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東畑開人「贅沢な悩み 第8回 臨床心理学の二柱の神——生存と実存(承前)」(『文學界』)/村上春樹「河合隼雄氏との対話」(『約束された場所で』)

☆mediopos3523  2024.7.10

東畑開人が『文學界』で連載している
「贅沢な悩み」の第8回は
「臨床心理学の二柱の神————生存と実存(承前)」

前回までの連載については随時とりあげてきているが
今回で「序論」としての第1部が終わるにあたり
やっと「贅沢な悩み」の位置づけが明らかになっている
(ここからやっと新たな問いへと向かっていくようだ)

臨床心理学には「二柱の神」
「生存」と「実存」がある

「生存」は「いかに生き延びるか」を問い
「実存」は「いかに生きるか」を問う

「いかに生き延びるか」に対応するのが
認知行動療法・トラウマケア・家族療法など
「いかに生きるか」に対応するのが
精神分析・ユング心理学・ロジャーズの人間性心理学など

この「二柱の神」のあいだに生まれた
「亀裂の存在が白日の下にさらされたのが1995年」

1995年には
阪神・淡路大震災とオウム真理教事件が起こっている
日本社会全体も1995年を境に大きく変質した

1995年までの経済的にも豊かな時代には
実存の心理療法が広がっていて
それ以降の「老いつつある貧しい」
リスクの増大した新自由主的な格差社会においては
「生存」の心理療法が求められるようになる

「いかに生き延びるか」が問われる時代には
「いかに生きるか」は「贅沢な悩み」となったのである

1995年までの心理療法を語ろうとすれば
「河合隼雄について語っておけばいい」という

「河合隼雄の臨床心理学は、問題を環境ではなく心に見出」し
内面の変容にコミットする」

「外的現実だけではなく、内的現実に焦点を当てる。
その上で、心の深層へと階段を降っていく旅路を共にする。
すると、心に変容が生じる。このような想像力によって、
心の問題を扱うのが河合隼雄の臨床心理学なのである。」

しかし1995年以降「世界は危険」になり
「河合隼雄の見ていた夢は悪夢にもなりうる。
心に多くを求めることは暴力になりやすくなる。
問題は内的葛藤ではなく、外的暴力にあるのだから、
心に沈潜する前に暴力を止めるべきであり、
話を聴くよりも先にトイレそうじをするべきである。
環境を整えることがケアになる。
これが95年以降の臨床心理学の想像力になった」

「実存」へむかう心理療法は
「贅沢」とみなされるようになったのである

「治す」のではなく「生きる」
河合隼雄の心理療法はそこに集約されているが
それが「贅沢」だとされる・・・

連載のなかでもふれられているが
河合隼雄にはオウム真理教をめぐって行われた
村上春樹との対談があり
村上春樹『約束された場所で』(1998)に収録されている

心の深層へと向かい
心の変容が起こるとき
そこでは「何が善で何が悪かという基準そのものが」揺らぎ
「善悪を超えたところ」が問題になる

つまり一人ひとりの
「隠された部分がどんどん露呈され」
そこでは「悪」の問題が避けては通れなくなる

(ひょっとしたら現代の現在進行形の悪の跳梁は
これまで隠されていたものたちが
次々と露わになっているということなのかもしれない)

それに関わることが「贅沢」だからといって
「生存」するだけの心理療法だけで
「実存」へと向かう必要がないとはいえない

たとえ目の前の「生存」が
切実な問題であるとしても
ひとはそれだけでは生きられない

「人々は社会的に生きると同時に、
個人的にも生きることを求めてやまない」からである

かつての時代に比べて確実に貧しくなっている
日本はいまや世界のなかでも貧困国化している
そんななかで求められるのはまず「生存」だろうが
だからといって「心」が貧しいままでいいわけではない

心貧しき者は幸いである
というような謙遜の意味での貧しさは
心の豊かさにつながる美徳だが
生存を脅かされる貧しさが幸いであるわけではない

生存か実存かではなく
生存も実存もともに
生かされる道はないのだろうか
はたして「二柱の神」は結ばれ得るか・・・

■東畑開人「贅沢な悩み 連載第8回
      4章 臨床心理学の二柱の神————生存と実存(承前)」
 (『文學界』2024年7月号)
■村上春樹「河合隼雄氏との対話」
 (村上春樹『約束された場所で』文藝春秋 1998/11)

**(東畑開人「贅沢な悩み 連載第8回」より)

*「「贅沢な治療」とは何か?

 暴力に対処し、いかに生き延びるかを追求する「生存の心理療法」から見ると、「贅沢な治療」に見える1995年以前の臨床心理学とはいかなるものであったのか?」

*「臨床心理学には二つの思想がある。

「いかに生き延びるか」と「いかに生きるか」、

「生存」の心理療法と「実存」の心理療法。

 この世界でいかに生き延びるかを問う臨床心理学と、この世界をいかに生きるかを問う臨床心理学・

 大雑把に言えば、前者に対応するのが認知行動療法やトラウマケア、家族療法などであり、後者に対応するのが精神分析、ユング心理学、ロジャーズの人間性心理学などである。グローバルにも、ローカルにも、臨床心理学にはこの二種が存在している。

 この二つの狭間で臨床心理学が軋んできた。そのような亀裂の存在が白日の下にさらされたのが1995年である。阪神・淡路大震災とオウム真理教事件は、それぞれに生存の臨床心理学の必要性と実存の臨床心理学の危険性を突き付けた。

 日本社会そのものも1995年を境に大きく変質していった。ものが豊かな「以前の社会」においては実存の心理療法が広がっていて、リスクが豊かな「以降の社会」では生存の心理療法が必要とされた、

 これが臨床心理学と日本社会の大きな見取り図である。」

*「私たちは生存という目的に実存という目的を対置した。

 ここに心と社会のあいだに広がる深い谷を見出すことができるはずだ。

 社会は生存を求める。それは正しい。しかし、心は実存「も」求める。人々は社会的に生きると同時に、個人的にも生きることを求めてやまないのである。

「贅沢な悩み」とはこの心と社会の不和のことであり、谷間のことに外ならない。

 そこには次のような問いたちが転がっている。

 心が生存するとはどういうことか。
 心が実存するとはどういうことか。
 何があれば、心は生存できるのか。
 何をなすことで、心は実存できるのか。
 心の生存と実存はいかなる関係にあるのか。
 それらに備わる社会的・個人的価値とは何か。

 これらの問いに臨床歴に、つまりきわめて実務的に答えることができたときに、贅沢な悩みの全容が明らかになるはずだ。」
 
*******

*「1995年以前の臨床心理学を語ろうとするならば、ひとまず河合隼雄について語っておけばいい。それで全体を掌握し、本質を浮かび上がらせることができる。」

「1995年以前の臨床心理学は、どこを切っても、河合隼雄の血が噴き出す。1980年代、90年代の日本社会には確かに河合隼雄の血が流れている。」

「河合隼雄の思想を理解するためには、まず1995年に至るまでの日本社会の空気を押さえておく必要があるのだが、そのためにはさらにその前の時代、つまり1970年に至るまでの日本社会を遠景で見る必要がある。

 1970年、人々は政治的だった。世界は冷戦のただ中にあり、反戦運動があり、学生たちは集会に出かけた。社会を変えねばならないという理想があり、社会は変わりうるという手ごたえがあった時代だ。その頃、問題は外的な現実に溢れていて、人間の幸福のために、変化すべきは社会だった。

 しかし、その後日本は豊かになった。1970年代には高度経済成長を終え、経済的には円熟期に入る。(・・・)

 必要最低限の「もの」は溢れ、必用以上の無駄なものがいくらでも手に入るようになった。贅沢の時代がやってきたのだ。」

「しかし、人々の苦悩は消えなかった。林郁夫が思い悩んでいたように、ものによっては満たされない問題があり、どうにも解決できない人間関係は残り続けた。

 ここに河合隼雄が現れる。

 「ものは豊かになったが、心はどうか?」

 そう、問いかけたのだ。

 河合隼雄の臨床心理学は、問題を環境ではなく心に見出す。信田さよ子が人間関係に生じている暴力に介入するのに対して、河合隼雄は内面の変容にコミットする。」

「心の深いところで意味のある動きが起こっている。この動きを見守り、育てていく。草花に水をやるように、心に「聴く」を注ぐ。そのようにして心は変容していくのである。これが精神分析にはじまる深層心理学の伝統であり、1995年以前の臨床心理学の基本的構成であった。」

*「外的現実だけではなく、内的現実に焦点を当てる。その上で、心の深層へと階段を降っていく旅路を共にする。すると、心に変容が生じる。このような想像力によって、心の問題を扱うのが河合隼雄の臨床心理学なのである。

「オウム真理教も河合隼雄も、心の階段を降ることでの心の変容を狙っていた。しかし、オウムが曝露したのは、階段の先に閉塞空間があり、そこには圧倒的な暴力が充満していることだった。」

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*「1995年を境に日本社会は変わった。その前には若くて豊かな日本があり、その後には老いつつある貧しい日本がある。

「貧しい」というのは、より正確にいうと、リスクが増大したということだ。格差が開き、セーフティネットが失われ、誰もが人生のリスクを抱える社会になった。政治学のタームで言うならば、1995年以前にあったのは福祉国家であり、以降には新自由主義国家があるということだ。」

*「社会は変わった。新自由主義によって、安全は社会が提供するものではなく、自分で確保するものになった。暴力にさらされ、孤立することがすべての人の潜在的なリスクになった。(・・・)

 阪神・淡路大震災はその象徴だったのだ。世界は危険になった。そのとき、河合隼雄の見ていた夢は悪夢にもなりうる。心に多くを求めることは暴力になりやすくなる。問題は内的葛藤ではなく、外的暴力にあるのだから、心に沈潜する前に暴力を止めるべきであり、話を聴くよりも先にトイレそうじをするべきである。環境を整えることがケアになる。これが95年以降の臨床心理学の想像力になったのだ。」

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*「河合隼雄は、村上春樹とオウム真理教をめぐる対談を行う中で、次のように自身の心理療法をクライエントに説明すると語っている。

  僕は治すことに熱心なんじゃなくて、あんたが生きることに熱心なんやから、それはほんまに長い時間がかかります。

「治す」ではなく、「生きる」。

 ここに河合隼雄の精神は集約されている。」

**(村上春樹「河合隼雄氏との対話」〜「『アンダーグランド』をめぐって」より」)

*「村上/現代の社会において、いったい何が善で何が悪かという基準そのものがかなり揺らいでいるということは言えますね。

 河合/それは言えます。『子どもと悪』という本を書いていても思ったんですが、何が本当に悪かというのを、表面から言っていくのが、ものすごく困難です。この社会が悪だと思っているもの、これは欠けるんです。そんなふうな言い方だったら、いくらでも言えます。ところがもうちょっと本質に降りていってものを言おうと思うと、いっぺんにむずかしくなる。

 村上/僕が感じたのもそれです。地下鉄サリン事件、オウム真理教事件というのがなかなかうまく捉えきれないのは、結局のところ「何が悪なのか」という定義がしづらいからなんですね。サリンを撒いて多くの人を殺したという行為一点に絞って言えば、これはもちろん悪です。議論の余地はない。ところがオウム真理教の教義をたどって解析していくと、それはあるいは絶対的な悪ではないかもしれないという筋道も出てきます。あくまで解釈の問題じゃないかと。その乖離みたいなのがあるんです。」

*「村上/これは僕の仮説なんですが、麻原の提出した物語が彼自身を超えてしまったということも起こりうるんじゃないかと。

 河合/それがストーリーの恐さです。スト−リーの持つパワーがその個人を超えてしまうんです。そして本人もその犠牲になっていくんです。そうなると、もう止めようがなくなってしまいます。」

*「村上/「善悪を超えたところ」という話が出たところで思い出したんですが、こんなことを言うといささかまずいかもしれないけれど、取材していて肌身に感じたことがひとつあります。それは地下鉄サリン事件で人が受けた個々の被害の質というのは、その人が以前から自分の中に持っていたある種の個人的な被害のパターンと呼応したところがあるんじゃないかということです。

 河合/まったくそのとおりだと思います。それはやっぱるその人が受けとめるわけですから。だからそれがたとえばちょっとしたものであったとしても、その部分を通してぱっと拡大されて出てくるわけです。だからこのようなものを書くのがむずかしいのは、一人ひとりのそういう隠された部分がどんどん露呈されてくるというようなところにもあります。個人的なものごとまでも。だからとてもむずかしいんです。

 村上/ただ単純に罪のない一般市民が意味のない事件でたまたまこういう被害を受けました、というだけではないんですね。内部と外部とは、どうしようもなく結びついている部分があります。そういう意味ではこの本を書くために僕がやったことは、僕にとってきわめて有意義なことではあったけれど、同時にぞっとするほど恐いことでもあったと思うんです。」

**(村上春樹「河合隼雄氏との対話」〜「「悪」を抱えて生きる」より」)

*「河合/あれだけ純粋な、極端な形をとった集団になりますと、問題は必ず起きてきます。あれだけ純粋なものが内側にしっかり集まっていると、外側に殺してもいいようなものすごい悪い奴がいなと、うまくバランスが取れません。そうなると、外にうって出ないことには、中でものすごい喧嘩が起こって、内側から組織が崩壊するかもしれない。

 村上/なるほど。ナチズムが戦争を起こさないわけにはいかなかったのと同じ原理ですね。膨らめば膨らむhど、中の集約点みたいなところで圧力が強くなって、それを外に向けて吐き出さないと、それ自体が爆発してしまう。

 河合/そうです。どうしても外を攻撃することになってしまいます。ずっと麻原が言っていたでしょう、我々は攻撃されているって。それは常に外側に悪を置いておかないと、もたないからです。

(・・・)

 河合/だからね、本物の組織というのは。悪を自分の中に抱えていないと駄目なんです。組織内に。これは家庭でもそうですよ。家でも、その家の中にある程度の悪を抱えていなうと駄目になります。そうしないと組織安泰のために、外に大きな悪を作るようになってしまいますからめ。ヒットラーがやったのはまさにそれですよね。

(・・・)

 村上/それが河合先生の言われる「危険性」なんですね。」

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