむ
しかし正の感情が巨大化してしまったとき
ほんの小さな負がそこに生まれただけでも
その巨大な正の感情は簡単に転んで負となってしまう

まして正でも負でもない「虚」がそこにからんでくると
ほとんど人間性を失ってしまうことにもなりかねない

思考中心で生きている人が
感情を育てることをしていないときにも
似たことが生まれたりする

思考中心で生きている人は
むしろ無意識に感情をスポイルしているから
その無意識部分にさまざまなコンプレックスを溜め込んでいる
しかもそれがひどく単純化されているので
そこに感情の「負」や「虚」が働きかけると
混乱を極めてしまうことも多い

感情には正もあれば負もあり
ときには虚さえもあり
それらの複合体をひとは生きている
その複合体を逞しく柔軟に生きられるならば
豊かに感情を育てながら
どんな困難も(もちろん順境さえも)
乗り越えてゆけるのではないだろうか

■鎌田東二『ケアの時代 「負の感情」とのつき合い方』(淡交社 2021.2)

(「第1章「負の感情」とケアの時代/日本人をつくる災難」より)

「わたしじしん、思いがけない「負の出来事」や、それによって生起してくる「負の感情」についていやおうなく向き合う経験をもつことになりました。もちろん、そのような経験を望んでいたわけではありません。けれども、望まなくても、アクシデントやハプニングはままおこるものです。人生には不条理や不合理だとおもえることがいっぱいおこってきますから。
 そこで、このような経験を通して、わたしは「逆境に強い生き方」ということを考えるようになりました。そして、「逆境に強い生き方」をしているひとに関心をもち。そのひとのことをよく観察するようになりました。その結論は、「逆境に強いひと」は自分の弱さやはかなさをよく知り、それをしっかりうけとめながらも、それに押しつぶされない強靱な信念や柔軟性をもっているというものでした。最近よく使われることばでいえば、「逆境に強いひと」は「レジリエンス」(自己回復力)をもっているということになるでしょうか。そして、「逆境に強いひと」は「負の感情」にたいするつき合い方がうまいということでした。
 それでは、「負の感情」とにつき合い方がうまいとは、どのようなことなのでしょうか? それはまず、その感情から逃げずに見つめることができなければなりません。人は見たくないものをあるていど見ないですむこともできます。こころの奥底にしまい込む。むりやり忘れる。封印する。そのようなことがうまくできるかどうかは別にして、そてに蓋をすることがあるていどできると思います。
 それにたいして、負の感情を封印するのではなく、むしろそれをばねにして飛躍する。跳ね返すのではなく、逆手にとるというか、それを糧にしてたくましく生きることができれば、「負の感情」も「逆境」もそのひとのちからになります。」

(「第2章 まなざしの転換-/キリスト教のメタノイア」より)

「キリスト教の「悔い改め(メタノイア)」ということばは、存在の根っこのところから、わたしたちにものの見方のありようをおしえてくれます。」
「「ヨブ記」と「反対の一致」は、危機におちいっていたユングやヘッセにメタノイア的な転換をもたらしたといえるでしょう。とすれば、「悔い改め=回心=メタノイア」とは、たんに倫理的道徳的な次元にとどまるものではなく、むしろ、思考や認識のレベルで自分をおおっている枠組みや殻をうちやぶって、あらたしいものの見方を獲得し、世界や自己をちがう角度から見てみるということにほかならないのです。わたしたちは、人生の岐路にあって、さまざまな方法で「悔い改め」すなわちメタノイアしていくことができるのだとおもうことは、ひとつのはげましであるとおもいます。それはまさしくこころの状態の切り替え、「心直し」であり、同時に「言直し」なのです。」

(「第3章 こころの浄化法について/仏教のワザ」より)

「「自業自得」ということばがありますが、極端にいえば、すべてはみずからの行為=業なので、その行為の結果=業報もじぶんがうけるべき業である、ということになります。じぶんがつくった業=行為を、じぶんがうけとるという単純なメカニズム。
 ですので、そう考えると、そもそも「業が深い」とか、「業が浅い」ということじたい、ないはずです。もちろん、「業」はあります。それは、「行為」ですから。なので、「悪業」(悪い行為)もあります。また。「善業」(善い行為)もあります。「善因善果・悪因悪果」ということばがあるように、善いことをして善い結果がでることもあります。」
「ですから、「自業自得」ということは、なにもわるいことばかりでなく、よいこともすべてふくむということになります。よって、「業が深い」じぶんであるなどと悩む必要はありません。」

(「第4章 自然のねっこへ/老荘思想と道教の心直し」より)

「老荘思想や道教と神道には親和性や共通点があると、いろいろなひとがいっていますが、わたしもそのようにおもうところがあります。そこでは、なによりも、自然の働きの玄妙さに、すなおに頭をたれ、人間的で人為的なはからいをすてて、その大いなる宇宙の海のなかに参入していくことをうながしているからです。
 老子も荘子も、神道も、考えすぎるな、こだわりすぎるな、じぶんの尺度だけでものを見るな、ことあげするな、とおしえています。そのような「じぶん離れ」や脱人間主義を推奨している点で、そして自然主義というか、道玄妙主義をつらぬこうとしている点で、とてもたいせつなメッセージを発しているとおもうのです。」

(「第5章 うたと日本的ケア/神道・和歌・俳諧」より)

「宗教という現象を、「聖なるものとの関係にもとづくトランス(超越)技術の知恵と体系」とひとまず定義してみますと、宗教がさまざまなかたちでの「トランス(超越)」のうごきや働きをとおして、こころやたましいのふかみにおりたって、生と死をささえる根源的なちからをひきだす心身変容技法をもっていることが見えてきます。
 そうした心身変容技法は、当然のように、自己の内部にわだかまってくる負の感情を浄化したり、昇華したり、開放したり、再意味づけ化したりして、さらなる生存に深みを掘りおこしつつ、進んでいきます。
 そこには、大きく分けると。物語(ナラティブ・神話伝承)や儀礼パフォーマンスと、内観(自己をみつめる、インサイト、瞑想、観想)のふたつの道がひらけています。その道は、わが国では、前者をおもに神道がにない、後者を仏教がにないました。そして、前者では、シャーマニズムのトランス的な神憑りや祭りやうたが、後者では、瞑想的で自己放下的な止観や禅がふかめられました。」

(「第6章 乱世と「負の感情」/伝統芸能のケア」より)

「もし習いごとが身につかないとおもっても、つづけることには意味があります。かならずやそれは、そのひとの経験の一部ですし、ちからになっています。」
「わたしの祖母はわかりころ、徳島で芸者をしていました。かのじょのくちぐせは、「芸は身を助ける」というものでした。祖父母といっしょに生活していたわたしは、祖母のことばをそのとおりだとおもっています。いつも、そのことばをかみしめます、習い事が身につくか、つかないか、短期的なスケールではかりきることはできないとおもうのです。
 謡であれ、お茶であれ、合気の道であれ、ぜひ、ごじしんと縁のある習い事をつづけてほしいと思います。それがあなたの縁であり、道であるとおもうからです。」

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