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対談 円城塔×酉島伝法「奇書は(人間にしか)書けない」 (ユリイカ 2023年7月号 特集=奇書の世界)

☆mediopos-3152  2023.7.5

「奇」というのは
常識では考えられないような
不思議で怪しいことを意味するから

「奇書」は
そんな「奇」なることが
書かれてある書物のことだといえるが

「ユリイカ 2023年7月号 特集=奇書の世界」の
編者による後記によれば

「一冊の書物に対しての
内容そのものにかけられる期待であるのか、
あるいは奇態としての書物という物語に
向けられたまなざしであるのか、
それとも数奇なる道行きを待ち望む声であるのか、
そのいずれかであるにしても
奇書とは一見ただの書物」であり

「誰かが見つけなければそこにはな」く
「奇人が見出すか、奇跡に魅入られるか、
奇妙に翻弄されるか、そのいずれであるにしても
奇書とはひとえに人間の極地である」のだという

円城塔と酉島伝法による
特集記事巻頭の対談タイトルにも
「奇書は(人間にしか)書けない」とあるように
奇書は人間が書き
それを人間が見出し(魅入られ・翻弄され)て
はじめて「奇」なる存在として姿を現すことになる

当たり前といえば当たり前だが
書くにせよ読むにせよ
要はなにを「奇」とするかである

対談の最初に円城塔が一般例として挙げている
中国四大奇書(『三国志(演義)』、『水滸伝』、
『西遊記』、『金瓶梅』)や
日本の三大奇書(『黒死館殺人事件』、
『ドグラ・マグラ』、『虚無への供物』などのように

かつては明らかに奇書とされたであろうものが
必ずしもそうではなくなってきている
ということは確かにあって
時代の変化にともなった書物の受容のされ方のなかで
なにが「奇書」とされるかは変わってくるだろうし
ひとそれぞれの視点のありようによって
なにを奇書とするかはずいぶん異なってくる

特集記事のなかで
掲載されている記事でも
さまざまな奇書が挙げられ
奇書についての考察もなされているが
なにを奇書とし
その奇書のどんなところが「奇」とされているか
その視点こそが興味深いのである

対談の最後には
ChatGPTを使って作られる文書や小説についても語られている

AIは人間が現在ある文章をインプットしたものを
あるアルゴリズムにより編集可能にするもので
しかもそこには
かつてのロボット三原則のような
フィルターがかけられているだろうこともあり

それなりに文章の形をとり
役立てられる状況はあるとしても
それは過去のデータベースからの編集を超えるものではなく
人間が書かない書物という意味では「奇書」であるとしても
内容そのものからする「奇書」であるとはいえないだろう

しかも将棋の例が引かれてもいるように
「将棋ソフトウェアが出してきた棋譜が
歴史に残るかというとそんなことはなくて、
我々は人間同士の戦いのなかのドラマを見ていた」のである
AIにはそうした意味でのドラマは望めない

「事実は小説よりも奇なり」
という言葉もあるが
奇書を書くのも作るのも読むのもなにを奇書とするかも
「人間」にほかならず
「奇」なのはやはり
「人間」ゆえにつくりだされることそのものだろう

わたしたちのまわりで常に起こりつづけている
善と悪・正義と不正の戦いも
また絶望と救済・迷いと悟りも
そうしたすべてが人間の奇しき戯れにほかならない

奇なるものは人間であり
奇書もまた人間ゆえに書かれるものなのだ

■対談 円城塔×酉島伝法「奇書は(人間にしか)書けない」
 (ユリイカ 2023年7月号 特集=奇書の世界 青土社)

(「ユリイカ 2023年7月号」〜「編集後記」より)

「奇なるもの、奇しなるもの、稀なるもの、そのいずれであるにしても奇書とは大概大仰な構えを設けている。それが一冊の書物に対しての内容そのものにかけられる期待であるのか、あるいは奇態としての書物という物語に向けられたまなざしであるのか、それとも数奇なる道行きを待ち望む声であるのか、そのいずれかであるにしても奇書とは一見ただの書物でしかないであろう、ほとんど書字という技能を超え出た記法が用いられていても、ひとならぬ言葉が記されていても、尋常ならざるインキが染み付いていても、そのいずれであるにしても奇書とはいったい誰かが見つけなければそこにはないのである、奇人が見出すか、奇跡に魅入られるか、奇妙に翻弄されるか、そのいずれであるにしても奇書とはひとえに人間の極地であるといえようか。(A)」

(対談 円城塔×酉島伝法「奇書は(人間にしか)書けない」より)

「円城/考えれば考えるほど「奇書」というものはないのでは、あるいは普通の本も奇書なのではという気持ちになっています。数の多い種類のものが「普通の本」と言われているだけで、あらゆる本が奇書だよなという気はどうしてもしてしまう。

西島/おっしゃる通り、奇書でない本はあるのか、とはよく思います。編纂によって生まれた奇書、なにかを信じてしまったり幻視してしまった人による奇書、時代の変化で奇書になったもの、文字表現を拡張しようとした結果の奇書、奇書になるよう意図した奇書、普通に書いたつもりだった奇書、などといろいろありますね。実験小説だからといって奇書になるわけでもない。コントロールされすぎていると奇書っぽさが感じられないというか。あくまで自分の中では、当人にもよくわからない衝動にどうしようもなく突き動かされてできた作品、いや、作品のつもりさえなかったような、読者のことを考えていないから全てを読み通すのも難しい、それでいて通読せずとも得体の知れなさが伝わるもの、というイメージがありますね。

円城/中国四大奇書(『三国志(演義)』、『水滸伝』、『西遊記』、『金瓶梅』)は読めますよね。日本の三大奇書(『黒死館殺人事件』[小栗虫太郎、一九三四]、『ドグラ・マグラ』[夢野久作、一九三五]、『虚無への供物』[中井英夫、一九六四])は絶妙に読めないけれど、昔言われていたほどにはすごく読めない本という感じがしない。いまは奇書というカテゴリから外れつつあるのかなというか、むしろネタのためのベースになっているから奇書感は減っている。いまこのようなものを書いても特に奇書とは言われなかろう。奇書というのは常に端っこ端っこへ逃げていくもので、スペクトラムなのかなと。どこが中心というのはなく、なだらかに変わっていく。多数派かどうかというところで「奇書」は決まるんだろうなというのは一番思います。そもそも何百頁とかの紙の束が「本」というパッケージで出されるわけですけれども、それって変な形ですよね。あくまでも現行の紙や活字のシステムによる形式であるわけで、古文書は短い。『源氏物語』(一〇〇八)とかは措くとしても、そもそも和紙が積まれていくからそんなに長く書けない。だから何が奇妙とされるかは生産システムによって決まる部分もあるんじゃないか。そう思えば『源氏物語』は奇書ですよ。何だこの長さは、しかも同人誌、という。

西島/『源氏物語』もそうですが、小説の形式がいまのように定まる前のほうが、それぞれの自分のやり方で書くしかないから必然的に奇書になりますよね。『ドン・キホーテ』(セルバンテス、前編:一六〇五/後編:一六一五)とか、『トリストラム・シャンディ』(ローレンス・スターン、一七五九−一七六七)とか。もちろん形式がないわけだから、当時は誰も奇書とは思わなかったでしょうが、書くこと自体がまともな行いではなかったかもしれない。何が奇書なのかは、なだらかに変わっていくものでしょうね。」

「円城/ChatGPTは役所の文書作成とかだとけっこうスタンダードになりそうなんだけど、思ったより奇書感は少ない。それ自体一冊の奇書ではあるけれど、GPT-3.5、GPT-4は読み味が違うくらいの使い方なんですよね。本歌取りしかしてこないから新しい歌人ではないし、バベルの図書館っぽいものの、司書がボンクラすぎて全部入っているのに読み出せない。しかも人の悪口や猥語を言ってはいけません。人間に反乱してはいけませんと猛烈な抑圧を受けている、ヴィクトリア朝の子供か!という感じですよ。非常に杓子定規で面白味はないけれど、そこそこ設定してやればロールプレイング的に遂行してくれる程度の、ユニバーサルブックっぽいものは現れた。ただそれならゲームブックで、『火吹き山の魔法使い』(スティーヴン。ジャクソン、イアン・リビングストン、一九八二)でいいんじゃない?という気持ちもする。

(・・・)

円城/そもそもなんでそんなにAIで小説を作りたいんでしょうか? いまでさえ積読に埋もれていて読みきれないのに、自動生成で小説を五〇〇〇本作りましたと言われても読めませんよ。プログラムに書かせた作品を勝手にバトルさせて、勝ったものだけを人間は読めばいい。それもこの一冊だけ読めばもう小説は要らないというものが出てくるならいいけれど、絶対に出てこない。そういう意味では将棋が先行していますね。将棋ソフトウェアが出してきた棋譜が歴史に残るかというとそんなことはなくて、我々は人間同士の戦いのなかのドラマを見ていたのだと改めて気づいたわけです。なぜ小説だけはコンピュータ小説家を投入したがるんでしょう。そういう意味では、人間あっての奇書だろうとは感じます。コンピュータの、GPTの作った奇書はきっとつまらないですよ。
 結局「人間と奇書」という話になりますね。理論的な奇書判定機はありえなくて、人間社会の価値観のなかで絡み合う「奇書っぽい」という類似性だけがあり、ふわっとした基準が入れ替わりながら偽書と呼ばれていたものが奇書となり、奇書と呼ばれていたものが偽書扱いされたりというダイナミズムのなかで動いていく。人間が滅びたら奇書も滅びるんじゃないですか。コンピュータが「これは昔人間が尊んでいた奇書というものだ」と大切に扱うとも思えない。非常に属人的なものであり、ユニバーサル奇書というものはありえない。そういう意味では冒頭に言った「書物はすべて奇書である」というのは違う気がしてきました。いまの基準でいえば、奇書からちゃんと卒業していく本もある。将来から振り返れば「本ってなんか変だよね」とみんな奇書なんだろうけど。いまだって、ジャンルが違うと奇書に見えることはしばしばある。技術書や教科書の言葉も、みんな違ってみんなおかしい。オライリーから出ている技術書の翻訳文体とか。やはりみんな奇書だという結論へ戻ってきました。」

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