幡野広志「みんな普通で困っている 第10回 世界はあいまいでできている」(webちくま)/河合隼雄・中沢新一『「あいまい」の知』
☆mediopos3527 2024.7.14
幡野広志のwebちくまでの連載
「みんな普通で困っている」の第10回は
「世界はあいまいでできている」
「ほとんどのものはグラデーションだ。
〇×しかない世界じゃないし、
正解はもっとたくさんあったりする。」
という話だ
世の中を見渡してみると
○か×か
白か黒か
正しいか間違いか
善いか悪いか
(それらの根底にあるには
好きか嫌いかに他ならないが)
といった貧しい思考があふれている
「ほとんどのものはグラデーション」であり
さらにいえば「グラデーション」というより
それを判断する視点とその判断される対象との関係で
さまざまに変化するともいえる
そして「正解はもっとたくさん」あり
さらにいえば
「正解」かどうかも視点によって変化する
従ってある程度固定されている視点で見たとしても
対象はグラデーションであり
さらに固定されない複数の視点からみるとき
そのグラデーションもさらにさまざまに変化する
「世界はあいまいでできている」し
さらにいえば
視点しだいで
その「あいまいさ」もさまざまな姿であらわれる
○か×かという見方があらわれやすい背景には
近代科学のように
「研究者と対象は完全に切断されているから
これはoperateしたりmanipulateしたりできる」
(河合隼雄「曖昧さと「私」」)
というように
関係性が切り離された客観性が成り立つという
臆見があるともいえる
しかし私たちは関係性のなかに置かれ
しかも対象も多義的であるとともに
それを見る主体も決して固定的なものではない
「世界はあいまいでできている」の話のなかで
「そもそも白黒思考の人は、答えはひとつしかないと思ってる」
「白黒思考に染まっていくと、世の中を
「敵と味方」の2色に分けて考えるようになる」
といったことが示唆されているが
そうした「白黒思考の人」の場合
自分がどんな視点から見ているかにも
またじぶんが白か黒かを判断した対象が
「100%どっちかだけってことはない」ことにも
自覚的であるとはいえないままに
すぐに「答え」をだそうとしたりする
たとえば性別や世代にしても
「個別を見」ないでひとくくりで語ろうとする
白黒思考の人の場合
「「敵と味方」の2色に分けて考えるようにな」り
「ぜんぶ自分と同じ考えじゃないと
簡単に敵認定してしまうようにもなる。」
「敵と認定した相手には無駄に攻撃的になるし、排他的になる。」
「大切なのは、グレーポジションの人間として
「この部分は賛成だけど、この部分は反対」って
判断を重ねていくこと」だと思われる
これは決して相対主義なのではなく
みずからの視点とその対象への判断を自覚し
両者とその関係を一義化しないでいるということなのだが
世の中では自分も対象も固定化して
○か×かに決めてしまうような
わかりやすさが求められてしまいがちのようだ
■幡野広志「みんな普通で困っている
第10回 世界はあいまいでできている」
(webちくま 2024年7月12日)
■河合隼雄・中沢新一『「あいまい」の知』(岩波書店 2003.3)
**(幡野広志「みんな普通で困っている」より)
*「ほとんどのものはグラデーションだ。〇×しかない世界じゃないし、正解はもっとたくさんあったりする。」
*「小学生の息子には何かにつけて、「○×で考えるのやめよう」と教えている。子どもには○×って言い方がわかりやすいからこう呼んでるけど、「白黒思考」とか「0-100(ゼロヒャク)思考」って言うとちょっと大人な感じになるだろうか。かんたんに言うと、極端に考えるのはやめよう、すべてのことには<間>があるんだからって教えだ。
これはいろんな状況で伝えてるんだけど、子どもにいちばん伝えやすいのがなにかを習得するときの話。たとえば授業で跳び箱を習ったとして、子どもは「できる=○」「できない=×」と単純な2軸で考えて一喜一憂してしまいがちだ。そりゃそうだよね、人生8年目だもん。
でもじつはその考え方ってあまり正確ではなくて、僕は息子に「両端に○と×が書いてあるメジャーをイメージしてしてごらん」と伝えている。左の端には真っ黒なインクで「×」が描いてある。そこから無数の「×」が続くんだけど、ちょっとずつ「○」が混ざってインクの色も薄くなっていく。そして真ん中あたりで完全グレーの「×○」になって、さらに右に進むと「○」の割合が増えて白に近づいて、右端で完全に白い「○」になる。そんなメジャー。」
*「そしてこの「物事にはグラデーションがある」論は、「できる/できない」に限った話じゃない。ほとんどの物事は、濃淡こそあれグラデーションの中にある。」
「周りを見ても、いい人も悪い人も100%どっちかだけってことはないでしょ? いい人でも少し自己中なところがあったり、悪い人でも情に厚かったり。最近はドラマやアニメでも「悪にも事情があるよね」ってトーンの作品がほとんどだし(・・・)。」
*「真っ白/真っ黒、ゼロ/ヒャクといった極論はわかりやすくてキャッチーなんだけど、社会でうまく生きていくためには半端さを心がけるほうが大事だったりする。
「たとえば「自責的であれ」って考え方。一種の自己責任論。起こってることは自分の責任だって考えるのはときに必要なスタンスではあるんだけど、「いついかなる場合もすべてひとりで背負わねばならない」って100%自責ポリシーの人がいたらかなり危ういよね。」
「一方で100%他責ポリシーの人はほとんどサイコパスで、近くにいる人のメンタルを容赦なく破壊してしまう。成長もできないし、もちろん人から好かれない。
だから大切なのはバランスだ、ほどほどに自責でほどほどに他責。ケースバイケース。どっちつかず。」
「こうしてその都度バランスを取ることと同時に、個別を見ることも大切だ。たとえば世代論。「みんな」なんていないと理解してたら、「若者は句読点をつけない」みたいなおおざっぱな「いまどきの若者像」を真に受けて振り回されたりしない。
知り合いが20代前半の息子さんに「若者ってみんな倍速視聴してるの?」と聞いたら、「んなわけないじゃん」と返されたと言っていた。(・・・)現実世界はケースバイケースだらけだし、「人による」だらけなんだから。」
*「そもそも白黒思考の人は、答えはひとつしかないと思ってるんだよね。でも実際の「正解」ってもっとたくさんあったりするし、時間の流れで変わっていったりもする。」
「科学も「絶対」が「絶対に」ない領域なんだって。「今わかっている範囲だとこうなる可能性が高い」と説明するのが誠実な態度。なのに、「結局どうなんですか!?」「絶対に大丈夫なんですか!?」ってすごい形相で詰め寄る人、コロナ禍でたくさん見たでしょ。「絶対ではないが可能性は低い」みたいな言葉にキーキー言っちゃう人。でも「絶対」、つまり反証可能性がないのはもう宗教なんだよね。」
「「答え」に飛びつかないこと、極論をあやしがること、そして反対意見にも耳を傾けることは、知的で科学的な態度だ。言い切らない人、意見を変えられる人のほうが誠実だって頭の片隅に置いておくと、人を見る目の養成につながるかもしれない。」
「白黒思考に染まっていくと、世の中を「敵と味方」の2色に分けて考えるようになるのもめちゃめちゃ怖い。しかも、ぜんぶ自分と同じ考えじゃないと簡単に敵認定してしまうようにもなる。敵と認定した相手には無駄に攻撃的になるし、排他的になる。嫌われるし学べない。それじゃ人生、どん詰まりだよね。
大切なのは、グレーポジションの人間として「この部分は賛成だけど、この部分は反対」って判断を重ねていくことだ。まるっと判断しない。」
「繰り返すけど、現実は「間」も妥協も譲歩もありまくりだ。○×、白黒、ゼロヒャク。こういう考え方に囚われると、大人社会ではうまくやっていけない。
凡庸だしキャッチーさに欠けるんだけど、堂々と「そこそこ」「まあまあ」「一部は」「場合による」「人による」みたいなあいまい人間でいよう。」
**(河合隼雄・中沢新一『「あいまい」の知』〜河合隼雄「曖昧さと「私」」より)
**「私は、心理療法家psychotherapistとして仕事をしているわけです。そのときに思いますのは、私のやっていることは少なくとも近代科学とはまったく違うことをしている。なぜかというと、近代科学というのは研究者と対象は完全に切断されているからこれはoperateしたりmanipulateしたりできるわけですね。ところが私は相談に来られた人と完全に関係をもっている。しかもその関係を非常に大事にしている。それは先ほどの雅楽の伝達にマン・ツー・マンの形を大事にしているのと似たところがあると思いますが、人から人へというのをすごく大事にしている。実際は心理療法家にも種類がありまして、心理療法家を自然科学的にやっていて、自分は患者をoperateしたりmanipulateしたりして治していくことができると考えている人がいます。アメリカに非常に多いと思います。しかし私はそれとまったく違いまして、来られた人に対してoperateすることもmanipulateすることもできないと思っています。なぜかというとわれわれは関係の中に生きている。関係の中に生きているということと、対象の多義性ということをむしろずっと保存しておきたいと思っています。
それを一般の人は、私の前にいる人をたとえば非行少年であるとか殺人犯人であるとかヒステリーの患者であるとか一義的に定義するわけですね。ところが私は一義的定義を取りはらって、「この人は多義的で、何になるかもわからない」と思っている。」
*「私と私の前に座っている人との境界は、普通は「I and You」というのは離れているわけですが、この境界が非常に曖昧になってきます。時には来られた人の症状がこちらに移るということもあります。ものの言い方まで移るときもあります。それくらい一体になっているけれども、一つではない、やっぱり違うわけですね。そういうことをやりながら、あるいは私の生き方を考えますと、この「I」というもの、「私」というものは、いったい、どんなふうに生きてきいるのかとか、どの程度の曖昧さをもっているのか、ということが問題になっていきます。」
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